「冬の旅」


 演奏会が終わると、観客達は、次々と席を立っていった。

「大丈夫? アシュラ」

エオリアが、立ち上がろうとしてやめた。

「うん……」

アシュラは立ち上がろうとしない。

 立ち上がれない。

 黒い両眼から、静かに涙が流れ落ちていた。

「アシュラ」

前を向いたまま、エオリアがアシュラの手を取った。静かにその手を撫で続ける……。




 ようやく勝ち取ったデートだった。

 父親の妨害を乗り越え、エオリア特製スープを、4回(笑顔で)おかわりし(シャラメは、2回半でギブアップした)、ようやく……。


 アシュラがエオリアを誘ったのは、シューベルトのコンサートだった。シューベルティアーデの集まりではなく、音楽ホールでの、公開コンサートだ。



 今年(1828年)3月、シューベルトは、初めて、自分の作品だけで演奏会を開いた。

 あいにく、この時、イタリアのヴァイオリニスト、パガニーニがウィーンを訪れていた。彼の陰に隠れて、シューベルトの演奏会の評判は、いまひとつだった。


 しかし、外国からは、数々の好意的な批評が、シューベルトの音楽会に寄せられた。

 まさにその外国経由の批評を読んだのが、シャラメだった。


 シューベルトの音楽会なら、ということで、ようやく、エオリアを連れ出すことに、許可が降りたのだ。

(自分も連れて行けという父親シャラメを振り切るのは、なかなか大変なものがあった。肝心のエオリアにまで、父を連れて行くよう、頼まれる始末だった。「チケット、2枚しかないんです。そしたら、僕が諦めるしか……」哀れな半べそを浮かべて見せて、ようやく、エオリアと「二人だけ」は実現した)



 「冬の旅」は、ベートーヴェンが死んでからずっと、シューベルトが取り組んできた、連作歌曲集だ。昨年末に完成し、友人の家で、シューベルト自身が、初めて歌った。

 その時の友人たちの評判は、いまひとつだった。しかしシューベルトは、「僕は、一番この曲集が気に入っている。君たちも、いずれ、気にいると思うよ」と言ったという。


 残念なことに、アシュラは、作曲家による「初演」を聴くことができなかった。ちょうどフランソワが体調を崩し、外出を禁じられて、馬の絵ばかり描いていた頃のことだった(※)。



 「冬の旅」。シューベルト自身が、一番、気に入ったという曲……。

 是非、聞いてみたかった。

 聞かせてみたかった。

 大好きな人に。


 しかし、まさか、これほど魂を揺さぶられるとは……。



 シューベルトによる「初演」を聞いた友人達は、口々に、「よくわからなかった」と繰り返していた。

 作曲家自身の声は、一流歌手の歌声には到底、及ばなかったということなのか。自分には歌えない奥義を、シューベルトは、自身の曲にこめたのか。


 アシュラがエオリアを連れて行ったこの日。幅広い音域を持つバリトン歌手、フォーグルの歌声は、素晴らしかった。


 アシュラは、油断していた。

 まさか、これほど、心の奥底を揺さぶられるなんて。


 それは、しかし、美しいだけではなかった。

 暗く陰鬱で、そして、哀切だった。

 シューベルトの「冬の旅」は、アシュラが心の奥底に秘めた孤独と、激しく共鳴した。





 「きれいな曲だったわね」

並んで川べりを歩きながら、エミリアが言った。

「私は、音楽のことはよくわからないけど……でも、きれいだってことは、わかった」


「寂しい曲だったね」

アシュラは答えた。涙が出たのは、自分でも全く予想外のことだった。あんなふうに、立ち上がれなくなるくらい泣いたことが、とても恥ずかしかった。

「凄く暗くて、重苦しくて。でも、君の言う通りだ。とてもきれいな曲だった」


「ミケランジェロの『ピエタ』像って、知ってる?」

唐突に、エミリアが口にした。


 有名な聖母子の像は、そのスケッチを、アシュラも見たことがあった。


「私ね、」

 前を向いて、ずんずん進みながら、エオリアが続けた。

「冬の旅人がいたら、あの聖母様のように、ずっと抱いていてあげたい。……冬が終わるまで。その人が、寂しくなくなるまで」


 胸が詰まった。

 決して、負担はかけまい。この人を大切にしよう、と、アシュラは、強く思った。







 9月に入って、シューベルトの具合があまりよくないと、アシュラは、人づてに聞いた。

 シューベルトの古い友人の、シュパウンからだ。

 シュパウンは、シューベルトより8歳年上、コンヴィクト時代からの友人だ。


 「夏の間は、居酒屋やコーヒーハウスで楽しく過ごしたんだけどな。仕事も絶好調で、たくさん作曲してたんだ。それが、涼しくなった途端、目眩がするようになったんだ。郊外のきれいな空気が必要だと医者が言うから、お兄さんの家に引っ越すんだそうだ」

「病気だったんですか、彼は!」


 エオリア・シャラメと聞いた、「冬の旅」の、暗く寂しい曲調が俄に耳元で蘇り、アシュラは不安になった。


「寂しいんじゃないかな」

ぽつりと、シュパウンは言った。

「シュヴィントも、ミュンヘンへ行ってしまうし。向こうで、美術学校に入るって」



 シュヴィントは、シューベルトの、熱烈な崇拝者だ。シューベルトより7歳年下の彼は、美形で、体つきも、女性のように、なよやかだ。



「それは……」

言いかけて、アシュラは止めた。


 マイヤーホーファーが、さぞや安堵するだろうと思ったのだ。


「それが、マイヤーホーファーのやつ、逆に、元気がないんだよな。ライバルがいなくなって、ほっとするところだろうに。なんか、陰気になっちゃってさ。まるで、ひどい悩み事でもあるみたいだ」

シュパウンが言い放った。


 彼は、年のはじめに、結婚したばかりだ。

 幸せな男は、友に冷酷……無関心という名の……になるものだと、アシュラは痛感した。







この章の「ナポレオンの軍馬」、ご参照下さい。

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