ディ先生の果てしない嘆き


 「お止めなせえ。この馬は、危険でがす」

馬丁は言った。


 焦げ茶色の大きな馬は、じろりと、客を見た。

 金色の髪の、背の高い青年だ。オーストリア将校の、白い軍服を着ている。

 馬の目に、半透明な薄膜が現れた。眼球をでろりと覆い、すぐに引っ込んだ。

 ばかにしたように、馬は、鼻を鳴らした。


「大尉。これは、危険だ。俺の勘がそう告げている。ねえ、止めましょうよ」

「そうですよ。駄馬に名馬はいません。試乗を止めたって、別に、恥ずかしいことじゃありませんよ」

 後ろで、二人の軍曹が、口々に言っている。

 大変な荒来れ馬がいると聞いて、上官とともに、試乗に来たのだ。


 もちろん、部下の軍曹たちは、自分たちが乗ってみるつもりなど、さらさらなかった。骨折などしたら、満足に働けなくなってしまう。除隊させられ、人生が終わってしまう。


 乗る気満々だったのは、年若い上官の方だった。

 上官である大尉は、気性の激しい、荒くれ馬が好きだった。そういう馬がいるという噂を聞くと、真っ先に出掛けていって、試乗して歩いている。


 馬丁は、口から、噛んでいた藁の先を、ぺっと吐き出した。

「駄馬? 確かに、こいつは、気性が荒い上に、人間をナメてかかってて……ちょっと! だから、お止めなさいって!」


 客を引き留めようとしたが、遅かった。

 金髪の巻き毛の青年は、鐙に足をかけた。一瞬で、ひらりと馬に跨った。


 いきなり背に乗られて、馬は大いに自尊心を傷つけられたようだった。

 激しく暴れだした。


 金髪の青年は、姿勢を低くした。両手で馬の首にかじりつく。

 馬は、あざけるように後ろ足を高く上げた。背に急斜をつけ、青年を滑り落そうとする。

 しかし、青年もしぶとかった。

 そうはさせじと、両脚で馬の腹をしめつける。

 甲高い声で馬がいなないた。自分の上の人間に対し、敵意まるだしだ。背を振り、激しく暴れる。


 「どう、どうどう」

 踏みつけられそうになりながら、馬丁は、なんとか、手綱をつかんだ。


 次の瞬間、高く上げた足を下す反動で、馬は、頭をぐいと下げた。

 耐え切れず、青年は、馬の右側に落馬した。


「大尉!」

「ライヒシュタット大尉!」

それまで、おろおろと見守っていた、二人の軍曹が、駆け寄った。


 青年……フランソワは、自力で立ち上がった。

 その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。

「駄馬だな」

晴れ晴れと、彼は笑った。

「こいつは、駄馬だ」


「だから言ったじゃないですか。大丈夫ですか?」

「お怪我はないでしょうね!?」

 軍曹たちが、口々に言いながら、服の上からフランソワの体に、あちこち触る。打撲や、万が一の骨折がないか、調べているのだ。


 フランソワは、されるがままになっている。

 弾けるように笑った。





 「自分たちは、ここで失礼します」

 宮殿の入口で、二人の軍曹は立ち止まった。

「ああ、またな」

 足取り軽く、フランソワは、階段を駆け上がっていく。


 途中で振り返った。二人の軍曹は、そのままの場所で直立し、見送っていた。彼が振り返ったのに気づくと、ぴしりと敬礼をした。


 にこり。

 フランソワが笑った。

 彼らに向けて、手を降った。




 「殿下!」

部屋では、ディートリヒシュタイン伯爵が、憤怒の表情を浮かべていた。

「殿下はいったい、誰に向けて、手を降ったのですか!」


 フランソワの部屋は、建物の入り口の真上にある。窓を開ければ、人々が出入りする様子が見える。

 恐らく、ディートリヒシュタインは、下を見下ろし、教え子が帰ってくるのを待ちわびていたのだろう。


 けろりとして、フランソワは答えた。

「軍曹達だよ」

ディートリヒシュタインは、怒り狂った。

「あれらは、平民でしょう! 親しげに手など降って……殿下が手を降るような、そういう身分の者ではないんです!」


「いいえ、先生。違いますよ。だって、彼らは、僕の同僚です」


「同僚!」

ディートリヒシュタインは、金切り声を上げた。

「いいですか、殿下。貴方は、外国の王にもなるべき存在なんですよ!」


「だが、軍人としては、まだまだ下の身分だ。ディートリヒシュタイン先生。僕は先生に、感謝しています。軍務を、下の位から始めて、本当に良かった。おかげで、兵士たちの気持ちがよくわかる。彼らも、僕を受け容れてくれる」

「殿下……」

ディートリヒシュタインは、泣きそうな顔になった。


 確かに、15歳の折、軍功もないのに昇給させるのは反対だと、皇帝にもフランソワ自身にも進言したが……。

「あなたは、プリンスなんですよっ!」

「軍では、大尉です」

誇らしげに、フランソワは言った。


「あああ……」

 ディートリヒシュタインは、手近な椅子に崩折れた。

「カール大公のご子息の、アルブレヒト殿下は、13歳で、大佐ですぞ! その上、第44歩兵隊の司令官を任されて……。それなのに、あなたは、未だ、大尉……。しかも、麾下の軍も持たせてもらえず、ヴァーサ公の軍に間借りして、訓練中……」


「アルブレヒト大公は、お母様を亡くされたばかりです。お祖父様皇帝は、それを考慮されたのでしょう」

「それとこれとは、話が違います!」


「僕は平気です、先生。軍務は、下の位から始めるべきものだし、それゆえ得られた人望は、何物にも代えがたい。それに、神のご加護で、母上は、ご健在だし」

「……」


 息子に内緒で再婚し、二人も私生児を生んでいた母である。

 その事実が露見してから、一度も、ウィーンに帰ってきていない。

 ディートリヒシュタインは、一瞬、言葉に詰まった。

 だが、彼の嘆きは、止まることを知らなかった。


「思えば、皇帝も、なぜ去年、貴方にゴールデン・フリースを賜らなかったのか……。他の大公方は、18歳になれば必ず、貰っているのに!」


 金羊毛騎士団の騎士に与えられる勲章が、ゴールデン・フリースである。

 もっとも、今では、騎士団とは名ばかりで、その栄誉だけが、ゴールデン・フリースとして残っている。


「それは、僕が、大公ではないからですよ」

 さらりとフランソワが答えた。


 大公というのは、兄弟、叔父、甥など、皇帝に、近い血筋の皇族を指す。女性は、大公女と呼ばれる。


「ですが、あなたは、大公女のご子息だ! 皇帝の、孫じゃないですか!」


 ゴールデン・フリースの授与者は、祖父の皇帝オーストリア皇帝だった。彼の一存で、フランソワに与えることも、可能だったはずだ。


 「僕の努力が足りないんだよ」

屈託なく、フランソワは笑った。

「大丈夫です、先生。戦場に出たなら、栄誉は、自分で勝ち取りますから」

「また、それを言う!」


「先生。僕を心配して下さる先生のお気持ちは、ありがたいと思っています。でも僕は、軍務を続けたい。実際に戦場で、戦いたい」

「……」

「国を守り、栄光を、この手で勝ち取りたいのです!」

「……メッテルニヒが、許しませんよ」


 とうとう、ディートリヒシュタインは口にした。

 偏屈な彼は、そして、今まで軍務に反対してきた彼としては、とてもではないが、言えなかった。

 自分も、フランソワを応援している、などとは……。


「皇帝に話をしてくれるよう、お母様に頼んで御覧なさい」

 謹厳実直な教師は、アルプスのヨーハン大公と、同じことを勧めた。

「……」


 青い瞳が、じっと教師を見ている。

 はっと、ディートリヒシュタインは、我に返った。慌てて付け加えた。


「でも、貴方の本分は、外交と社交にあるという、私の意見は変わりません! 軍務で体力を消耗することにも、反対です! プリンス。貴方には、貴方にしかできない、神聖な義務があるのだ!」

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