ナポレオンの甥と姪 2

 唐突に、エリザ・ナポレオーネは立ち上がった。

 部屋の一角を占めていた、布に向かった。

 白い布を、さっと持ち上げた。


 アシュラは、はっと息を飲んだ。

「これは……」


 荒い素描だった。水彩で、必要最低限の彩色が施されている。

 キャンパスの中から、彼を見返しているのは……、


「これは、間違いなく、ライヒシュタット公よね?」


 波打つ金髪。

 広い額。

 通った鼻筋、ぽってりした赤い唇。

 軍服姿だ。高い襟が、顎まで覆っている。


「……」

 絵の下に、アシュラは目を止めた。画家の署名がしてある。

「ダッフィンガー!」


 シャラメの書店で出会った画家だ。メッテルニヒの秘書官長、ゲンツのところに、出入りしている。

 得体のしれない、肖像画家……。


「伝手を辿って手に入れた肖像画よ。どう? 彼は、この人で、間違いないでしょう?」

「……いや」

かろうじて、アシュラは答えた。

「この絵は、ナポレオンに似すぎている。それに、目が、まるで死んでいる。彼は、もっと生き生きとした……、上品で優雅で繊細で、そして、優しい! この絵は、下卑ている!」


「似てないの?」

ひどい衝撃を、エリザ・ナポレオーネは受けたようだった。

「もっと具体的に教えて」

「答えられない」

きっぱりと、アシュラは言い切った。


 フランソワの肖像画が流出している?

 恐ろしいことだった。

 どんな恐ろしい敵の手に入るか、わかったものではない。


「大丈夫よ。これは、私だけしか見ないから」

絵を再び布で覆い、なだめるような声で、エリザ・ナポレオーネが言った。

「それにね。ジョセフ伯父様は、彼を見たことがあるのよ。遠くからだけどね。隠したってだめ」


 怒りがこみ上げてきたようだった。

 激しい怒りだった。


「私達は、彼の親戚なのよ! 伯父や叔母、私だって、従姉だわ!」

「それは……」

「母親の親戚ばかりで彼を独占して……彼には、父方にも、親戚がいるのよ!」

「……」

「父方の親戚は、彼を必要としてる。彼こそ、正当なナポレオン帝国の継承者なの! それなのに、ライヒシュタット? 未だに大尉? ひどいじゃない。どこまで彼を貶めれば気が済むの!」

「……」


 アシュラは、一言もなかった。

 彼自身も、そう思っているからだ。


「彼は、オーストリアなんかで幽閉されていていい人じゃない。彼は、皇帝なのよ! ナポレオンは自分が退位して、彼に、譲位したんだわ!」



 1815年、ナポレオンの100日天下の挫折から、ブルボン家のルイ18世のフランス帰還までの、約1ヶ月のことだ。

 フランソワは4歳で、ウィーンにいた。ママ・キューやメヌヴァルが次々と帰国させられ、ディートリヒシュタインが、家庭教師として採用された頃……。


 彼は全く、何も知らなかった。知らされなかった。



「その帝国は、滅びたんだろ?」

アシュラは指摘した。


 怒りに赤らんでいたエリザ・ナポレオーネの顔が、すうーっと青ざめた。

「再建してみせる。彼が、皇帝となるのよ!」

「彼は、人の上には、立たないよ」

それは、フランソワ自身が言っていたことだった。

「いいえ。私が必ず、彼を、皇帝にしてみせる」


 アシュラは立ち上がった。

 フランソワをそこまで見込んでいるこの従姉に、深く一礼した。

 無言で、退室した。





 「おい!」

廊下に出て、いくらも歩かないうちに、呼び止められた。


 さっきエリザの部屋に来た、ナポレオン・ルイが立っていた。一緒にいたイタリア人の姿はない。


「エリザが何か言ったようだが、放っておけ。あれは、彼女個人の意見だ」

 アシュラに近づき、ルイは低い声で言った。

 アシュラの胸ぐらを掴み、顔を近づけた。

「俺達に、ローマ王は必要ない」


「離せ!」

相手の腕を振り放し、アシュラも凄んだ。

「こっちから願い下げだ。誰が、カルボナリなんかに、大事なプリンスを渡すものか!」


「そうだ。それだ!」

頭一つ背の高いルイは、威嚇するように、アシュラを見下ろしてくる。

「ローマ王がイタリアへ来れば、馬鹿な民衆共は喜ぶだろう。ナポレオンの息子が来てくれた、ってな。だが、彼は、一人で来るんじゃない。必ず、オーストリアを一緒に連れてくる」

「!」

「オーストリアの紐付きの王など、誰が欲しいものか。イタリアに、彼は、不要だ。フランスにも、だ!」


 せいいっぱい、アシュラは肩を怒らせた。

「お願いされたって、ライヒシュタット公が、お前らの申し出など、受けるものか! 彼は、人々の全幅の信頼と賛成がなければ、王座になど、上りはしない!」


「ふん、どうかな」

蔑むように、口の端を歪めた。

「オーストリア政府が、そうしろと言ったら? あれは、政府の持ち駒に過ぎない」


「彼を、馬鹿にするな!」

 許せなかった。こいつは、ライヒシュタット公の器を、知らなすぎる。

「彼は、真面目に努力している。自分の力で、自分の足で、立とうとしてる。周りの人の、民衆の信頼を得ようと、頑張っているんだ!」


 頬髭の内側に、冷笑が浮かんだ。

「それならなぜ、この局面において、彼は動こうとしない?」

「この局面?」

「メッテルニヒは、わかっているだろう。だが、おめでたいお坊ちゃんには、何も、わかっていないんだ!」


 アシュラの回りが明るくなった。

 威圧していたルイが、離れたからだ。

 一度も振り返らず、彼は、歩み去っていった。


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