ナポレオンの甥と姪 1
「怒られちゃったわね」
屋敷の別の部屋に、アシュラは連れ込まれた。
柔らかな色合いのカーテンや、細々とした調度が、女性の部屋であることを示しいる。
エリザ・ナポレオーネの部屋なのだろう。男装はしていても、可愛らしい趣味だと、アシュラは思った。
「あなたにね、聞きたいことがあるのよ……」
エリザ・ナポレオーネが言いかけた時だった。
「おい、エリザ! お前まで男を引っ掛けるなんて……、」
言いながら、男が入ってきた。
やや細身ではあるが、大層な美丈夫だ。茶色に近い金色の頬髭が顎まで覆い、鼻の下にも、整えられた髭が貯えられている。
「男装しながら男を引っ掛けるのは、ひどく倒錯的だぞ。お前の亭主はよく、それを許すな」
……結婚していたのか。
アシュラは思った。
そういえば、エリザ・ナポレオーネは、少し、ふっくらして見えた。もしかしたら、子どもがいるのかもしれない。姓も、「ボナパルト」や、父の姓「バチョッキ」ではなく、「カメラータ」を名乗っている。
「違うわよ! 私は、男を引っ張り込んだりなんか、しないわ!」
奮然と、エリザは言い返した。
「あなたこそ、失礼じゃない! 婦人の部屋に、勝手に入ってくるなんて! しかも、男二人で!」
美丈夫は、黒っぽい髪をした男を従えていた。痩せて、鷹のような目をしたイタリア人だ。
ぼそりと、彼は言った。
「こいつは、カルボナリの仲間だ」
イタリア男は、背の高い美丈夫の後ろに、ひっそりと控えている。自分のことが話題になっても、表情ひとつ、変えようとしない。
哀願するように、エリザは言った。
「カルボナリ……ルイ。まだ、そんなことを……。お願い。危険なことはしないで。スイスの叔母様が悲しむわ」
このルイと呼ばれる偉丈夫は、ナポレオンの養女オルタンスと、ナポレオンの弟ルイの間にできた息子だと、アシュラは、気がついた。オルタンスは、ナポレオンの最初の妻、ジョセフィーヌ……さきほど、
ナポレオンの親族については、オーストリアを出発する前に、頭に叩き込んできたのだ。
ジョセフィーヌとの間に子どもができなかったナポレオンは、いずれこの長男に、帝国を継がせるつもりだったという。
次男が、このルイだ。その下に、もう一人男の子がいる。
しかし、ルイとオルタンスは、あまり夫婦仲がよくなかった。
二人は、ナポレオンが
オルタンスは、母のジョセフィーヌの死後、母に代わって、ナポレオンの百日天下を助けた。
だが
「母上の話はするな!」
髭の下から、きつい言葉が飛んだ。
「俺は、母も弟も、他人だと思っている。俺の親は、父上だけだ!」
「でも、カルボナリなんて……ルイ叔父様は、なんて?」
ルイは、エリザ・ナポレオーネの問いには答えなかった。強い口調で、彼は言った。
「俺が、何のために、シャルロットと結婚したと思ってる! ジョセフ伯父さんの娘と!」
ジョセフは、ナポレオン兄弟の長男だ。このルイの結婚は、従姉弟同士の血族婚ということになる。
ふん、とばかりに、エリザ・ナポレオーネは顎をしゃくった。
「ずいぶん早々に結婚したわよね、あなた達」
「別に、早すぎやしないさ。俺が22歳で、彼女が、24歳だった」
「それにしては、子どももまだじゃない。もう、4年近く経つというのに。従姉弟同士なのは、別に構わないわよ。でも、本当に、愛し合っているの?」
「うるさい!」
男は一喝した。
「エリザ。お前の考えは、受け容れられない」
言い捨てるなり、身を翻し、部屋から出ていった。
じろりと不敵な視線をエリザとアシュラに走らせてから、寡黙なイタリア男も、後を追う。
ほっと、エリザ・ナポレオーネが息を吐いた。
「邪魔が入ったわ。ごめんなさいね、ええと……」
「アシュラ・シャイタン」
「覚えにくい名前ね。東洋系かしら」
「まあね」
それより、さっきの男が気になった。
「今のは、ナポレオン・ルイだね?」
男たちが立ち去った方を顎でしゃくり、アシュラは尋ねた。
「ええ、そうよ」
エリザ・ナポレオーネは、ため息をついた。
「彼には、野心があるわ。だから、カルボナリなんかと……」
カルボナリは、フランス、イタリアにまたがる組織で、急進的な立憲自由主義を掲げている。
イタリアのカルボナリは、メッテルニヒにより、蹴散らされた過去がある。
今から10年前……、ウィーン体制下の1820年、ナポリのカルボナリが、蜂起した。これを、オーストリア軍が、鎮圧したのだ。
以降、カルボナリの活動は地下に潜り、かえって、見えにくくなってしまっている。
アシュラは、胸がざわめくのを感じた。
……そのカルボナリが、ナポレオンの甥を迎えていようとは。
毅然として、エリザ・ナポレオーネが言った。
「私はね。帝国の跡継ぎは、彼しかいないと考えているの」
「彼?」
「ライヒシュタット公よ、もちろん!」
予期していたことではあった。
しかし、アシュラの心臓は、早鐘のように打ち始めた。
「だが、君の従兄のルイは、そうは思っていないようだね。2歳年上の従姉と、早々に結婚して、血族同士で、身を固めているじゃないか」
……それはまるで……、
……まるで、ハプスブルク家のようではないか。
……あるいは、ブルボン家の。
追放されたナポレオンの一族は、王権神授を信奉するヨーロッパの王族達と、同じことをやっている……。
「ナポレオンの一族も、結局は、ハプスブルクやブルボン家と同じになったということか」
揶揄するように、アシュラは言った。
「血族婚は、コルシカの風習だわ」
ふい、と、エリザ・ナポレオーネは顔をそむけた。
「同じことだ。財産を守り、子孫に伝えるためだろ?」
なおもアシュラは食い下がった。
言い知れぬ不快を、感じていた。
一族の者しか受け容れないというその果てに、一体何が、あるというのだろう。
富や権力を守るために、他を排除することが、本当に、幸せなことなのか。
静かにエリザ・ナポレオーネは言った。
「少なくとも、私の母は、血族婚ではないわ。私もよ、アシュラ」
「君の狙いは、何なんだ?」
かすれた声で、アシュラは尋ねた。
ボナパルト一族に、カルボナリがいる。
血族婚で、一族結束を固めようとする動きがある。
反面、エリザ・ナポレオーネのように、
……。
エリザは、強い目をした。
「私は聞いたわ。ライヒシュタット公は……ローマ王は、オーストリアで幽閉されているって。それは、本当なの?」
「……」
アシュラは答えられなかった。
……彼は、オーストリアで、最高の教育を与えられ、立派な貴公子に成長しました。
さっき、レティシアの前で、アシュラは、まるで優等生のような受け答えをした。
しかし、その実態は……。
一人では、ウィーンから出られないフランソワ。
私物は探られ、受け取る手紙にも書く手紙にも検閲が入る。読む本さえ、自由には選べない。
軍務に就きたくても、昇進は故意に遅らされてきた。その上、実際の配属も、なかなか叶わない。
それに……、
そうだ。
あんなに切望しているのに、彼には、親友と呼べる友がいない。ずっと長い間、同じ年頃の者と、知り合う機会を奪われてきたから。
「皇族として、彼には、最高のものが与えられている。衣食住はもとより、音楽、絵画、馬、それに、舞踏会や観劇の楽しみもある」
それでも、アシュラは、そう言わざるを得なかった。その口は、苦かった。
「でも、彼は、大公ではない。ただの公爵よ。身の回りには、かばってくれる人もいない。皇帝の孫なのに、軽んじられているのって、いったい、どんな気持ちなのかしら」
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