フランソワの罠
母は、すぐに父のことを忘れてしまった。
彼女は、ナポレオンが亡くなったほんの数ヶ月後に、再婚した……。
この残酷な事実を、フランソワに伝える役目は、祖父の皇帝が引き受けた。
パルマとウィーンとは、頻繁に人の行き来がある。他人の口から伝わるよりは、肉親である祖父の口から聞く方が、傷も浅かろうと、皇帝は判断したのだ。
皇帝は、孫を呼び出した。
軍務への期待に胸を膨らませている孫に、マリー・ルイーゼが、ナイペルクと、再婚していたことを話した。二人の間には、すでに子どもがいることも。
「えっ」
とだけ、フランツは言った。
「結婚は、8年前。ナポレオンが亡くなった後のことだ」
それだけは、しっかりと伝えた。
皇帝は、子どもたちの年齢は、話すつもりはなかった。
そう長くは隠しておけないことは、わかっていた。
もし、子どもたちが、
フランツの、
皇帝には、それが、無念だった。そんなことを知らせる役割を、演じたくはなかった。
フランツは、何も尋ねてこなかった。
子どもの年齢も。
何人いるのか、それが、男の子か女の子か、さえ。
*
プリンスの居所には、ディートリヒシュタインが待っていた。
「不愉快だ」
部屋に帰ってきたフランソワは、短く吐き捨てた。
この言葉を、この後も、何度か、ディートリヒシュタインは耳にした。
*
ティールームで、フランソワが、レオポルト大公と話をしている。午後の部屋は、明るい日差しに満ちていた。早咲きの薔薇が、あちこちに生けられ、芳しい香りを放っている。
レオポルト大公は、フランソワの曾祖母、
すぐそばの席に、家庭教師のディートリヒシュタインが陣取っていた。鹿爪らしく本を広げているが、先程から、1ページもめくってはいない。
「いやもう、かわいいのなんのって!」
レオポルト大公は繰り返す。
「金色の巻き毛に青い瞳、白い肌! あんな可愛い子は、他にいないよ! まるで天使だ! 地上に降りた天使そのものだよ!」
フランソワが微笑んだ。
「僕だって、金髪に青い目ですが?」
じろりと、大公は、彼を睨んだ。
「君の毛は、随分ごついだろ。ただの癖っ毛と、ふわふわした愛らしい巻き毛を、一緒にしないでほしいなあ。目の色だって、カロリーヌのは、真っ青なんだぜ? 君のは、灰色が入ってるじゃないか」
深い溜め息をついた。
「あの子が嫁ぐ日を考えると、私は今から、眠れないくらい悲しいんだ……」
「彼女、幾つでしたっけ?」
「もうすぐ7つだ! 立派な
誇らしげに大公は答えた。
プリンスを睨みつける。
「君がその年齢の頃は、本当に生意気で……。あれは、ウィーンに、虎が来た時のことだった。私が、虎の背に乗ってみろと言ったら、君、何と言ったか、覚えているか?」
「さあ」
「おじ様が、虎を抑えていて下さったら、乗ります、だと!」
……あの時の、大公たちの顔といったら!
当時を思い出し、ディートリヒシュタインは、危うく吹き出しそうになった。
そういう、素早い知性の閃きとでもいうものが、幼い頃から、プリンスにはあった。
「全く、君は、こまっしゃくれていたよ! それに比べ、うちのカロリーヌときたら、本当にもう、天使だ! 食べちゃいたいくらいの愛らしさだ! おしゃべりだって、スィートで、ラブリーで、女の子って、いいもんだなあ……」
大公は、うっとりとしている。
フランソワは、にっこりと笑った。
「叔母様に似たんですね」
「クレメンティーナに? うん、まあ、そうだろうな。私に似たわけじゃ、なかろう……」
レオポルト大公の妻、マリー・クレメンティーナは、皇帝の娘だ。マリー・ルイーゼの妹で、フランソワには、叔母に当たる。
「叔母様といえば、母上から叔母様に、手紙が行ってないでしょうか。今度いつ、ウィーンにいらっしゃるのか、僕、まだ聞いていないので」
僅かに、プリンスの声色に、緊張が加わったことに、後ろにいる、ディートリヒシュタインは気がついた。立てた本の向こうに見える肩が、強張っている。
「ルイーゼから?」
レオポルト大公は首を傾げた。
「さあ。どうだろ。今度聞いといてやるよ。……ルイーゼといえばさ」
大公は身を乗り出した。
「ナイペルクと結婚してたってな。本当に驚くよな、あの子にも!」
「母上も、苦労されましたからね」
「だが、貴賤婚じゃないか。よりによって、護衛官だった男と、なあ」
「初めてパルマへ下る時、母上は、沿道の人々から、ひどい言葉を浴びせられたそうです。母には、護衛官が必要だったのです」
愛想よく、フランソワは答えた。だが、ディートリヒシュタインの耳には、怒りに震えているように聞こえた。
レオポルト大公が首を振った。
「その上、子どもまでいるって、こりゃ、凄い話だ! 貴賤婚といえば、ヨーハンも、そうだな。郵便局長の娘って……。まあ、同じ貴賤婚でも、ヨーハンのところには、子どもがいない分、まだマシってとこかな」
「そのうち、おできになりますよ」
「そんなわけないだろう! ヨーハンは47歳だぜ?」
下卑た笑いを、レオポルト大公は浮かべた。
慎重に、フランソワは言葉を重ねた。
「でも、ヨーハン大公の奥様は、とてもお若いそうですよ? 母上は、ヨーハン大公の奥様より、年上でいらっしゃるし。出産は、女性の負担が大きいと聞きます」
「そうだな。ルイーゼの年齢で二人、産んだのは、凄いよな!」
祖父の皇帝は、「マリー・ルイーゼとナイペルクの間には、子どもがいる」、としか告げていない。何人いるかは、教えなかった。フランソワも、尋ねようとしなかったという。
……二人も。
プリンスの唇が動いたのが、ディートリヒシュタインにはわかった。
彼が、非常なショックを受けたことも。
だが、彼は、表情を変えなかった。年長の親戚に向けて、穏やかに微笑んでみせた。
全く邪気のない仕草で、彼は、小首を傾げた。
「グスタフには、男の兄弟しかいませんしね」
「そうだよ! ナイペルクもうまくやったもんだ! 中年になってから、女の子と男の子、ひとりずつ作ったもんな!」
ここぞとばかり、レオポルト大公が力をこめる。
……女の子と、男の子。
フランソワの唇が、皮肉に歪んだ。
取ってつけたように、彼は、明るい笑い声を上げた。
「大公、失礼ですよ! あの年齢って……母上は、まだ、お若いんですから! ええと、上の子が生まれたのは……確か……」
「うん? お前が生まれた時、ルイーゼは、まだ19歳だったろ? あいつは、早生まれだから。ええと、ヨーハンの、アルプス妻は……25歳か。うーん、可能性がないわけじゃないな」
「ですが、母上のパルマでのご出産は……」
「だが、夫が年取ってたら、ダメだろ。皇帝の最後の子どもは、39歳の時? しかも、流産だった。仕方ないな、
マリー・ルイーゼの、パルマでの子どもについて、レオポルト大公は、これ以上のことは知らないようだった。
だが、フランソワは、彼から、引き出せるだけの情報を引き出したようだ。
ナイペルクとの間に、子どもが二人いること。
女の子と男の子、ひとりずつであること。
暗い微笑を、フランソワは浮かべた。
※
レオポルト大公は、私のホームページの系譜、「6 ライヒシュタット公とボルドー公」に載っています。
系譜の右寄り、「マリア・カロリーナ」と「ナポリ・両シチリア王フェルディナンド」の息子、「サレルノ王レオポルト」が、彼です。
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#henri
(ページトップは
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html
「6 ライヒシュタット公とボルドー公」です
)
※
幼いフランソワと虎のエピソードは、複数の資料に、ライヒシュタット公幼年期の実話として、収録されていました。「大公」が、レオポルト大公かどうかまでは、わからないのですが。
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