愛と裏切り
皇帝主催の舞踏会は、盛り上がりを見せていた。
美しいドレスの貴婦人達が、広いホールを舞っている。彼女らをサポートする紳士達は、さながら、羽を広げた孔雀のように得意げだ。
踊り疲れて、ゾフィー大公妃は、ホールを見回した。彼女のパートナーを務めていたリヒテンシュタイン侯爵は、飲み物を探しに、テーブルの方へ向かっていた。
ゾフィーは、年輩の侯爵の、気品に満ちた後ろ姿を目で追っていった。彼は、給仕を見つけ、何やら、命じている。
リヒテンシュタイン侯爵のすぐそばに、令嬢たちの一群がいた。
過剰に着飾った娘たちは、丸く円を描いて、何かに夢中になっていた。中には、リヒテンシュタイン侯爵の令嬢も混じっていた。
いずれも、ウィーン社交界の、名花たちだ。
吸い寄せられるようにフロック姿の若い貴公子がやってきた。しきりと、輪の外側にいた令嬢に話しかけている。背中を大きく開けた、若草色のドレスを着た令嬢だ。しかし彼女は、全く取り合おうとしない。それどころか、うるさそうに手を振って、フロックの貴公子を、追い払ってしまった。
やがて、令嬢たちの輪が、移動し始めた。少しずつ、料理を載せたテーブルに向かって、動いていく。
テーブルに行き着いた令嬢たちの描く円が、横にひしゃげた。円の中心が現れて、白いクロスで覆われたテーブルにぶつかって止まった。
フランソワだった。
令嬢たちに囲まれたまま、テーブルまで逃げてきたのは、ゾフィーの甥だった。
……まあ。フランツルったら。
誰にどういいくるめられたのか、フランソワは、正装をしていた。肩から腰にかけて、皇族を表すサッシュまで回している。ここのところ、正装といえば、軍服ばかり着たがる彼には、珍しいことだった。
彼は、テーブルに逃げ場を阻まれ、途方にくれている。
しかしそれは、彼と親しいゾフィーだからこそわかることだ。
知らない人からは、彼は、令嬢たちに、如才なく受け答えしているように見えている筈だ。
……あいかわらず、「お上手」を言っているのね。
派手に笑い転げる彼女たちの様子から、それは間違いないようだった。例の、甘い声と、ソフトで育ちの良い喋り方で、令嬢たちを魅了しているに違いない。
フランソワは、その気になりさえすれば、したたかに、魅力を発揮することができるのだ。
……お髭を剃るように言っておいて、本当によかったわ。
フランソワは抵抗したが、今日のこの日の為に、ゾフィーが特に命じて、髭を剃らせたのだ。
音楽が始まった。
真紅のドレスをなびかせた令嬢が、やや強引にフランソワの腕を取った。フランソワは苦笑した。(だが、令嬢たちには、優美な王子の微笑みにしか見えなかったはずだ)
しぶしぶと、令嬢たちの輪が崩れた。
抑えられた怨嗟の声の中、フランソワと、赤いドレスの令嬢は、ホールの中央に滑り出ていく。
ほっと、ゾフィーはため息をついた。
ふと、強い視線を感じた。無礼なくらいの強烈な眼差しで、彼女を見ている者がいる。
シュトラウスの調べを波立たせ、誰かが、ゾフィーに近づいてきた。
白い上着に赤いズボン、胸に大将の徽章をつけている。
ヴァーサ公だった。
ゾフィーの胸が、早鐘のように打ち出した。
ヴァーサ公は、ずんずんと近づいてくる。北欧人独特の真っ白な肌が、すぐそばまで迫ってきた。
その圧倒的な迫力と自信に、近づいてくる彼を見つめ続けることが、苦しいほどだった。ゾフィーの口から、甘い吐息がこぼれた。目線があえぎ、彼から逸れる。
どうしてか、その一瞬、彼女は、夫の姿を探した。
F・カール大公は、さっきまでフランソワと令嬢達がいたテーブルの前にいた。ひょいと手を伸ばし、ワイングラスをつまみ上げたところだった。
立ったまま、
ダンスホールの雑多な気配を押しのけ、ヴァーサ公の匂いが近づいていた。
雪の中の獣のような、凶暴で、野性的な匂いだ。
彼は、まっすぐに、ゾフィーめがけて歩いてくる。
二人の間に誰が立とうと、決して立ち止まらなかった。相手が怯み、進路を譲るほどに、堂々と歩き続ける。
ヴァーサ公は、ついに、ゾフィーの真横まできた。
……人が。
狼狽した瞬間、彼女の手が、ぐっと握られた。
通りすがりに、ヴァーサ公が、掴んだのだ。
ぎょっとして見上げると、彼女を見下ろす灰白色の目と出会った。窪んだ眼窩から送られてくる、熱く滾る眼差しに、ゾフィーは震えた。
彼は、手袋をしていなかった。冷たく乾いた手が、ゾフィーの手首を、強く握りしめた。
薄い唇の端が、僅かに持ち上がったのを、彼女は見た。
次の瞬間、彼は、まっすぐに前を見つめ、彼女の脇を通り過ぎていった。
「……大公妃。ゾフィー大公妃」
誰かがしきりと、名を呼んでいる。
はっと、彼女は、我に返った。
四角張った顔つきのディートリヒシュタイン伯爵が、目の前にいた。
「踊りはよろしいのですかな、ゾフィー大公妃」
「えっ? ああ、ええと……」
「もし、お時間を頂けるようでしたら、お話があるのです」
いつ、ディートリヒシュタインが、彼女の傍らに来たのか、まるで覚えがなかった。だが、少なくとも、さっきの出来事には、気がついていないようだ。
「なんでしょう、伯爵」
「もちろん、プリンスのことです」
フランソワの家庭教師は、得意げに、そっくり返った。
すぐに、背を丸める。
「常々私は、彼が、妃殿下に書く手紙に、胸を痛めて参りました。あのクセ字! 誤字に脱字! 独りよがりな作法! さぞや教育がなっていないと、妃殿下は、呆れ果てておいででしょう……」
「いえ、そんなことは、ありませんわ。彼はとても、優美な字を書きますことよ」
精一杯優しく、ゾフィーは抗議した。
「妃殿下……」
家庭教師は、感激で、胸がいっぱいになったようだった。
「大公妃がそのように優しく、プリンスのお相手を務めて下さっていることに、心から、感謝申し上げます。それで、彼は、そのう、……私のことを、何か言っておりませんでしたでしょうか。妃殿下に?」
ゾフィーは、微笑んだ。
「伯爵が、とてもよく、目をかけて下さっていると、彼はいつも、感謝しておりますよ」
「ほう。ほほう」
ディートリヒシュタインが、身を乗り出した。
「プリンスが、そのように? 私のことを? ですが、彼は、私の言うことを、ちっとも聞きません」
「フランツルのことになると、先生は少し、神経質におなりになるようですね。ですがそれは、無理もないことです。彼の身を案じて下さるお気持ちあってのことですわ」
「ええ! ええ! もちろんですとも!」
「彼もそれは、よくわかっているのです。なにしろ彼は、先生を呼ぶのに、心配性の老……」
……心配性の老婦人。
それが、「僕の妻」に続いて、フランソワが、ディートリヒシュタインに奉った呼び名だ。ゾフィーと二人っきりで話す時に、彼は、
「大公妃」
そこへようやく、リヒテンシュタイン侯爵が戻ってきた。二人分の飲み物を盆に乗せた給仕が、後ろに続いている。
「おや、ディートリヒシュタイン伯爵! 私がいない間の大公妃のお相手、礼を申し上げますぞ」
「なに、そのようなことは……」
「ですが、もう大丈夫」
リヒテンシュタイン伯爵は、軽く手を振り、ディートリヒシュタインを追い払おうとする。
「さあ、大公妃。少し休まれたら、もう一曲、お相手願えますかな?」
「ええ、喜んで」
再びにっこりと、ゾフィーは微笑んだ。
*
レオポルシュタットの裏通り。ブックスタンドが、かろうじて書店であることを示している、小さな店に、フランソワは入っていった。
「あ! いらっしゃい」
ストリベリーブロンドの、小柄な娘が、椅子から飛び上がった。エオリアだ。ヤスリで削っていた本を放り出すようにして、彼の元へ掛けていく。
エオリアは、満面に、微笑みを浮かべた。
ローマ王が、狹い店内を見回している。
まるで奇跡を見るように、エオリアは、美しい彼の姿に見惚れた。
「……」
なにかいいたげに、プリンスが、エオリアに目を向けた。
青い瞳の色に、どきっとした。
「皇帝陛下の関連図書ですね!」
ためらいもなく、エオリアは言った。
既に彼女は、数冊の本を抱えていた。革で装丁された、立派な本ばかりだ。タイトルも、金の箔押しが多い。
もちろん、オーストリア皇帝に関する本ではない。この店では、「皇帝」は、一人しかいない。
ナポレオンしか、いないのだ。
ちらと、プリンスが、彼女が抱えたままの本に目を走らせた。だが、彼に向けられた背表紙は、残念ながら、どれも読んだことのあるタイトルばかりだったようだ。
彼は、首を横に降った。
「いや。今日は、取り寄せてもらいたい本があるのだ」
「なんなりと」
エオリアの瞳が輝いた。その小柄な体は、彼の役に立てるのだという、純粋な喜びと、熱意に溢れていた。
「シャトーブリアン」
ぼそりと、プリンスはつぶやいた。
「シャトーブリアンの本が欲しい」
「フランスの御本ですね」
勇んで、エオリアは、その名を書き留めた。
胸がどきどきした。
この後、顔を上げたら、何と言って彼に話しかけよう。何か、ちょっとした……彼を、会話に引き込めるような、共通の話題。……天気の話、とか?
メモランダムから顔を上げた時、プリンスはすでに、店から出ていこうとしていた。
「殿下!」
呼び止めたのは、店主のシャラメだった。
いつの間にか彼は、奥の住居から出て、娘の横に立っていた。
立ち去りかけていたプリンスが足を止めた。
「今まで私は、貴方様のご要望通り、本をお売りしてまいりました。ですが、シャトーブリアンは、いけません。彼は、ブルボン派です。それにあの男は、
「だから、取り寄せてほしいと言っている」
静かに、プリンスは答えた。
いつもは枯れ果てたように力のないシャラメが、珍しく、声を荒らげた。
「シャトーブリアンは、
「知っている」
「殿下!」
「だから読まなくては、ならないんだ」
「いいえ! お読みになる必要はありません! あんなのは、単なる中傷です。殿下のお目汚しです!」
「お父さん!」
強い口調で、エオリアが割って入った。
「ローマ王は、お知りになりたいのよ。書店は、人様の知りたいという思いに寄り添わなくてはならないんだって、お父さん、いつも言ってるじゃない」
「だって、お前、」
いきり立つ父の前に、エオリアは立ちはだかった。
客に向かって、微笑みかける。
「シャトーブリアンの御本、承りました。入荷しましたら、お知らせに上がります」
「うん。頼んだ」
金髪碧眼の客は、にっこりと笑った。薄暗い店の中が、ぱっと明るくなったようだった。
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