ブルク・バスタイにて 2


 アシュラは、肩を竦めた。

「あなた、お母さんを恨めばいいじゃないですか。母親は、女であっては、いけないんだ。少なくとも、自分の子どもに、女の部分を見せてはいけない。それができない母親は、子どもに、恨まれて当然だ」


「お前、」

フランソワは、まじまじと、アシュラを見た。青い目が、怪訝そうに瞬いた。

「前から思っていたのだが、お前の女性に対する不信感は、相当なものだな。女性にだらしがないくせに」


 アシュラはむっとした。

「僕は、女性にだらしなくなんて、ありませんよ」

「嘘をつけ」

「嘘じゃありません。これと決めた人には、誠実です」


 エオリアのことが、脳裏を過った。

 アシュラと出かける約束を反故にして、彼女は今、何をしているのだろう……。


 きっぱりと、彼は言った。

「母親なんて、子どもに恨まれてなんぼですよ。私の母なんて、ひどいものでした」

「お前の母親、」

フランソワが前のめりになった。

「初めて聞くな。家族の話」

「スパイにだって、家族くらいいます。知りたいなら教えますけど……」


 こんな言い方しかできないことを、アシュラは悲しく思った。

 ナポレオンの息子に。

 孤独なフランソワに。


「僕の家は、ヴァグラム近郊の、小さな村でした」

「ヴァグラム! 父上が、オーストリア軍を破ったところだ!」

「そうです。母の夫は、家を、フランス兵の宿舎に供出していました。ナポレオンが、この市壁を壊した翌年、」

アシュラは、修理されたばかりの市壁を指さした。

「僕の母は、夫と、生まれたばかりの僕を置いて、家を出ていきました。若いフランス兵と一緒にね」


「それは……」

言いかけて、フランソワが目を丸くした。


 平然と、アシュラは続けた。

「そのフランス兵が、僕の父親だったんです。生物としての。母の夫は……長い間、僕が父として慕ってきた人は、つい最近、自ら死を選びました。長い間ずっと、彼は、僕を疎ましく思っていたのです。なにせ、妻を寝取った、間男まおとこの子ですからね、僕は。なのに、脳天気にも僕は、彼から愛されていると信じていた。この気持ちの乖離に、彼は、耐えられなくなったのでしょう」


「……」

 フランソワが、顔を上げた。

 上目遣いで、アシュラの顔を窺う。

 青い瞳が、自信なさげに煙っていた。

「お前、そのフランス兵を憎んでいるのか? ……ひょっとして、全ては僕の父のせいだと思っていないか? ナポレオン戦争のせいで、お前は、母親を奪われた、と。父と信じていた人を、死なせてしまった、と!」


 アシュラは少し、考えた。

 確かに、母親とフランス兵のことは、恨んでいたけれど……。

 うっすらと、彼は、笑った。


「ナポレオンは、母とフランス兵の、キューピッドですよ。彼のお陰で、僕はこの世に生を受けたわけだ」

「……」

「恨んでなんかいません。僕が、ナポレオンを恨むとしたら……」

まっすぐに、フランソワを見つめた。

「あなたを、不幸に陥れたことですよ、プリンス。その罪を、僕は、どうしても、許すことができない」

「……」


 フランソワの顔が、ぱっと赤くなった。


「オーストリアは、ナポレオンと戦うべきじゃなかった」

早口で、彼は言った。

「ナポレオンは、オーストリアから、妻を迎えるべきではなかった。彼は、ジョセフィーヌと離婚してはいけなかったんだ! もし、ジョセフィーヌが、僕の母だったら、父は、セント・ヘレナで死ぬことはなかったろう。そして、僕も、ここウィーンで、辛い思いをすることはなかったんだ」


「お母様を、お嫌いになりましたか?」

「いいや。いいやいいやいいや!」

フランソワは、激しく首を横に振った。

「母は、優しい女性だよ。ただ、弱い人なんだ。彼女は、ナポレオンの妻には、ふさわしくなかったというだけだ」

「ナポレオン……彼は、そんなに偉大でしたか?」


 フランソワは怒り出すだろうと、アシュラは思った。

 彼にとって、父親は、絶対だから。


 意外にも、フランソワは、おとなしかった。むしろ、打ちひしがれたように、俯いた。

「母は、祖父皇帝におっしゃったそうだよ。……ナポレオンは、良いだけの人ではなかった、と」

「死んでしまった人間のことを、後から悪く言うのは、潔くありませんね」

「なんだ、お前。いつもは、父上のことを悪く言うくせに」


まっすぐにアシュラを見つめてきた。


「僕は、父の良い側面しか知らないから、ナポレオンを忘却する人間を理解できないし、許しもしないのだ。……母上は、そう、皇帝お祖父様に、おっしゃったそうだ」

「ひどい言いようですね」

「でも、僕だって考えた。僕だって……」


 フランソワの母マリー・ルイーゼは、息子が、ずっと幼児のままであると思っているのか。

 これだけ、ナポレオンを否定する教育を受けてきて。

 否、受けさせられてきて!

 それが、父を奪われた幼子にとって、どれほど辛いものであったか、この母は、考えもしなかったのというのか。


 小さなため息を、フランソワはついた。


「『王座などというものは、木枠に繻子しゅすを貼り付けた玩具に過ぎない』……ナポレオンの言葉だ。父上にも、わかっておられた筈なのに。僕は、富や玩具を受け継ぎたいわけでは、決してないのだ」


さらに彼は、言葉を重ねた。


「度量衡や貨幣の統一、そして、異なる民族であっても、互いに意思の疎通ができる、言語の確立……。確かに父上も、それを望まれていた。乱立する国々の真の調和と、人々の格差をなくすことこそが、僕に課せられた使命であったはずなんだ」


 アシュラは息を飲んだ。

 背筋に寒気が走った。やはりベートーヴェンは、シューベルトは、……芸術家の魂は、間違っていなかった……。


「殿下」

アシュラはそっと、フランソワの手を取った。

「貴方を、魔王に。私はそう、考えています」


「魔王?」

フランソワは目を瞠った。


 力強く、アシュラは頷いた。

「全ての人間を統べる覇者に。あなたこそが、それにふさわしい」


「僕は、乞われなければ、誰の上にも立つつもりはない」

静かに、フランソワは、アシュラの手から、自分の手を引き抜いた。

「人はみな、平等だ。人の上に、人があっては、ならない。それこそが、革命の、究極の理念ではなかったか」


「魔王は、人ではありません。より高位の存在です」

アシュラが言うと、フランソワは笑いだした。

「僕は、そんな者ではないよ。そんな者では、全然ない!」

「殿下……、」

「僕は、ウィーンに囚われた、籠の鳥だ」

「殿下! ご自分の真摯しんしな努力を、そのような言葉で、おとしめないで頂きたい!」


「お前、何を夢みたいなことを言っている」

 叱りつけるように言って、フランソワはアシュラを押しのけた。

 足早に立ち去っていく。


「ただ……」

離れたところで、振り返った。

「お前が、ずっと僕のそばにいるのなら、考えてやってもいい。つまり……」

再び、頬を赤らめた。

「お前は、ずる賢いからな。二人で悪さをしたら、それはそれで、楽しいと思うんだ」


「おそばにいますとも」

「ずっとか?」

「永久に。そのことばの意味の果まで」

まじめに、アシュラは答えた。


 フランソワは、眉間に皺を寄せた。

 すぐにそれが、彼の愛読書、『ドン・カルロス』の一節だったことを理解したようだ。

 爆笑した。





 数週間の沈黙の後、フランソワは、パルマの母に向けて、手紙を書いた。それは、思いやりに満ちた、優しい手紙だった。


 お母様の悲しみを思うと、私も、深い悲しみの淵に沈みます。これは、私とお母様に共有の悲哀です。

 亡くなった将軍の友情と、際立った特質は、いつまでも、私の胸に刻まれ、生き続けることでしょう。

 私は、彼のようになれるよう、努力してみます。もしかしたら、いつの日か、お母様は、私の振る舞いの中に、献身的な友であった人の姿を見出すことができるかもしれません。


あなたの最も従順な息子より




 彼の母は、彼の父を裏切った。

 幼い彼、そして、ずっと母を信頼してきた今の彼をも、欺き続けた。

 しかし彼は、母を愛することを止めなかった。

 ……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る