耳は2つ、口はひとつ


 「いいか。余計なことは言うんじゃないぞ」

 ディートリヒシュタイン伯爵が、グスタフ・ナイペルクを呼んで、釘を刺している。

「プリンスが知るべきことは、全て、皇帝がお話しになった。君から、彼に話すべきことは、何もない。母上マリー・ルイーゼ様とプリンスの間に、他人が介入する余地など、これっぽっちもないのだ」


 あやふやに、グスタフが頷いた。



 グスタフは、亡くなったナイペルク将軍の、前の結婚で生まれた三男である。フランソワと同じ年齢のせいか、よく、一緒に町中へ出かけている。名門エステルハージ家の御曹司、モーリツが同行することもある。



 一際大きな声で、ディートリヒシュタインが命じた。

「プリンスをお守りするのだ。彼を傷つけるような情報は、一切、お知らせしてはならぬ」

 はっと、グスタフの体が直立した。

「了解しました!」

 今度こそはっきりと、彼は、請け合った。


 急ぎ足で、グスタフは、家庭教師の控室を出ていった。プリンスから、呼び出しがかかっているのだ。



 「何をしてる」

控室の隅でお茶を飲んでいたアシュラに、ディートリヒシュタインは、命じた。

「お前もさっさと、後を追わんか」

「え? でも、お呼びがかかっているのは、グスタフだけですよ?」

熱い紅茶に喉を焼き、やっとのことでアシュラが答える。


「あのお調子者を信じろと? お前は、プリンスの巧妙さを知らんのか? 儂は、彼が、レオポルト大公と話しているのを見た。プリンスは、実に巧みな質問を繰り出していたよ。そして、いともたやすく大公から、知りたい情報を引き出していた。……相手がグスタフなら、プリンスにとっては、赤子の手をひねるようなものだ。おい、何を呑気にお茶など飲んでおる! グスタフについていって、監視しろ!」


「お茶くらい、飲ませてくださいよ」

「ダメだ! 急げ!」


「知りたいことがあるのなら、プリンスは、先生にお聞きになるでしょうよ。それか、皇帝か。何も、グスタフなんかに聞かなくたって」

「プリンスは、何もお聞きにならない! 皇帝にも、この私にも、だ! だから、心配しているんだ!」

「それは、聞いても、答えが得られないことを、よくご存知だからでしょう?」

「当たり前だ! 知らなくても良いことまで、知る必要はない!」



 プリンスが、祖父や家庭教師に対し、沈黙を守っているのは、彼らを困らせたくないからではなかろうかと、アシュラは思った。

 皇帝にとって、マリー・ルイーゼは、最愛の娘だ。そして、ディートリヒシュタインにとってナイペルクは、長く続いた親友なのだ。

 祖父も家庭教師も、大切な人の、暴かれた秘密に関しては、言えないことも多かろう。

 彼らに質問しても、戸惑わせ、きまりの悪い思いをさせるだけだ……。

 だから、彼は、何も聞こうとしないのだ。



 さらに、ディートリヒシュタインが言い募る。

「プリンスは、あらゆる人から、情報を得ようとしている。皇帝と私以外の! だが、皇帝がお知らせにならなかったことを、プリンスに知られるわけにはいかないのだ!」

「無理ですよ。これだけ広がっているスキャンダルを、彼にだけ、隠し通そうなんて」



 パルマとウィーンの間は、大勢の人が行き来している。中には、宮廷の事情に詳しい者もいる。

 パルマ女公の二人の子ども達が、ナポレオンの生前から、宮廷に現れたと、しっかり記憶している者も、もちろんいた。



「プリンスが知るのを阻止することが、お前の役目だろう! ぐだぐだ言っていないで、早く行け! グスタフが余計なことを喋らないよう、しっかり見守っていろ!」


 しぶしぶと、アシュラは、フランソワの部屋へ向かった。





 グスタフに続いて、部屋に入ってきたアシュラを見て、プリンスは、眉を吊り上げた。

 だが、彼は、何も言わなかった。出て行けとも言わない。

 アシュラは壁際の定位置で、二人の会話に耳を傾けた。



 グスタフに向かって、フランソワが口火を切った。

 「君に来てもらったのは、他でもない。君の父上と、僕の母上の話だ」

「殿下……ああ、父をお許し下さい。どうか、その死に免じて。高貴な母上様に、このような大それたことをしでかしてしまった罪を」

 深刻な口調だった。だが、どこか芝居がかって聞こえる。まるで、悲劇俳優のようだ。


 壁際で、思わず、アシュラは吹き出しそうになった。

 ……普通、こういうセリフを吐くのは、親の方ではないか?

 子が親の不始末を詫びる、なんてのは、聞いたことがない。

 まして、その「子」は、グスタフである。ウィーンの悪所は、たいがい制覇したと豪語している男である。


 じろり、と、プリンスが、アシュラを睨んだ。

 すぐに、グスタフに向き直る。優しい声で、彼は言った。

「許すも何も……。父上と君は、別の人間だからね」

 再び、ちらりとアシュラを見る。


 ……ナポレオンと貴方は、別の人間だ。

 これは、アシュラがよく、フランソワに言う言葉である。

 むっとして、今度は、アシュラがフランソワを睨んだ。


「殿下!」

感極まって、グスタフが叫ぶ。

「ああ、殿下! でも、私は、嬉しいんです。パルマの、私の妹と弟は、殿下にとっても、ご妹弟。ということは、私と貴方は……」

「いや」

 強い口調で、フランソワは遮った。

 その眉間に、微かな皺が寄っているのを、アシュラは見て取った。


 ……そりゃ、グスタフと兄弟、ってのは、ないよなあ。

 少しだけ、フランソワが気の毒になる。


 アシュラの視線に気づき、フランソワは、肩を竦めた。

 すぐに、グスタフに向き直る。生真面目な表情を作り、尋ねた。

「グスタフ。君は、知っているか? その子達の年齢を」

「……」

グスタフは、答えなかった。


 ……余計なことは喋るな。

 ディートリヒシュタインの注意が効いているようだ。


 親しげに、フランソワが、グスタフの手を取った。

「君の気持ちは、よくわかる。僕だって、ディートリヒシュタイン先生からお聞きするまで、信じられなかったものだ」


 ……あれえ?

 アシュラは思った。

 ……ディートリヒシュタインが、パルマ女公の子どもの年齢なんて、言うわけがない……。


「私もです!」

勢い込んでグスタフが叫んだ。

「上の女の子なんて、もう、12歳になるんですよ! そんなに大きくなるまで、秘密にしておくなんて!」


「12歳」

フランソワが、高速で計算しているのがわかった。

「その子は、1817年の生まれだな」

 ひどいショックを、フランソワは受けたようだった。

 小さな声で付け加えた。

「母上が、僕を置いてパルマへ下られた、翌年だ」


「そうです。ご存知の通り、下の弟は、その2つ下です」

「……」

「殿下?」

不安そうな声でグスタフが呼んだ。


 はっと、フランソワが我に帰った。

「ああ、すまない。ちょっとぼんやりしてしまって。子どもたちの年齢は、ディートリヒシュタイン先生の言ったとおりだな。どちらも、僕の父上の、存命中に生まれたんだ」

「はい。我が父ながら、全く、呆れたことです」


「つまり、ええと、そのう……」

言いにくそうに、だが、フランソワは続けた。

「二人の関係は、お祖父様のおっしゃった通り……、」

「ええ。皇女マリー・ルイーゼ様が、パルマへお下りになる前からです。エクスの温泉で知り合って、すぐです」

「……確かに母上は、ウィーンへ来てすぐ、エクスへ湯治に出掛けられた。……僕を置いて」

「出会ってすぐ、なんて! 本当に、我が父ながら、なんと不埒で、ふしだらなことでしょう!」


「そうか……」

ぽつんと、フランソワは、虚脱したような顔をしていた。立ち上がりかけ、再び、椅子に腰を落としてしまった。


 「大丈夫ですか、殿下!」

慌てて、グスタフが駆け寄る。


 ……遅いわ、この、間抜け。

 心の中で、アシュラは毒づいた。

 フランソワが、ひどく傷つき、憔悴しているのが、壁際からも、見て取れた。


「ちょっと目眩がしただけだ。昼の食事がまだなものでね。大丈夫。お祖父様にちゃんと話は聞いていたから、今更、驚きはしないよ」

 言いながら、微笑みを浮かべた。ひどく痛々しい笑みだった。


「でも、それだけじゃないんです!」

奮然とグスタフは言い募った。

「それだけじゃない?」

フランソワが問い返す。

「……あっ!」

慌てて、グスタフは、自分の口に手を当てた。


 手遅れだった。

 フランソワのトラップが、グスタフに向けて、大きく口を開いた。


「……ああ、ええと、つまり、お祖父様の言われた通り、ハプスブルク家の皇女には、子どもは、生めるだけ生むという、神聖な義務が……、」

「限度があるでしょうよ! 私が知っているのは、結婚の直後に、女の子を流産した、ということだけです。でも、兄のアルフレッドによると、それが、4人目だっていうんです!」

「!」


 フランソワは、絶句した。

 蒼白な顔をしている。

「結婚の年……父上の亡くなられた年だ」

か細い声で、彼はつぶやいた。

「……あの年、僕があんなにお願いしたのに、ウィーンに来て下さらなかったのは……父上の思い出を話し合えるのは、僕にはもう、母上しかいらっしゃらなかったというのに……、母上も、さぞやお辛い思いをしていると僕は……、でもそれは、ナイペルクとの子どもを、孕んでいたせいだというのか?」



 もう限界だろうと、アシュラは思った。

 彼は、フランソワに近づいた。

 「殿下はここのところ、お疲れです」

慇懃無礼に、グスタフを押しのけた。

「季節の変わり目は、不調なことが多いですからね」

がらりと口調を変えた。

「とっとと帰らないか、グスタフ・ナイペルク。あの男の血を引く息子の顔なんか、今は、殿下は、見たくもないんだぞ。少しは気を使え!」


「なんだ、アシュラ! 無礼だぞ!」

「うるさい。いいか。今夜は、迎えに来るんじゃないぞ。来ても、殿下はお渡ししないからな」

「この! お前なんか、スパイのくせして!」

「今日は、護衛だ。お前のような、無神経な輩から、殿下をお守りする為の、な」

 ほとんど、蹴り飛ばすようにして、グスタフを、部屋の外へ追い出した。



 「……無神経は良かったな」

力いっぱいドアを閉め、アシュラが戻ってくると、フランソワは言った。

「でもグスタフは、僕の聞きたかったことに、答えただけだよ。あんな風に言ったら、気の毒じゃないか」

「殿下だって、グスタフが義理の兄弟になると言おうとしたら、不快そうな顔をしたじゃないですか」

「それは……」

「私も、不快です」


くくく、と、低い声で、フランソワは笑った。

「お前、彼が余計なことを言わないように、見張れと命じられたんだろ? どうせ、ディートリヒシュタイン先生辺りから。なのになぜ、グスタフに、全部喋らせた?」

「殿下がお知りになりたいだろうと思いまして」

「僕が知りたがるから? ああ、その通りだ」

ぴたりと笑いを止めた。


「アシュラ。人には、耳がふたつあるが、口はひとつしかない。なぜだか、わかるか?」

「……食べすぎないため?」

「バカか」

僅かに明るい表情が、フランソワの顔に戻った。厳粛な口調で、彼は答えた。

「よく聞き、だが、あまりしゃべらないように、だ」

「はあ」

「僕はこの頃、つくづく、そう思うよ……」

再び暗い顔に戻って、フランソワは、そう、つぶやいた。


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