ナポレオンの母


 アシュラがまず赴いたのは、イタリアだった。



 フランス革命は、旧体制アンシャン・レジームを否定したから、必然的に、宗教による支配をも否定した。

 しかし、革命で荒れた人心は、神の愛と加護を必要としていた。

 ナポレオンは最初、ローマ教皇との間の取り決めコンコルダにより、カトリックを復活させた。(ただし、これは、配下の軍人たちの批判を浴びた)


 宗教のない社会は、常に内乱の危険をはらんでいた。それに、いくら革命があったからといっても、貧富の差は、依然として存在する。これら格差の存在を民衆に認めさせるには、宗教の力が必要だった。

 また、ローマ教会カトリックと和解すれば、国際的にも評価されよう。

 そのような目論見からだった。


 だが、ナポレオンは、そもそも宗教というものを信じてはいなかった。


 ナポレオンとローマ教皇、宗教紛争のきっかけは、教皇が、大陸封鎖に協力しなかったことだ。ちなみに、ピウス7世は、ナポレオンの戴冠式に出席した教皇でもあった。もっとも、ナポレオンは自分の手で王冠を頭に載せ、ついで、足元に跪いたジョセフィーヌにも冠を被せたのだが。


 イギリスに対して宣戦を迫るナポレオンに、ローマ教皇ピウス7世は、中立を宣言した。ナポレオンは、ローマに兵を送り、1年後には、フランスに併合してしまう。


 これに対して、ピウス7世は、ナポレオン破門を示唆した。すると、ナポレオンは教皇を、イタリアのサヴォナに、後に、フランスのフォンテーヌブローまで連行し、監禁してしまった。またこれに反対する司教たちを一斉に逮捕、投獄した。その上で、教皇から、司教の任命権を奪い取ってしまう。


 こうした宗教紛争は、しかし、人民には理解しがたいものだった。

 信仰は、人々の習慣でもあったからだ。人々にとって、教会や宗教行事は必要なものであったし、教皇はじめ彼が叙任した司教は、敬愛の対象だった。



 やがて、連合国がフランスに進撃し、ナポレオンは教皇を解放した。そして、ナポリ王ミュラ(ナポレオンの部下で、妹カロリーヌの夫)がナポレオンを裏切り、ローマを占領するに及んで、急ぎ、教皇領をも復活させた。



 この5年間に亘る監禁と迫害を、ローマ教皇ピウス7世は、ただただ、耐え忍んだ。

 温厚で優しい教皇への迫害は、スペインでの戦争の泥沼化、ロシア敗戦を経て、次第に、民との乖離に発展していく。

 教皇迫害は、明らかに、ナポレオンの失策であった。



 だが、教皇ピウス7世は、寛大だった。

 彼は、フランスから追放された、ナポレオンの母レティシア、叔父フェシュ枢機卿はじめ、ボナパルト一家を、教皇領に受け入れた。これは、単純に、好意からだった。


 また教皇は、ナポレオンを、「私の親愛なる息子」と呼び、最後まで、「やや頑固な息子でしたが、まだ、息子です」と言っている。

 臨終に際しては、セント・ヘレナへ、司祭を派遣してもいる。




 慈悲深くも、教皇ピウス7世が、ローマに招く前。

 ナポレオンの没落に伴い、その親族は、オーストリアへ追放された。

 フランスから追放された先で、彼らは、セント・ヘレナに幽閉中のナポレオンへの支持を集める恐れがあった。メッテルニヒのオーストリア警察の監視下に置くのが、一番安心できると、連合国は、判断したのだ。

 ローマへ移る前の短い期間、彼らは、オーストリアで過ごした。



 アシュラの上司、秘密警察官のノエは、この頃の伝手を使った。ナポレオンの親族が、オーストリアにいた時の知り合いを頼ったのだ。

 ノエは、ナポレオンの姪(一番上の妹の娘)、ナポレオーネ・エリザ・カメラータへの紹介状を手に入れた。







 ……おかしいな。確かにここでいいはずだ。

 太陽の光を吸って、強烈に輝く白い石柱の陰で、アシュラは、きょろきょろ辺りを見回した。


 イタリアのローマ。

 この時間のこの場所に、ナポレオンの姪の使者が、彼を迎えに来るはずだった。

 しかし、見渡す限り、誰も居ない。黒い犬が、一匹、柱に向けて片足を上げた。


 その時、遠くから、振動が伝わってきた。馬の蹄の音だ。ほっとして見渡すと、無蓋の馬車が、もうもうと土煙を上げて近づいてくる。

 ……あれか!


 馬車は凄い勢いで近づいてきた。およそ、止まりそうにない勢いだ。アシュラめがけて突進してくる。二頭建てのどちらの馬も、鼻を開き、もの凄い形相をしている。


「乗って!」

御者台から、御者が叫んだ。


 ……え?

 ……女?


「早く!」

 わずかに、馬が速度を緩めた。

 アシュラは、馬車に引っ張り込まれた。





 「あ、あのう、」

 もう何度目か。

 アシュラは御者台に話しかけた。

 御者台に座っているのは、明らかに女性だ。それなのに、男の自分が、のうのうと、座席に座っているわけにはいかないと思ったのだ。

「黙って!」

御者は叫んだ。


 言われるまでもなく、それ以上にしゃべることはできなかった。舌を噛みそうになる。ものすごい揺れである。辺りの景色が、上下にぶれながら、あっという間に流れ去っていく。

 殆ど、命がけの疾走だった。


 それなのに、呆れたことに、御者が、大きく鞭を振り上げた。

「そっ、それはっ!」

 ……止めて方がいい。

 言う暇もなかった。


 ぴしり。

 湿った音が、鳴り響いた。

 アシュラは、真から命の危険を感じて、馬車の支柱にしがみついた。





 馬車が行き着いた先は、ローマ郊外の、小さな家だった。

 けろりとして、女性は、御者台から滑り降りた。

「お疲れ様。ええと、」


 ……助かった。

 ……まだ、命があるぞ。

 ふらふらと、アシュラは立ち上がった。情けないことに、膝が震えている。

「アシュラ・シャイタン」

震える声で、答えた。


「ああ、そうそう、アシュラ。あなたのことは、ウィーンから、連絡が来ているわ」

彼が、よろめいていることに気づいたようだ。

「あらあら。手を貸しましょうか」

「だ、大丈夫ですから」


 女性に手を借りるわけにはいかない。アシュラは、自力で馬車から降り立った。

 眼の前の人物を、じっくりと眺める。

 丈の長い胴衣チュニックに、ズボン姿だ。暑い季節なので、シャツの首筋は、大きく開いていた。足元は、編み上げ靴で固めている。


 ……女、だよな?


「私は、エリザ。エリザ・ナポレオーネ・カメラータ。ナポレオンの姪よ」


 ……女だ。


「あの……」

「ああ、この服のことね」

めんどうくさそうに、ナポレオーネは言った。

「みんな、聞くわ。あのね。ドレス姿で、乗馬やフェンシングはできないじゃない?」


 ……フェンシングもやるのか。


「こっちへいらっしゃい」

ナポレオーネは、アシュラの手を引いた。

「お祖母様がお待ちよ」


 お祖母様……。

 それは、ナポレオンの母、レティシアのことだ。


「ローマ王の話を、たくさん、してあげてね!」





 ナポレオンの母、夫の死後、女手ひとつで7人の子どもを育て上げたレティシアは、目が見えなくなっていた。

 政治的対立で、故郷コルシカ島を追われ、息子ナポレオンの凋落で、フランスを追われ……。


 「あの子は、自分が何をしているのか、わかっちゃいなかったのさ。あたしは、皇帝即位には、反対だった。だって、世の中ってもんは、いつもいつも、同じ調子ってわけじゃ、ないからね。登りつめれば、必ず、下り坂が待っている……」


 いつまでも続く祖母の繰り言を、エリザ・ナポレオーネが遮った。

「おばあちゃん、この人は、ローマ王の話をしに、ウィーンからきてくれたのよ」

「おお!」

レティシアの見えぬ目に、光が宿った。


「あの子こそが、あたしの希望! いいかい。あたしは、最初の結婚には反対だったんだ。ジョセフィーヌのババァとの結婚にはね! 全くあの、オツに澄ました貴婦人ヅラったら! あの女は、自分が高級だと思ってるんだよ! あたしの息子ナポレオンよりもね! ああ、テュルリー宮殿でのの時の、あの女の顔ったら!」


 その時のジョセフィーヌの顔を思い出したのか、レティシアは、にんまりと笑った。

「胸がすかっとしたわ!」


 「でも、おばあさまは、マリー・ルイーゼ皇妃は、お好きだったんでしょ?」

すかさず、エリザ・ナポレオーネが決めつける。レティシアは、もったいぶって、頷いた。

「ああ。二番目の妃は、それほど器量が良くなかったからね。性格も地味だし、全てにおいて、控えめだった。ジョセフィーヌ最初のヨメとは、大違いさ!」


「おばあちゃんは、ローマ王のことも、とても可愛がっていたのよ」

 アシュラに向けて、ナポレオーネが囁いた。


 目は見えないのに、耳は達者なのか。

 小さなその声を、老婆は、素早く拾った。


「ローマ王!」

彼女は叫んだ。

「あの子はどうしてる? ウィーンのお祖父さんは、どうして、あたしらに、あの子を会わせてくれないんだい?」


 見えない目が、アシュラの上に据えられている。

 アシュラは戸惑った。


「オーストリアの皇帝としてのお立場を、ご理解頂きたい」

やっとのことで、彼は言った。

「しかし、彼は、オーストリアで、最高の教育を与えられ、立派な貴公子に成長しました」


 レティシアの、皺だらけの顔がほころんだ。

「おお! そうかい! 立派な男の子に!」

「ええ。ライヒシュタット公は……」


 その名をアシュラが口にした途端、レティシアの顔が歪んだ。

「ライヒシュタット公? なんて覇気のない響きだろうねえ。オーストリアのお祖父さんは、センスが無さすぎだよ」

「えと。それは単なる身分の名称で……ライヒシュタット公は……、」


「ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョセフ」

 ぴしりとレティシアは言い放った。

 背筋がしゃんと伸び、気のせいか、上背が高くなったように感じられる。

「いいかい。あたしの息子が、あの子に与えた以上の名前なんて、ないんだよ。もう二度と、その虚ろな名前で、あたしの孫を、呼ぶんじゃない!」


 すっかり不機嫌になった祖母レティシアに、アシュラは、早々に、部屋から追い出された。

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