男の友情を壊すものは
「あ。おじさん! 来てたんですね!」
シェーンブルンの庭園で、フランソワが、喜びの歓声をあげた。
アルプスの植物を集めた一角で、大叔父のヨーハン大公が、泥だらけになって、作業をしていた。
「おお、フランツ!」
ヨーハンも、微笑んで、兄の孫を迎えた。
「高山植物が心配でな。ま、こいつらには、暑い下界の夏より、寒い冬の方が過ごし易いだろうが」
「奥様は、お元気ですか?」
「ああ」
照れくさそうに、ヨーハンは頷いた。
この年(1929年)の2月、ヨーハンとアンナは、ようやく、兄の皇帝によって、結婚を許されたばかりだった。
しかし、この結婚は、一般にはまだ、秘されていた。ヨーハンは、普段は、妻とともに、アルプスの麓、シュタイアーマルクで暮らしていた。アンナとの結婚を機に、より一層、シュタイアーマルクの農業の機械化や交通手段の利便化などに尽力していた。
「私達は、
低木に
「母上に? なぜ?」
藁で編んだ紐をひっぱりながら、フランソワが問い返す。
「彼女が、ナイペルクとの結婚を
「……」
「ま、同じことなら、もう少し早く、話してくれたら良かったのに。私はアンナを、ずいぶんと長いこと、待たせてしまった。その間ずっと、ひどい心労をかけてしまった」
マリー・ルイーゼとナイペルクとの結婚もまた、貴賤婚だった。
今思えば、皇帝が、ヨーハンの結婚を許可したのは、マリー・ルイーゼが、ナイペルクとの秘密の結婚を打ち明けてすぐのことだった。
喜びのあまり、すぐには気がつかなかったが、つまりは、そういうことだと、最近になって、ヨーハンは思い至ったのだ。
兄の皇帝に対し、純粋な感謝の念しか抱いていない、と言ったら、嘘になる。マリー・ルイーゼの貴賤婚がなかったら、恐らく、自分たちの結婚は、許されることはなかったろう。
やはり、
そのことを、恨むつもりはないのだが……。
ヨーハンと、兄カールは、長兄の皇帝より、人気があった。実力も、長兄より秀でている。
廷臣たちが、そう評価していることを、ヨーハンは知っていた。
多分、それ故だろう。兄のカールは、さっさと軍務を退き、半ば隠遁生活に入ってしまった。しかし、ヨーハンは、今でも、軍籍にある。
シュタイアーマルクの開発も、胡散臭い目で見られているのだろう。
未だに、ヨーハンには、軍の最高位、元帥の位が与えられていない。
メッテルニヒはじめ、兄の臣下たちが、自分の忠誠を疑っていることは、間違いなかろう。
この息苦しさが、ヨーハンの足を、いよいよ、ウィーンから遠ざけていた。
彼の中で、母親の再婚による傷が、まだ、癒えていないことを、ヨーハンは悟った。そういえば、あれから、1年近くが経つというのに、マリー・ルイーゼは、まだ、息子に会いに来ていない。
「……」
フランソワは答えなかった。
「一度、君も、アルプスへ来いよ。一緒に、山に登ろう。軍に入ったら、ウィーンから出るのだろう? 俺の家にも、泊まりに来るといい」
励ますように、ヨーハンは言った。
口でいうだけは、決してなかった。彼は、ある有力者に、フランソワをウィーンから出すよう、頼んでもいた。
ザウラウ侯である。
警察大臣でもあったザウラウは、秘密警察機構の強化に尽力した人でもあった。ヨーハンとは、ナポレオン戦争の時、共に戦った仲である。兄帝の、重要な顧問でもあるこの重鎮に、ヨーハンは、グラーツからウィーンへの鉄道敷設を提言している。
ザウラウ侯に話を持ちかけたのは、フランソワに対する、贖罪の気持ちだった。
祖父を除けば、宮廷の誰よりも、フランソワは、ヨーハンを慕っていた。次兄のカールよりも、ヨーハンといることを好んだ。幼い頃から彼は、ヨーハンが大好きだった。
だが、事実上、ヨーハンは、アルプスに入り浸りだった。フランソワが、ウィーンから出られないことを承知の上で。
彼は、自分を慕ってくれているこの若者を、ずっと、放置してきた。
だが、妻を優先することは、ヨーハンにとって、当たり前のことでもあった。
「そりゃ、若くてハンサムな君を、アンナに会わせることは、あんまり食指が動かないけどね。でも、心配はいらない。彼女は、それはそれは優しく貞淑で……」
ヨーハンは言葉を途切らせた。
それほど、フランソワは、悲痛な顔をしていた。
「いったい、いつのことになるか」
消え入るような声で、彼はつぶやいた。
期せずして、
「お母さんに、頼んでみろよ」
唆すように、ヨーハンは言った。
悲しげな瞳が、不審そうに瞬いた。
「母上に?」
「とっとと、入隊させるよう、彼女から皇帝に、進言してもらうんだ。いいか。今こそチャンスだ。彼女の脛の傷を、思いっきり突いてやれ。彼女が君に与えた痛みを、心ゆくまで、利用してやるがいい」
「……」
あっけにとられたように、フランソワは、年輩の親戚に目を向けた。
顰められた眉を見て、思わず、ヨーハンは吹き出した。
「そういうことを、お前に勧めてくれる友達は、いないのか?」
「……はい」
「これだから、貴族ってやつは……。フランツ、言ったじゃないか。庶民の友達を作れ。そしてできたら、民の中から、妻を選ぶんだ」
「おじさん……。またそんなことを言って!」
ヨーハンは、辺りを見回した。
「今日は、あのスパイの姿がみえないようだな。あの、黒い髪の、東洋系の……」
「……」
「あれは、まるで、犬だな。それも獰猛な。お前に何かしようとする輩がいれば、後先考えずに、飛びかかっていくタイプだ」
フランソワの身の回りで、一番、洗練されていない若者だった。いきがっているが、純朴さが丸見えだ。それは、アルプスの住人達の、素朴な優しさに似ている。窮屈な宮廷で彼の姿を見ると、ヨーハンは、ほっとしたものだ。
「……」
明るくなりかけていたフランソワの顔が、一気に曇った。俯き、ぼそりと、つぶやいた。
「彼なら、もう、いません」
「死んだのか?」
励まそうとしたのに逆効果だったかと、ヨーハンは憂えた。
フランツの身の回りに、庶民がいることは、良いことだと思っていたのに。きっとその先に、フランツにとっての、突破口がある筈だ。庶民から妻を得た大公は、そう、信じていた。
「死んだ? まさか」
吐き捨てるような答えが返ってきた。
「どこかの国へ出掛けていきましたよ。ウィーンに、僕を置いてね」
「ああ、あいつは、秘密警察官だからな。外国で、仕事ができたのだろう」
ほっとして、ヨーハンはつぶやいた。
「知りません」
にべもない口調で、フランソワは答えた。
「おじさん。今日は僕の方から、貴方に、警句を進呈しましょう。幸せなあなたは、ご存知ないようだから」
何を言い出すのかと、ヨーハンは身構えた。
口下手な大公は、この若者には、言い込められてばかりいる。
「いいですか、おじさん。男の友情を壊すものは、女です」
「は?」
あっけにとられ、大公は問い返した。
「……」
フランソワは、繰り返さなかった。
低い木立に引っ掛けられた紐を、ぐいと引っ張った。
*
1829年12月29日 カール大公の妃、ヘンリエッテが亡くなった。
彼女を、カプチーナ礼拝堂(ハプスブルク家代々の墓所)に葬るには、異論が出た。
ヘンリエッテは、プロテスタントだったからだ。
クリスマスに、ツリーの蝋燭に火を灯すという習慣をオーストリアに持ち込んだのは、彼女だ。
ウィーンの宗教的な寛容特別地域には、彼女の為に、プロテスタントの祈祷館が造られていた。だがこれは、彼女の死により、取り壊された。
カール大公妃ヘンリエッテは、ハプスブルク家が始めて迎えた、プロテスタントの配偶者だった。
「生きていた時に我々と一緒にいた者は、死して後も、一緒にいるものだ」
皇帝はそう言って、
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