ブルク・バスタイにて 1
その日は、アシュラは非番だった。
シャラメ書店のエオリアを、芝居に連れ出そうと思った。だが、エオリアは都合が悪いという。
「都合? はて、何かあったかな?」
エオリアが住居部分に引っ込むと、父のシャラメは首を傾げた。
「女の子の何かかな? 聞いといてやろうか?」
「いいです、シャラメさん。いいですから!」
真っ赤になって、アシュラは押し留めた。
そんなことを父親に尋ねさせたとあっては、アシュラは、彼女から、嫌われてしまう。
まだ何か言いたげなシャラメを後に、アシュラは、店の外へ出た。
そのまま、なんとなく、
ふと、彼女スカートが、真っ白だったことを思い出した。汚れの、最も目立ちやすい色だ。
……いや、何か、用事でもあったんだろう。
……いくら仲がいいと言ったって、父親に、予定を全部教えるわけじゃあるまいし。
しいてそんな風に考えながら、歩き続けた。
*
宮殿のプリンスの居所周辺は、なんとなく、ざわついていた。
「アシュラ。遅い!」
いきなり、家庭教師のオベナウスが叱責してきた。
アシュラは、むっとした。
「遅いって、僕は今日、休みなんですけど」
「休み? 何を
「彼が、宮廷の皆さんを出し抜くのは、いつものことじゃないですか」
何をそんなに慌てているのだ、と、アシュラは思った。
だが、オベナウスは、不安を隠せないようだった。
「いつもは、なんとなく、居場所がわかっているのだ。大抵は、エステルハージ家の子息や、その友達と一緒だ。それに、そんなに長時間じゃない。すぐ宮殿へ帰ってこられる。それが、今回は、朝から、お姿が見えない上に、モーリツ・エステルハージも、グスタフ・ナイペルクも、全く、心当たりがないというんだ」
「朝から?」
時刻は午後3時を回っていた。
さすがに、アシュラも不安になった。
「全く、ディートリヒシュタイン先生が留守の時に……、今、みんなで手分けして探している。お前も、心当たりを探してみてくれ」
慌ただしく、オベナウスは、外へ出ていった。
*
いると思っていた場所に、プリンスはいた。
一際外側に飛び出した市壁……ナポレオンが打ち壊したかつての要塞、
工事は、終わりに近づいていた。ドーリア式の柱が美しく並び、細い街路樹も植えられている。これらの樹木が育つ頃には、ここは、市民の憩いの場になっているだろう。
今日は、人足の姿はなかった。辺りに人影もない。
プリンスは、たった一人だった。両手を後ろに回して腰の後ろで組み、俯いて歩いていた。
その姿は、ぎょっとするほど、ありし日のナポレオンに似ていた。
もっとも、アシュラは、実際にナポレオンを見たわけではない。ただ、かつてのフランス帝王が、そうした姿勢で歩き回っていたことは、未だに、ウィーンの語り草になっている。
わざとやっているのか。
遺伝なのか。
いずれにしろ、アシュラは不愉快だった。
「プリンス」
やや強めに呼びかけると、フランソワは、ゆっくりと顔を上げた。
「遅いぞ」
アシュラが来るのを知っていたような言い方だ。
「本日、私は、休日でした」
負けずにアシュラも言い返す。
フランソワは、鼻で笑った。
「スパイにも休日があるのか。優雅なことだ」
「私生活というものがございますので」
冷淡に返すと、フランソワは口を開いた。
「……」
何かを言いかけて、止めた。
アシュラも無言で、フランソワに近づいた。
「ここも、どんどん、修復が進んで……市壁の凹みも、修繕されてしまった」
ぼそりとフランソワがつぶやいた。
見ると、前に来た時、フランソワがしゃがみこんで撫でていた壁の窪みには、漆喰がきれいに埋め込まれていた。
「父上の遺された痕跡が、どんどん消えていってしまう……」
「市壁ですよ? 20年も経つんですもの、直さなきゃ困るでしょ」
事務的に、アシュラは答えた。
「時は流れていくんです。否応なく、ね」
一層深く、フランソワは項垂れた。
「子どもの頃、僕は、お母様と引き離されて、父上に会うことができなくて、とても悲しかった。寂しかった。お母様もきっと、同じ寂しさを共有して下さっているのだと、それが、心の支えだった。だってお母様は、父上のことを、心の底から愛しているのだから。お母様は、僕なんかより、ずっとお辛いんだ。そう信じていた」
大きく息を吸った。
「だから、遠いパルマのお母様にご心配をかけまいと、……僕は、心の奥底に、自分の感情を封じ込めた!」
マリー・ルイーゼとナイペルクの関係は、彼女がパリからウィーンに落ち延びてすぐ、エクスの温泉へ保養に出かけた時から始まっている。
フランソワは、3歳だった。まだ、彼の傍らに、「ママ・キュー」と呼ばれる養育係がいた頃だ。
やがて、マリー・ルイーゼは、息子を残し、パルマへ旅立っていった。
彼女は、一時でも寂しさを感じたのだろうか……。
アシュラは唇を噛み締めた。彼は思う。
ウィーン会議で、なぜ彼女は、もっとダダをこねなかったのか。息子をパルマに連れていきたいと、それが叶わぬのなら、自分もウィーンに残ると、なぜ、言い張らなかったのか。
ロシアのアレクサンドル大帝や、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、明らかに、彼女の味方だった。それも、個人的に。
二人は、ナポレオンの敗走後、ランブイエ城に、マリー・ルイーゼを訪ねて来ている。ウィーン会議でも、騎士道精神から、破れた敵の妻子を、擁護する態度を見せていた。
アレクサンドル帝などは、その後も、なにかにつけ、幼いナポレオン2世を、気にかけていた。
もちろん、メッテルニヒの思惑もある。父であるオーストリア皇帝の立場も考えねばならない。
ナポレオンの息子を、パルマに連れて行くことは難しかったろう。だが、この二人の王の口添えがあれば、マリー・ルイーゼ自身がウィーンに、息子のそばに残ることは、可能だった筈だ。
でも、彼女は、そうしなかった。
唯々諾々と、メッテルニヒと父の皇帝の意に従って、パルマへ下った。
息子には前もって何も告げず、ある朝突然、眠っている枕元に、新しい玩具を押し込んで。
なぜだろう。
長い間、アシュラは疑問だった。
今やっと、その疑問が溶けた。
簡単なことだった。
前の男との間の子どもは、新しい恋の、邪魔でしかない。
「つまりは、そういうことですよ」
アシュラは言った。
「それが、女というものです」
「なんだ、お前。随分と、わかってるような口をきく」
フランソワは不機嫌だった。
感情を封じ込めてきた、などと言いながら、彼は、アシュラにだけは、自分の気持ちをぶつけてくる。それも、ストレートに、時には痛いくらいに。
スパイだからか。
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