もう償いはできない
長く沈んでいた昏睡から、ナイペルクは、目を覚ました。
枕元の侍従が、顔を覗き込んだ。すぐに、部屋の外へ走り出ていく。
間もなく、マリー・ルイーゼ……彼の妻……が、入ってきた。
彼女は、悲しげだった。目が赤く腫れていた。朝からずっと、自分の部屋で刺繍をしていたのだ。
「皇帝には、お話ししましたか?」
もう、何度めかになる質問を、ナイペルクはした。
「ええ」
妻は答えた。
彼は重ねて尋ねた。
「皇帝は、お許し下さいましたか」
「はい」
しばらく、沈黙が流れた。
やがて
全ては、誤解から始まった。
当時彼は、魅力的なブルネット、ラモンディーニ伯爵夫人テレサを、半ば夫から奪い取る形で、自分のものにしていた。次々と子を生ませた。やがて伯爵が死んだので、彼女と結婚した。
ブロンドで肌が白く、女性にしては背の高いマリー・ルイーゼは、彼の好みのタイプではなかった。ナイペルクは、小柄でオリーブ色の肌を持つ、濃い色の髪の女性が好みだったのだ。
しかし、皇帝から親書を受け取り、ナイペルクは、即座にテレサと別れた。
……元フランス皇妃は、6ヶ月以内に、確実に落ちるよ。賭けてもいい。
別離に際しての、彼の言葉だ。
離婚の、心労からであろうか。テレサは、翌年、亡くなっている。
……自分とマリー・ルイーゼとの結婚は、人を、不幸にばかりしてきた。
ナイペルクは思う。皇帝命令だと思っていたそれは、ただの勘違いだった。ただの勘違いで、テレサは死に、マリー・ルイーゼは……、
……ナポレオンを裏切った。
確かに、彼女とナイペルクとの結婚は、ナポレオンの死んだ後である。ほんの、数ヶ月後のことだ。
だから、重婚罪には当たらない。
しかし、そんなのは、言い訳に過ぎない。
最初の子ども、アルベルティーナは、パルマへ来た翌年、生まれた。ナポレオンの死の、4年も前のことだ。次の息子、ヴィルヘルムが生まれたのも、ナポレオンの生存中のことだった。ナポレオンが死んだのは、その2年後のことだ。
その後も、マリー・ルイーゼは、妊娠を繰り返したが、出産に至ることはなかった。全て、流産や死産に終わった。
4人目の女児の死産は、ナポレオンが亡くなった3ヶ月後だ。奇しくもこの日は、ナポレオンの誕生日でもあった。
……もはや、呪われているとしか思えない。
相次ぐ流産や死産に、ナイペルクは怯えた。趣味に己を埋没させることのできる妻とは違い、次第に、心も体も、弱っていった。
……そして、自分たちの結婚の真実に、誰よりも傷つくのは……。
「彼は、許してくれるだろうか?」
ぽつんと、ナイペルクはつぶやいた。
「彼」が、誰を指すか、もちろん、マリー・ルイーゼには、わかっているはずだ。
ナポレオンとの間の息子、ライヒシュタット公フランツ……、
だが、彼女は、聞こえないふりをした。
この15年間、ナイペルクは、あたうる限り、ウィーンにいるプリンスとの接触に、心を砕いてきた。
男の子らしいスポーツを教える。
家庭教師にふさわしい人物を、推挙する。
悩み事の相談に乗る。
三番目の息子グスタフは、プリンスと同い年だった。だが、この子は、あまり出来のいい子ではなかったらしい。それでも、彼なりに、プリンスのおそばに侍っているようだ。
ナイペルクの心遣いに、プリンスは、感謝の気持ちを、きちんと伝えてきた。
だが、その青い目は、ナイペルクに潜む、贖罪の気持ちを、確実に読み取っているような気がしてならなかった。
そう、ナイペルクは感じていた。
……自分は、彼から、母親を奪い取った……。
心に空洞を抱えたまま、彼は成長した。微笑みと優雅さで孤独の悲哀を隠し、彼は、立派な、オーストリアのプリンスになった。
もう、償いは、できない。
……せめて。
力を振り絞り、ナイペルクは尋ねた。
「皇帝に、アルベルティーナとヴィルヘルムのことは、話しましたか?」
「もちろんですとも」
きっぱりと、
さらに、ナイペルクは、質問を重ねた。
「二人の年齢を、きちんと、お伝えしましたたか?」
それでも、皇帝は、二人の存在を許してくれたろうか。姉弟が、
「……ええ」
マリー・ルイーゼの返事が、一拍、遅れた。
彼女には伝えていないが、イタリア半島の情勢は、緊迫していた。マリー・ルイーゼが、君主として治めるパルマもまた、水面下で、不満が燻っていた。いずれ……自分の死後……母子が、この国を逐われる可能性は高い。
その時、妻の、
ウィーンに、彼らの居場所は、あるのだろうか。
……もうこれ以上、不幸な子どもを増やしてはならぬ。
薄れゆく意識の中で、ナイペルクは決意した。
*
アダム・アルバート・フォン・ナイペルクが亡くなったのは、年が明けた(1829年)2月22日のことだった。
ヨーハン大公が、長年の想いを実らせ、アンナ・プロッフルと正式な結婚式を挙げた、6日後のことである。
死因は、水腫症。※
55歳だった。
ナイペルクの葬儀は、聖パウロ教会で、国葬によって、挙行された。
しかし、マリー・ルイーゼは、喪服を着ることを許されなかった。
ナイペルクは、彼女の正式な夫ではないからだ。
※水腫症
体の細胞などに、水(リンパ液)が貯まる病気です。
心臓病、腎臓病、肝臓病などが考えられます。
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