告白



 ウィーンの皇帝宛てに、一通の書状が届いた。

 亡くなったパルマの執政官、ナイペルクからの、遺書だった。

 遺書の中でナイペルクは、マリー・ルイーゼ皇女と極秘で結婚していたこと、彼女との間の、二人の子どもの父であることを告白し、皇帝に、二人の子どもの庇護を求めていた。


 昨年秋に、娘からこの事実を打ち明けられていた皇帝は、それほど驚かなかった。

 だが、宰相メッテルニヒには、驚愕の事実だった。


 確かに、ナイペルクが、パルマの国葬で葬られたのは、奇異だった。パルマでは、紛争らしい紛争は、起きていない。元軍人のナイペルクに、どれほどの手柄があったのか、疑問だった。

 また、彼の葬儀で喪服を着たいという、マリー・ルイーゼパルマ女公の希望……もちろんメッテルニヒは、これを峻拒した……も、腑に落ちなかった。

 しかしまさか、結婚していたとは……。

 思いもよらなかった。


 だが、メッテルニヒを最も混乱させ、かつ、秘めやかな怒りを抱かせたのは、皇帝がすでに、この事実を掴んでいたことだ。

 父娘だから当たり前といえば、当たり前かもしれない。

 しかし、この頃皇帝は、メッテルニヒ宰相に相談せずに、独断で突っ走ることが多すぎた。


 たとえば、ヨーハン大公への結婚許可だ。便など、メッテルニヒには、信じられないことだった。庶民の女が欲しければ、妾にすればいいだけの話だ。


 アルプスへ引っ込んだといえば聞こえはいい。が、庶民の娘との結婚により、ヨーハンへの市民の人気は、うなぎのぼりだ。

 皇帝への人気を、明らかに、上回っている。


 その上、優秀なヨーハンには、未だに彼を担ごうとする廷臣がついていた。

 有力なのは、フランツ・ヨーゼフ・フォン・ザウラウである。

 古くからの皇帝の重臣である彼は、高齢とはいえ、未だに、宮廷で隠然たる勢力を持っていた。

 ナポレオン戦争でヨーハンと共に戦ったザウラウは、常に、ヨーハンの味方だった。


 このザウラウと組んで、ヨーハン皇帝の弟が何をしでかすか、わかったものではない

 ただでさえヨーハンには、チロル蜂起煽動の「前科」がある。

 油断のならない大公なのだ。



 そうした内憂に加えて、メッテルニヒには、イタリア方面への不安があった。次に騒動が起こるとすればイタリアだと、彼は、予想していた。


 イタリアには、カルボナリ(秘密結社)がある。オーストリア軍は、8年前に出兵し、革命軍を破った。だが、その活動は、依然として続いている。否、地下に潜った分、分かりづらくなった。彼らは、フランスにも、多く潜伏している。


 なにより、カルボナリには、ナポレオンの二人の甥が加わっているのではなかったか。※

 そして、ローマには、ナポレオンの母、レティシアが、依然として健在だった。


 それなのに、自分の足元パルマさえ、おぼつかなったとは!


 怒りと、そして、ぼんやりとした不安が、メッテルニヒを残酷にした。彼は、自分が皇女を、ナポレオンに売ったことを忘れた。オーストリアの生贄に捧げたことを、きれいさっぱり、忘却してしまったのだ。



 メッテルニヒは、主君の娘マリー・ルイーゼに、苛烈な問い合わせの手紙を、書き送った。



 この貴賤婚に関する隠し事は、もはや、大公女様の為にはなりません。どうか、真実をお話し下さいませ。

 ……。

 私は、ご結婚の日付、及び、お子さま方の年齢を知りません。

 貴女様の前夫であるナポレオンが亡くなったのは、1821年5月5日です。パルマへそれをお伝えするのに、3ヶ月ほどかかります。礼儀作法として考えましても、貴女様の二度目のご結婚は、どうしても、同年8月以降でなければなりません。


 もちろん、最初のお子さまのご生年につきましては、ご結婚よりさらに10ヶ月ほどを加味する必要がございましょう。余裕を持ちましても、その方がお生まれになったのは、1822年5月以降ということになります。


 つまり、最初にお生まれになったお子さまの年齢は、最大で、(1829年の今)7歳、ということで、間違いございませんね?


 あえてくだくだしく、このような計算を申し述べました。しかし、大公女様、私には、正確なことを知る必要があるのです。

 ……。」



 もちろん、メッテルニヒの計算通りの筈ははなかった。

 マリー・ルイーゼは、返事を認めた。



 告白の時が来ました。

 先年秋、皇帝が私に同じことをご下問された時、私は、父を、ミスリードするような答え方をしました。最初の子は、ナポレオンの死後、即ち、1821年5月5日以降に生まれたように、お答えしたのです。

 しかし、真実は……。


 年長の子、アルベルティーネは、もうすぐ12歳になります。彼女は、1817年5月1日の生まれです。

 次のヴィルヘルムは、今年で10歳。1819年8月8日の生まれです。

 二人とも、宰相が計算なさった7歳より、遥かに年上です。


 そうです。

 彼らは二人とも、ナポレオン生存中に生まれました……。


 ですが、私とナイペルク将軍の挙式は、先秋、皇帝に申し上げた通り、嘘偽りなく、1821年9月のことです。

 ……。」



 同じ手紙を、彼女は、父の皇帝にも書き送った。





 意外なことに、親族からの反応は、緩やかだった。

 父の皇帝からの返事は、慈愛に満ちたものだった。


 この状況の原因を作ったのは、私だ。だが、今となっては、もう、どうしようもない。そのようなことは、神と人の前に存在してはならぬことだったのだ。

 今、私の心は、重りをぶら下げたように、重く苦しい。

 だが、親というものは、子の間違いを、大目に見る生き物だというではないか。子どもが親の過ちを扱うより、ずっと。

 このことを、忘れないで欲しい。

 確かに、お前は、私の心を傷つけた。だが、私はお前の父親なのだ。お前への愛により、既に私は、許すべき全てを赦しているのだよ。

 ……」



 さらに、皇帝の手紙を追いかけるようにして、皇妃(マリー・ルイーゼの義理の母)から、手紙が届いた。



 ……皇帝は、あなたが、1810年、この国の為に払った犠牲(筆者注:ナポレオンに嫁いだこと)を、決して、忘れてはいらっしゃいません。ウィーンへ帰っていらっしゃい。そして、その目で、実際に確かめて御覧なさいな。




 マリー・ルイーゼの心を、深い安堵が満たしていった。

 彼女は、父の皇帝に拒絶されることが、何より恐ろしかった。父に嫌われて生きることが、耐えられなかった。

 だが、深い愛を以て、父は自分を許してくれた……。


 もう大丈夫だ。

 自分は許されたのだ。

 父さえいれば、大丈夫。

 今まで支えてきてくれた、ナイペルクを失った悲しみさえ、薄れていく気がした。



 だが、問題はまだ、残っていた。

 ナポレオンとの間に生まれた息子、フランソワだ。

 フランソワは、父親ナポレオンを忘れてしまったと言って、自分を激しくなじるに違いない。

 ……。








※ナポレオンの二人の甥


ルイ・ボナパルト(ナポレオンの弟)と、オルタンス(ナポレオンの養女)との間に生まれたとされる、


ナポレオン・ルイ

と、

シャルル・ルイ(後のナポレオン3世)


のことです。

フランソワにとっては従兄、あるいは、オルタンスを通して考えると、甥に当たります。




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