ナイペルク将軍の苦悩


 明日はパルマへ帰るという晩、マリー・ルイーゼは、皇帝と皇妃に挨拶に赴いた。

 ディートリヒシュタインは、旧友ナイペルクの部屋を訪れた。


 今回の帰省で、ナイペルクの顔色がひどく悪く見えて、ディートリヒシュタインは、心配だった。

 皇女がいない間に、少し話しておこうと思ったのだ。



 ナイペルクは、1814年に、護衛官としてマリー・ルイーゼに付き添ってから、ずっと、彼女の傍らにあった。一緒にパルマへ趣き、今では、彼女の右腕となって、その治世に尽力していた。


 ディートリヒシュタインとナイペルクは、友人同士だった。

 最初は短期雇用だった家庭教師を、長期契約に切り替えたのは、このナイペルクの口添えがあったからだ。

 採用当初は、幼いプリンスはおろか、母親のマリー・ルイーゼでさえ、ディートリヒシュタインの威厳と堅苦しさに、疑問を抱いていたものだ。



 部屋には、先客がいた。

「あっ、先生!」

現れたディートリヒシュタインを見て、プリンスは、腰を浮かせた。

「じゃ、僕はこれで。将軍、どうか、お元気で!」


「構わないから、プリンスも、ゆっくりしておいきなさい」

ディートリヒシュタインは、教え子を引き止めた。

「いえ、」

「遠慮しなくてよろしい」

「……」


困ったように、プリンスが頬を赤らめた。

「実は、この後、ゾフィー大公妃と約束していて」

「そうか。なら、私からもよろしく申し上げてくれ」


 ゾフィー大公妃は、プリンスのめんどうを、とてもよく見てくれていると、常日頃から、ディートリヒシュタインは、感謝していた。

 ハンカチーフやベストなど、洒落た服飾小物の手配をしてくれ、そのセンスの良さが、ディートリヒシュタインは、嬉しかった。これで、教え子の株が、なお一層、上がろうというものだ。


 また、二人は、熱心に、手紙のやり取りをしていた。

 ゾフィー大公妃は、プリンスに、手紙の書き方を、熱心に指導してくれているのだ!


 プリンスの雑な手紙の作法を、畏れ多くも大公妃にお見せするのは、ディートリヒシュタインとしても、心苦しかった。が、優しい叔母は、家庭教師には絶対にできない辛抱強さで、彼の誤字脱字や文体の誤りを、矯正してくれているに違いなかった。



 明らかにほっとしたように、プリンスは立ち去っていった。



 「立派になったね、プリンスは」

その後姿を見送り、しみじみと、ナイペルクは言った。


「うむ。私も彼を、誇りに思っているよ」

ディートリヒシュタインが感慨に浸ると、片目の将軍は、眉を吊り上げた。

「君が?」

「ん?」

「そうか。私は、てっきり……」

「てっきり、なんだ?」

「だって君は、ずっと、彼の昇級に反対してきたろ?」

「ああ」


閉められた扉をちらっと見、ディートリヒシュタインは頷いた。

「今でも反対だよ。でも、2年経ったら認めると約束したのだ。仕方がない」


ナイペルクは不満そうだった。

「君はそう言うが、彼の軍務の才能は、素晴らしいではないか。プリンスのくれる手紙は、既知に飛んだ戦略や、卓抜な発想で満ち溢れている。さすがは、あのナポレオンの……、」


「それが、問題なのだ」

ナイペルクの言葉を、ディートリヒシュタインが遮った。

「軍において、プリンスは常に、ナポレオンの息子として、注目を浴びるだろう。その優美な姿や立ち居振る舞いは、将校から下級兵士まで、常に熱狂の渦に巻き込んでいくに違いない。だが、まだ、彼は若い。その中に、不埒な悪が手ぐすね引いて待っていることを、どうして見破れようか」


「君の心配も、もっともだ」

ナイペルクは頷いた。

「この春にも、私は、具体的な回避方法を書き送ったばかりだ」


「君には、感謝している」

ぼそりと、ディートリヒシュタインはつぶやいた。

「君はいつも、プリンスの相談役を務めてくれた。私や、フォレスチ先生に話せない不安や心配事を、彼は、パルマの君に、書き送っていたろう?」

「それは、仕方のないことだよ。君たち家庭教師は、表立って、ナポレオンの名を出すわけにはいかないからな。自らの出自に関する悩みを、プリンスに打ち明けられても、君らは、困惑してみせるしかなかった」


「君には、感謝している」

再び、ディートリヒシュタインは繰り返した。眉をひそめ、続ける。

「皇帝は、プリンスを昇進させ、すぐにも実際の軍務につけるおつもりだ。そして、戦線に送り出すおつもりなのだ。……私は、永遠に、それに反対し続ける所存だ」

「皇帝に反対する? だって、プリンスご自身も、」


「軍務が、彼の強い希望だということは、よく知っている」

強い口調で、ディートリヒシュタインは断じた。

「だが、私は、反対する。彼の居場所は、軍ではない。彼の居場所は、ここ、宮廷だ。外交、社交、そして……」

少しためらった。

「彼は、聡明で賢く、そして、優しい。身分の卑しい者にまで、深く共感することができる、美しい魂を有している。彼こそ、この世界の、真の王になるべき器だと、私は思う」


「なあ、ディートリヒシュタイン。軍務につくことについては、シュタウデンハイム医師も、反対しているのだろう?」

ためらいがちに、ナイペルクが切り出した。

「実は、シュタウデンハイム医師から、私のところへ手紙が来たんだ。とにかく、慎重に、厳格に、プリンスの健康を管理しなければならないというんだ……」


 成長し切るまで、酒などの有害な食物を遠ざける。

 ダンスやフェンシングなど、激しい運動の禁止。

 それは、医師が、ディートリヒシュタイら家庭教師に与えた注意と同じものだった。


「他の病との合併症を、シュタウデンハイム医師は、何より、心配しておられた」


 友の言葉に、ディートリヒシュタインの脳裏を、去年の夏、グラーツの城で、プリンスが陥った症状のことが過った。

 あれは、その病が、「他の病」と重なった結果だったのだろうか……。


 なら、プリンスが、最初に、その病に罹ったのは、いつだったろう……。



「……結核」

ため息をつくように、ナイペルクが言った。

「お母上の、大公女マリー・ルイーゼ様も、隠し持っておられる病だ。昔、喀血されたこともあったそうだ。だが、今ではすっかり、よくなっておられる。だから、プリンスも、大丈夫だ。きっときっと、大丈夫だ」


「当たり前だ。プリンスが、病気になんか、負けるわけがない。シュタウデンハイム医師も、はっきりと、結核だと診断を下されたわけじゃない。今回だって、母上のお顔を見た途端、プリンスの咳は、ぴたりと治まったじゃないか。それにしても……」

ディートリヒシュタインは、意外に思った。

「シュタウデンハイム医師は、君のところへも手紙を書いたのか。マリー・ルイーゼ様には、別に、診断書を送ったはずだが」


 バツが悪そうに、ナイペルクは視線をそらせた。

「それは、あれだ。彼女は、公務にお忙しく……」


「わかってる」

苦しげな友の言い訳を、ディートリヒシュタインは遮った。

「今回のご帰省は、皇帝が強く命じられたからこそ実現したのだろう? プリンスの体調がすぐれないのを、皇帝は、ことの外、心配しておられたから。もし今年も帰って来ないのなら、銃撃隊を差し向けると、皇女マリー・ルイーゼ様に、書き送らせたそうだ」


「申し訳ない」

「なぜ、お前が謝る」


「……」

ナイペルクは答えなかった。


 ディートリヒシュタインは、友を見つめた。しっかりとした声で、語りかけた。

「マリー・ルイーゼ様に代わって、君がプリンスに対して果たしてくれた役割に、感謝している。どうか、これからもずっと、彼の相談役を務めてやってくれ。私達教師には務まらぬ、父親の役を、君が、務めてやってくれ」


「父親の役?」

ナイペルクの顔が、青ざめた。

「いや、私には……私は、皇族ではない」


「だからこそだ。ナポレオンは、決して、皇族ではなかった。彼には、青い血は、流れていなかった。その赤く滾る血は、どうしようもなく、プリンスにも伝わっている」

「……」


 ナイペルクは黙り込んでしまった。

 沈黙の友を振り返り、ディートリヒシュタインは驚いた。


「ずっと、聞こうと思ってたんだ。ナイペルク、君、どこか悪いのか? 今だって、顔色が、真っ青だぞ」

「プリンスにも言われたよ」

ナイペルクは微笑んだ。無理をしているように、ディートリヒシュタインの目には映った。

「ナイペルク……」


なおも心配する友の言葉を、隻眼の将軍は遮った。

「あの子は、いい子だな。あの子は、本当に、いい子だ」

「ああ。私は、彼が、大好きだ」

「直接、本人に言えばいいのに」


「言えるものか!」

憤慨して、ディートリヒシュタインは叫んだ。

「そんなことをしたら、彼はますます、つけあがる。増長したプリンスの、扱いづらさといったら……!」


「君は、憎まれ役に徹するわけか。辛い役回りだな」

「そうなんだ。この頃、フォレスチ先生は、プリンスにすっかり籠絡されていて、使い物にならん。もっぱら、私と、新任のオベナウス先生が、嫌われ役だ」

「皇帝も、きっとご理解下さるさ」

そう言って、なぜかナイペルクはため息をついた。


 微かな音がして、部屋のドアが開いた。

「あら、ディートリヒシュタイン伯爵。おいでになってたのね」

マリー・ルイーゼが帰ってきた。


 疲れ切った表情だった。

 皇帝や皇妃と話していて、何を疲れることがあったのだろうと、ディートリヒシュタインは訝しく思った。


「すぐ、お暇致します」

「そうね。明日は朝、早く、パルマへ向けて出発しますから……」

マリー・ルイーゼは、ちらりとナイペルクを見た。

 疲れ切っている表情だったが、どこか、重荷を下ろしたような安堵も、感じられた。


 父君と別れるのが、お辛いのだろう、と、お人好しの家庭教師ディートリヒシュタインは判断した。


 マリー・ルイーゼは、子どもの頃から、度を越して、父の皇帝が、大好きだった。

 案外、プリンスの母親への愛着は、遺伝かもしれないと、ディートリヒシュタインは思った。母方の血に加えて、マザコンで有名なイタリア男(ナポレオンは、コルシカ島出身)の血も、影響しているのだろう。







 その年(1828年)の9月。

 フランソワは、白い制服の胸に、三ツ星をつけて、演習に参加した。その腰には、刃の反り返った剣を佩している。

 奇しくも三ツ星は、ナポレオンがコルシカ島を離れた時の、階級だった。


 この後も、彼は、父の形見の剣を帯びて、軍事演習や式典に参加した。

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