カンパニュラの花と怪しいスープ
町中の花売りの少女から、カンパニュラの花を買った。本当は、もっと華やかで目立つ花がよかったのだが、この季節、たいした花は出回っていなかった。釣鐘型の青い花は、それでも、涼しげで、可憐に見えた。
シャラメ書店の入り口で、アシュラは胸元をつまんで、整えた。硝子に映った自分の影を見て、軽く髪を撫で付ける。
アシュラが入っていくと、店主のシャラメは、読んでいた本から、目を上げた。
「また来たのか。よく来るな、君も。暇なのか?」
「ヒマじゃないよ」
狭い店内を、アシュラは、きょろきょろした。
「エオリアは?」
「買い物に行った」
最初にこの書店を訪れたのは、フランスで会った、ユゴーとエミールに連絡を取る為だった。
信頼できる料理人を見つけてもらおうと思ったのだ。
ユゴーは、ヴァーラインという、フランス料理の専門料理人を送り込んできた。モーリツ・エステルハージの後押しもあって、めでたくヴァーラインは、宮廷の厨房に入り込むことに成功した。
ヴァーラインは、信頼できる仲間を、何人か連れていた。彼らは、プリンスの食事に毒が混入することがないか、厳しく見張っている。
一安心だった。
それ以降、何度か、アシュラは、シャラメ書店を訪れていた。
店の入り口につけられた、カウベルの音がした。
「ただいま」
両手にパンの包みを抱え、ストロベリーブロンドの少女が入ってきた。急いで歩いてきたのか、顔が真っ赤だ。
辺り一面に、焼き立てのパンの匂いが、香ばしく漂う。
「おかえり、エオリア!」
父親のシャラメより早く、アシュラは叫んだ。
「もう秋なのに、まだまだ暑いね!」
「本当にね」
エオリアは、にっこり笑った。紅潮した頬に、乱れた髪がかかって、愛らしい。アシュラは、うっとりと眺めた。
「これ、君に……」
差し出したカンパニュラは、しかし、暑さのせいで、萎んでしまっていた。
戸惑い、反射的に、引っ込めようとした。
「あら、ありがとう!」
その手を、エオリアは抑えた。汗ばんだ肌が触れ合って、アシュラは、どきりとした。
「私、この花、大好きよ! このお花、袋みたいになってるでしょ? 中にホタルを入れるの! 暗い中で見ていると、ホタルが光って、お花の青い色が、それはそれはきれいに透けるのよ!」
「へえ!」
アシュラは感心した。
「じゃ、これから二人で、ホタルを捕まえに行こうか……」
「ダメダメ、夜の外出は禁じます」
きっぱりと言ったのは、父親のシャラメだった。メガネをずり上げ、じろりとアシュラを睨む。
「それに今の季節、もうホタルなんて、いるもんか」
「残念」
たいして残念でもなさそうに、エオリアが言った。
「アシュラは、夜になっても怒られないんでしょ? お夕飯、食べていく?」
「いくいく!」
大喜びでアシュラは答えた。
「君ね、ああいう時は、断るもんだよ」
シャラメがぐちぐち言っている。
夕飯の支度をするからと、エオリアは、店の奥の住居部分に引っ込んでいた。
「それが、気の毒な父親への心配りというものだろうが」
「なんで? 夕飯を食べるだけなのに?」
「そんなの、町の飯屋で食べればいいじゃないか。うちには、よその人に、夕飯を食べさせる余裕などない」
「いいじゃないですか、ちょっとくらい」
「ちょっとじゃない! 先週も、君は、夕飯を食べていった!」
「おいしかったなあ、あの、ええと、あれはなんだろ。創作料理?」
実際のところ、それは、肉を煮た後の上澄み液に、野菜の切れ端が浮いた、何かだった。味も、微妙だった。
しかしアシュラには、とてもおいしく感じられた。
「ううう……、
シャラメが、歯ぎしりしている。
ふと、彼は、アシュラが触っている包みに目をやった。
「君、それ、その本に触っちゃいかん!」
「え?」
アシュラは驚いて手を引っ込めた。ちょうど、布の包みが解けて、中から美しい緑色の表紙の本が顔を出したところだった。
目を大きく見張って、シャラメが警告を発した。
「その本は、不幸の本なんだ!」
「不幸の本?」
「そうだ。持ち主は皆、不審な死に方をするという……」
シャラメ書店は、新聞や新刊書の他に、古書も扱っている。
「こないだ亡くなった男爵様の遺族から、やっとのことで、譲り受けてきたんだ」
「なんだって、また、そんな不吉なものを……」
「だって、稀覯本じゃないか!」
シャラメは胸を張った。
「そういうのを欲しがる好事家もいるんだよ。高く売れるぞ、それは」
「確かに、きれいな緑色をしてますがね」
本のカバーは、目に鮮やかな緑色だった。つややかに光っている。
再びアシュラは、本に手を伸ばした。
「だから、触るんじゃない! 君が不幸になるのは、ちっとも構わんが、死なれたら寝覚めが悪い」
「触っただけで死んだりするもんですか」
アシュラは、興味津々だ。シャラメは顔を顰めた。
「いいから、離れろ! 君が、そんなに本が好きだなんて、知らなかったぞ」
「本? 別に、好きじゃありません。眠くなりますし」
「何、本が嫌いだ? そんなやつは、論外だ。断じて、娘に近づけるわけにはいかん!」
「嘘! 今のは嘘です! 本、大好きです! 心の友です」
「嘘つきもダメだ。とにかく、その本から、離れるんだ」
「ケチだなあ。触ったって、減りゃしませんよ」
「減る!」
「何が?」
「不幸が!」
「どケチ!」
なおもアシュラは、本に触ろうとする。
「パリス・グリーンだ」
ふいに、深く低い音程の声がした。
いつの間にか、店の中に、男が一人、入っていた。広い額に巻き上がった髪、もじゃもじゃとした頬髭、跳ね上がった眉。その下の、意志の強そうな目……。
「ダッフィンガーさん!」
シャラメが、口にした。
「いつからそこに?」
「さっきからだ。おい、そこのチビ。それに触っちゃいかん」
「俺は、チビじゃない!」
むっとして、アシュラは言い返した。
薄く、ダッフィンガーは微笑んだ。
「まあ、いい。誰にでも欠点はあるものだ」
「だから、チビじゃないって言ったろ!」
「店主の言うとおりだ。その本には、触らないほうがいい。光り輝くエメラルド・グリーンは、危険だ」
「危険?」
「ヒ素だよ、その色は」
ぎょっとして、アシュラは、後退った。
モーリツ・ミヒャエル・ダッフィンガーは、画家だった。
シャラメ書店の常連客だという。
「パリス・グリーンは、近年、工業生産されるようになった、顔料(絵の具やインクなどを指す)だ。だが、鮮やかなその色を見れば、すぐ、わかる。パリス・グリーンは、ヒ素を原料としている」
大きなパンに、そのままかぶりつきながら、ダッフィンガーが弁舌を奮っている。
なぜ、この画家が、自分と一緒に、夕食の席についているかは、謎だった。ダッフィンガーは、当たり前のように、シャラメ家の食卓についたのだ。
「スープはいかが、ダッフィンガーさん」
優しい声で、エオリアが勧めた。
「いや、パンと水だけで結構」
速攻で、ダッフィンガーが断っている。
画家の年齢は、30代の後半であろうか。もしかして、この男も、エオリアが、好き……、なのでは……?
アシュラは、気が気ではない。
いやいや、どうしたって、年齢が釣り合わないだろう。
……自分には、何の取り柄もない。収入も、わずかしかない。だがこの中年男に比べたら、ずっと……。
……少なくとも、自分は、彼女お手製の「スープ」を、完食した……。
「あら、アシュラ。食べ終わったのね。お代わりはいかが?」
「うん、戴くよ」
「私にも!」
負けじと、父親のシャラメが、空のスープ皿を差し出す。アシュラを見て、にやりとした。
「大盛りで」
「もちろん、僕も、大盛りにして、エオリア」
「ああよかった。これで、今日は、お鍋が空になるわ」
嬉しげにエオリアが空のスープ皿をふたつ、両手に持ち、台所へ向かう。
「君は、俺に、礼をいうべきだ」
尊大に、ダッフィンガーが言った。
「だれが……」
小声でつぶやき、アシュラはそっぽを向いた。
「ああ? 何か言ったか?」
「何も」
「恩知らずなやつ。それと、君もだ、シャラメ」
「なぜ私が?」
「俺は、君の娘婿を、救ってやった」
「!!」
ワイングラスに口をつけていたシャラメは、盛大に吹き出した。鼻から赤ワインを吸い込んだのか、激しくむせ返っている。
「あら、いやだ! お父さんったら!」
台所から戻ってきたエオリアが、叫んだ。2つの皿には、縁までなみなみと、怪しい色のスープが注がれている。
彼女はスープ皿を盆ごとテーブルに置くと、布巾を取りに、再び台所へ走った。
ダッフィンガーが何と言ったか、聞こえてはいなかったようだ。
「違う! 娘婿などではない!」
むせた咳の間から、やっとのことで、シャラメが言い返した。
ダッフィンガーが、もじゃもじゃの眉を釣り上げた。
「違う? なら、こいつは、なんだ?」
「とととと、ともだ……」
アシュラが言い終わるより早く、シャラメが叫んだ。
「他人だ!」
「他人? ははあ、なるほど」
画家は、にやりとした。
「大丈夫だ、若いの。略奪なら、俺はもう、とうの昔にやってのけた。かのグリルパルツァー(※)の想い人を、妻に迎えている。彼女は危険だ、謎のような雌鹿の目を持っている。気をつけろ!」
「……」
アシュラは呆気にとられた。
気をつけろと言われても、見たこともない画家の妻の、何に気をつけたらいいのだ?
得々として、ダッフィンガーが続ける。
「知りたいなら、教えてやる。俺は、浮気はしない」
「!」
思わずアシュラは手を伸ばし、絵の具で汚れた画家の手を握った。
万感の思いだった。
「あら、珍しい」
布巾を持ったエオリアが戻ってきた。
「ダッフィンガーさんが、人と仲良くしてる……」
※
グリルパルツァーは、この時代の有名な劇作家です。
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