フランソワの罠



 母は、すぐに父のことを忘れてしまった。

 彼女は、ナポレオンが亡くなったほんの数ヶ月後に、再婚した……。


 この残酷な事実を、フランソワに伝える役目は、祖父の皇帝が引き受けた。

 パルマとウィーンとは、頻繁に人の行き来がある。他人の口から伝わるよりは、肉親である祖父の口から聞く方が、傷も浅かろうと、皇帝は判断したのだ。



 皇帝は、孫を呼び出した。

 軍務への期待に胸を膨らませている孫に、マリー・ルイーゼが、ナイペルクと、再婚していたことを話した。二人の間には、すでに子どもがいることも。


「えっ」

とだけ、フランツは言った。


「結婚は、8年前。ナポレオンが亡くなった後のことだ」

それだけは、しっかりと伝えた。


 皇帝は、子どもたちの年齢は、話すつもりはなかった。

 そう長くは隠しておけないことは、わかっていた。

 もし、子どもたちが、ナポレオンの生前に生まれたことを知ったら? 

 フランツの、娘、マリー・ルイーゼに対する神聖な感情は、確実に損なわれるだろう。


 皇帝には、それが、無念だった。そんなことを知らせる役割を、演じたくはなかった。


 フランツは、何も尋ねてこなかった。

 子どもの年齢も。

 何人いるのか、それが、男の子か女の子か、さえ。





 プリンスの居所には、ディートリヒシュタインが待っていた。

「不愉快だ」

 部屋に帰ってきたフランソワは、短く吐き捨てた。

 この言葉を、この後も、何度か、ディートリヒシュタインは耳にした。





 ティールームで、フランソワが、レオポルト大公と話をしている。午後の部屋は、明るい日差しに満ちていた。早咲きの薔薇が、あちこちに生けられ、芳しい香りを放っている。



 レオポルト大公は、フランソワの曾祖母、ナポリ王妃マリア・カロリーナの息子である。母が、長兄と対立して国を逐われた時、一緒に、ウィーンにやってきた。彼の長姉のマリア・テレジアは、皇帝の2番めの妻(マリー・ルイーゼの母)だったから、ウィーン宮廷は、居心地がいいのだろう。



 すぐそばの席に、家庭教師のディートリヒシュタインが陣取っていた。鹿爪らしく本を広げているが、先程から、1ページもめくってはいない。


「いやもう、かわいいのなんのって!」

レオポルト大公は繰り返す。

「金色の巻き毛に青い瞳、白い肌! あんな可愛い子は、他にいないよ! まるで天使だ! 地上に降りた天使そのものだよ!」


 フランソワが微笑んだ。

「僕だって、金髪に青い目ですが?」

じろりと、大公は、彼を睨んだ。

「君の毛は、随分ごついだろ。ただの癖っ毛と、ふわふわした愛らしい巻き毛を、一緒にしないでほしいなあ。目の色だって、カロリーヌのは、真っ青なんだぜ? 君のは、灰色が入ってるじゃないか」


深い溜め息をついた。


「あの子が嫁ぐ日を考えると、私は今から、眠れないくらい悲しいんだ……」

「彼女、幾つでしたっけ?」

「もうすぐ7つだ! 立派な淑女レディだよ!」

誇らしげに大公は答えた。


 プリンスを睨みつける。

「君がその年齢の頃は、本当に生意気で……。あれは、ウィーンに、虎が来た時のことだった。私が、虎の背に乗ってみろと言ったら、君、何と言ったか、覚えているか?」

「さあ」

「おじ様が、虎を抑えていて下さったら、乗ります、だと!」



 ……あの時の、大公たちの顔といったら!

 当時を思い出し、ディートリヒシュタインは、危うく吹き出しそうになった。

 そういう、素早い知性の閃きとでもいうものが、幼い頃から、プリンスにはあった。



 「全く、君は、こまっしゃくれていたよ! それに比べ、うちのカロリーヌときたら、本当にもう、天使だ! 食べちゃいたいくらいの愛らしさだ! おしゃべりだって、スィートで、ラブリーで、女の子って、いいもんだなあ……」

 大公は、うっとりとしている。


 フランソワは、にっこりと笑った。

「叔母様に似たんですね」

「クレメンティーナに? うん、まあ、そうだろうな。私に似たわけじゃ、なかろう……」



 レオポルト大公の妻、マリー・クレメンティーナは、皇帝の娘だ。マリー・ルイーゼの妹で、フランソワには、叔母に当たる。



「叔母様といえば、母上から叔母様に、手紙が行ってないでしょうか。今度いつ、ウィーンにいらっしゃるのか、僕、まだ聞いていないので」


 僅かに、プリンスの声色に、緊張が加わったことに、後ろにいる、ディートリヒシュタインは気がついた。立てた本の向こうに見える肩が、強張っている。


 「ルイーゼから?」

レオポルト大公は首を傾げた。

「さあ。どうだろ。今度聞いといてやるよ。……ルイーゼといえばさ」

大公は身を乗り出した。

「ナイペルクと結婚してたってな。本当に驚くよな、あの子にも!」


「母上も、苦労されましたからね」


「だが、貴賤婚じゃないか。よりによって、護衛官だった男と、なあ」

「初めてパルマへ下る時、母上は、沿道の人々から、ひどい言葉を浴びせられたそうです。母には、護衛官が必要だったのです」


 愛想よく、フランソワは答えた。だが、ディートリヒシュタインの耳には、怒りに震えているように聞こえた。


 レオポルト大公が首を振った。

「その上、子どもまでいるって、こりゃ、凄い話だ! 貴賤婚といえば、ヨーハンも、そうだな。郵便局長の娘って……。まあ、同じ貴賤婚でも、ヨーハンのところには、子どもがいない分、まだマシってとこかな」


「そのうち、おできになりますよ」

「そんなわけないだろう! ヨーハンは47歳だぜ?」

下卑た笑いを、レオポルト大公は浮かべた。


 慎重に、フランソワは言葉を重ねた。

「でも、ヨーハン大公の奥様は、とてもお若いそうですよ? 母上は、ヨーハン大公の奥様より、年上でいらっしゃるし。出産は、女性の負担が大きいと聞きます」

「そうだな。ルイーゼの年齢で二人、産んだのは、凄いよな!」



 祖父の皇帝は、「マリー・ルイーゼとナイペルクの間には、子どもがいる」、としか告げていない。何人いるかは、教えなかった。フランソワも、尋ねようとしなかったという。


 ……二人も。


 プリンスの唇が動いたのが、ディートリヒシュタインにはわかった。

 彼が、非常なショックを受けたことも。



 だが、彼は、表情を変えなかった。年長の親戚に向けて、穏やかに微笑んでみせた。

 全く邪気のない仕草で、彼は、小首を傾げた。

「グスタフには、男の兄弟しかいませんしね」

「そうだよ! ナイペルクもうまくやったもんだ! 中年になってから、女の子と男の子、ひとりずつ作ったもんな!」

ここぞとばかり、レオポルト大公が力をこめる。


 ……女の子と、男の子。

 フランソワの唇が、皮肉に歪んだ。


 取ってつけたように、彼は、明るい笑い声を上げた。

「大公、失礼ですよ! あの年齢って……母上は、まだ、お若いんですから! ええと、上の子が生まれたのは……確か……」

「うん? お前が生まれた時、ルイーゼは、まだ19歳だったろ? あいつは、早生まれだから。ええと、ヨーハンの、アルプス妻は……25歳か。うーん、可能性がないわけじゃないな」


「ですが、母上のパルマでのご出産は……」


「だが、夫が年取ってたら、ダメだろ。皇帝の最後の子どもは、39歳の時? しかも、流産だった。仕方ないな、皇妃姉上も、もう、35歳だったし。あ! カールは、56歳で、男の子を作ったっけ! あそこも、奥方が、若いんだ。つまり、男は年をとっていても大丈夫、妻さえ若けりゃ、子はできるってことだな!」



 マリー・ルイーゼの、パルマでの子どもについて、レオポルト大公は、これ以上のことは知らないようだった。

 だが、フランソワは、彼から、引き出せるだけの情報を引き出したようだ。


 ナイペルクとの間に、子どもが二人いること。

 女の子と男の子、ひとりずつであること。


 暗い微笑を、フランソワは浮かべた。










レオポルト大公は、私のホームページの系譜、「6 ライヒシュタット公とボルドー公」に載っています。

系譜の右寄り、「マリア・カロリーナ」と「ナポリ・両シチリア王フェルディナンド」の息子、「サレルノ王レオポルト」が、彼です。


https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#henri


(ページトップは

https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html

「6 ライヒシュタット公とボルドー公」です



幼いフランソワと虎のエピソードは、複数の資料に、ライヒシュタット公幼年期の実話として、収録されていました。「大公」が、レオポルト大公かどうかまでは、わからないのですが。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る