廃太子の流転/天使の恋


 大尉昇進を機に、フランソワは、ヴァーサ公の連隊で、軍事演習を学ぶ事になった。




 グスタフ・ヴァーサは、1899年、スウェーデンの王子として生まれた。


 彼の父、グスタフ4世は、強烈な反ナポレオン派だった。

 しかし、時代は、まさにナポレオンの絶頂期。フランス帝王ナポレオンに逆らうことは、スウェーデンの危機を意味した。


 これを憂えた臣下により、グスタフ・ヴァーサ王子が10歳の時、クーデターが起きた。父グスタフ4世は廃され、父の叔父、カール13世が即位した。

 グスタフ一家は、母国スウェーデンわれた。



 カール13世には、跡継ぎがいなかった。それで、デンマークの王子を皇太子に招聘したのだが、彼は、落馬事故で、王より先に、亡くなってしまった。



 因みに、この王子の葬儀執行責任者は、かつてのフランス王妃、マリーアントワネットの恋人と目された、フェルゼン伯爵である。彼は、グスタフ・ヴァーサの祖父が王だった頃から、3代に亘って、スウェーデン王に仕えていた。



 少し話は脇道に逸れるか、フェルゼンの死は、酷かった。

 皇太子の葬儀の折、フェルゼンは、集まった群衆から、一斉投石を受けた。

 皇太子の死が、彼の陰謀であるとの、悪質な流言が流れた為だ。


 その後、傷ついた体を広場へ引き出され、棍棒で滅多打ちにされた挙げ句、踏みつけられて、惨殺された。居合わせた指揮官や兵士達は、彼を救おうとしなかった。



 スウェーデンの、次の皇太子を打診されたのは、フランス人だった。

 ジャン=バチスト・ペルナドット。軍人だ。

 ペルナドットの妻は、かつて、ナポレオンの、婚約者だった女性だ。

 ナポレオンが、ジョセフィーヌと結婚する前の話である。

(ちなみに、ペルナドットの、妻の姉は、ナポレオンの兄・ジョセフの妻である)


 ペルナドット将軍は、有能で、軍の規律を重んじ、かつ、敗者に対しても寛大だった。

 しかし、なにかにつけ、ナポレオンの覚えがよくないのも、また、事実だった。

 ペルナドットは、スペインからの申し出を受け入れ、皇太子となった。



 1818年。カール13世が亡くなった。皇太子ペルナドットが、カール14世として、即位する。

 これにより、長く続いた、ホルシュタイン=ゴットルプ朝は、断絶した。

 現代まで続く、ペルナドット朝の開闢かいびゃくである。



 一方、ナポレオンを嫌い、為に、クーデターで国を追われた、かつての国王・グスタフ4世一家は、ヨーロッパの各地を彷徨っていた。


 長男グスタフ・ヴァーサは、14歳の時には、ウィーンに来て、オーストリア陸軍に入隊している。

 その後、順調にキャリアを重ね、この年(1829年)には、大将として、ウィーンに駐留する旅団の、指揮官を務めていた。




 フランソワが演習訓練を受け始めたのは、このスウェーデン廃太子、グスタフ・ヴァーサの下の、選抜歩兵 大隊だった。



 訓練が始まると、生活は一変した。

 朝4時に起きて、演習場に向かう。軍事訓練に参加し、7時半には、シェーンブルン宮殿に戻る。乗馬のレッスンがあるのだ。その後、家庭教師による、学科の勉強が待っている。


 そんな生活が続いていた。

 ……。







 今度こそ、エオリアと出かけよう。

 固い決意でアシュラは、レオポルシュタットの書店を訪れた。


 店の前には、店主のシャラメがいた。入り口の硝子に張り付くようにして、自分の店の中を窺っている。


「シャラメさん?」

思わず声を掛けると、ぎょっとしたように振り返った。

「あ、あ、あ、君か、アシュラ。こんなところで、何してる」

「本屋に来たんですよ。あなたこそ、何をこそこそしてるんです? 自分の店の前で」


「しっ! でかい声をだすな!」

小声で、シャラメが制した。

「ちょっと、覗いてみろ」

言われるままに、薄汚れた硝子を透かして、アシュラは店の中を覗いてみた。


 かわいらしい、薄桃色のブラウスを着たエオリアの姿が見えた。レースのついた白いショールを羽織った彼女は、まるで天使のようだ。

 エオリアは、手にした本を、客に向けて差し出している。

 彼女が声を掛けたのだろう。客が振り返った。


「あっ!」

 思わずアシュラは、小さな声を挙げた。


 フランソワだった。あのフランソワが、そこにいた。

 薄暗い、シャラメの店の中に。

 天使のような、エオリアと一緒に。


「ななな。あれ、ライヒシュタット公だろ? ナポレオンの息子の!」

興奮した声で、シャラメが問いかける。

「……」


 エオリアが、頬を赤らめて、何か話している。彼女の差し出す本を、フランソワが受け取った。光の加減で、その表情は、わからない。


 多分、礼を言ったのだろう。

 エオリアの顔が、ぱっと輝いた。

 今までアシュラが見たことがない顔だ。嬉しそうな、それでいてどこか、恥じらいを含んだ、柔らかく、甘い、笑顔。


 シャラメが首を振った。

「この頃、よく、ここに見えるんだ。身分のある方だということは、ひと目でわかった。地味だけど、質のいい服を着ている。それに、とても教養がある。フランス語の本も、よく買っていかれるし。ナポレオン関連の本も、随分たくさんね! 金髪、青い目、そして、背の高い……年の頃からいっても、あれは、ライヒシュタット公だ。ナポレオン2世に間違いない!」


「なにっ! ナポレオン2世だと?」

 二人の後ろで、胴間声が聞こえた。

 画家の、ダッフィンガーが立っていた。

「ちょっとどけ。見せろ」


 大きな手で、アシュラとシャラメを押しのける。

 汚れた硝子に、顔を押し当てた。


「うむ。あの広い額、通った鼻筋、それに、深く窪んだ瞼。ナポレオンにそっくりじゃないか。上部の特徴的なカーブ、そして下部が大きくて……おおっ! 耳の形まで同じだ! だが、白い肌は、母親に似たな。だが、うん、そこまで受け口じゃなくてよかった。むしろ、口の端が、きゅっと上がっているところは、若い頃のナポレオンそのままだ」


「ダッフィンガーさん、ナポレオンをご存知で?」

シャラメが尋ねる。

「呆れるほど肖像画を見てるじゃないか。この店で」

「ああ、そうか」

店主は合点がいったようだった。


「なあ、アシュラ。君は、ライヒシュタット公を知っているんだろう? なんたって、お前は、彼のスパイだからな! あれは、間違いなく、彼だよな?」

 ダッフィンガーと一緒になって、自分の店の中を覗きながら、シャラメは、アシュラに問いかけた。


 彼は、二人の後ろに、取り残されたように、ぽつんと立っていた。それまでずっと、押し黙ったままだった。


「……ええ」

絞り出すような声が答えた。



 「なんという、逸材だ!」

不意に、ダッフィンガーが叫んだ。

「腕が鳴る。是非、肖像画を描きたい!! よしっ!」

いきなり、ドアを開こうとした。


 シャラメは慌てた。

「ちょっと! ダメですよ、ダッフィンガーさん!」

「なぜ! 相手は皇族だぞ? この機会を逃したら、いつまた、出会えるか!」

「大丈夫ですよ。決まった日、決まった時間に、この店に、おいでになるから」

逸るダッフィンガーを羽交い締めにする。

「ちょっと! あなたには、あの、雰囲気がわからないのですか!」

「あの雰囲気? どの雰囲気だ?」

「だから、うちの娘との……あっ!」


 慌ててアシュラを顧みた。

 蒼白のその顔に気づき、なおも慌てた。

「だだだ大丈夫だ。エオリアがこの間、君との約束を反故にしたのは、彼が来る日だからだと……あの時、私は、ちっとも気づかなかった! だからっ!」


「うむ。アシュラが娘婿になる件は、白紙に戻されたな」

 ダッフィンガーは、シャラメから腕を振り放した。肩をぐるぐる回す。

「店主、あんた、あんなに喜んでたのにな」

「ななな、何を言ってる!」

シャラメが噛み付いた。

「エオリアは誰にもやらん! たとえ相手が、ローマ王であっても、だ!」

「大事なのは、本人たちの意向だ。だがなあ。皇族との結婚は難しいぞ……」

「だから、誰にもやらんと言ったろう!」

「いいじゃないか。なんなら、妾でもいいわけだし。愛さえあれば……」

「妾だと! 貴様、うちのエオリアを侮辱するのか! 誰ぞの囲われ者になるくらいなら、アシュラにくれてやった方が、なんぼかマシ……」


「あれ? アシュラは?」



 アシュラの姿は、消えていた。

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