初めての昇進
*
17歳の誕生日直前に受けた試験の結果、フランソワは、素晴らしい成績を修めた。
彼は、ホーフブルク宮殿にいるプリンスの中で、最高の知性を持っていると、誰もが認めた。
「それで、お前の母親は、今度はいつ、ウィーンに帰ってくるというのだ。来る来ると言っておいて、なかなか、来ないではないか」
祖父の皇帝から尋ねられ、フランツはうつむいた。
今年の夏も、帰れそうもないことを、母親が、手紙で仄めかしてきたからだ。
「もし、今回もパルマを離れられないというのなら、儂が、銃撃部隊を差し向けるといってやれ」
ぴしりと、皇帝は言い放った。
*
7月。
モルク(ドナウ川沿いのヴァッハウ渓谷に隣接した町)に到着したマリー・ルイーゼは、はにかんだ笑みを浮かべて、自分に近づいてくる若い男を見て、驚いた。
フランソワだった。
一昨年会った時は、彼女と同じくらいの身長だった。それが、今は、軽く6フィート(約180センチ)はある。
「完全な巨人ね」
彼女はそう言って笑った。
「いやいや。プリンスは、まだまだ、背が伸びますぞ」
家庭教師のディートリヒシュタインが、威張って答えた。
「だが、上半身の鍛え方が足りません。もう少し運動をして、胸を拡げて、ですな、」
「お母様、よくいらっしゃいました」
母の前に立ち、プリンスが言った。
甘く優しい声だった。もはや子ども時代の声を辿ることができない。
恥ずかしそうに笑い、青年は尋ねた。
「長旅で、お疲れになりませんでしたか?」
母を思いやる気持ちに満ち溢れていた。
この子からパルマに送られてきた絵……ナポレオンの軍馬の絵……を見て、ひどく不快な気持ちに陥ったことを、
*
母と再会して、長引いていたプリンスの咳は、嘘のように治まった。
……やっぱりな。
家庭教師のディートリヒシュタインは思った。
同じことが、子ども時代にもあったのだ。あの頃も、プリンスは、ひどい咳が続いていた。
ディートリヒシュタインは、パルマへ、何通も手紙を書いたのだが、マリー・ルイーゼは、一向に、帰ってくる気配を見せなかった。
ついにディートリヒシュタインは、半ば恫喝する手紙を書き送った。
……何年もお子さんを放っておかれると、宮廷での貴女の評判は、悪くなる一方です。
1823年のあの夏、12歳のプリンスは、母の顔を見るなり、ぴたりと咳が治まったものだ。
そして、17歳になった、今回も。
ディートリヒシュタインは思った。
……
……幾つになっても。
……母親とは、そういうものだ……。
*
マリー・ルイーゼ滞在中のある夜。
夏の離宮、シェーンブルン宮殿に移った一同は、ビリヤードをして遊んでいた。
少し疲れたフランツが、席を外そうとすると、皇帝が声を掛けてきた。
「ずっと長い間、お前が欲しがっていたものがあったろう?」
「僕が?」
当惑して、フランツは答えた。
「そうだ。お前は、私の期待通りの成績を収めた。私の満足の証として、お前を、私が所有するチロル騎兵隊の大尉に任命する。常に、勇敢であるように。それが、私の望みだ」
初めは、意味がわからなかった。
だが、次の瞬間、激しい喜びがこみ上げてきた。
喜びに酔ったように、フランツは、お礼の言葉を口にした。その言葉は、我ながら不明瞭に、自分の耳に聞こえた。
11歳(正式には12歳)で、将校の一番下の位、軍曹になってから、初めての昇進だった。
……これでやっと、実戦に参加できる。
それこそが、フランツの希望だった。
……祖国のために、この身を挺して、戦うのだ。
その祖国がどこなのかは、この時のフランツにとって、さほど重要ではなかった。
フランスはまだ、オーストリアと敵対していなかったからだ。
大事なのは、ようやくスタートラインに立てたということだった。
父と同じ道に続く、スタートラインに。
ふわふわと、殆ど雲の上を歩くような足取りで続く広間に入ると、驚いたことに、大勢の人が、彼を待ち構えていた。
「おめでとう、フランツェン」
真っ先に、年若い祖母の皇妃、カロリーネ・アウグステが、彼の手を握った。
「ありがとうございます、皇妃様」
フランツは、まだ上ずった声で、お礼を言った。
広間には他に、たくさんの紳士、淑女が集まっていた。彼らは口々に、彼に、祝いの言葉を浴びせた。
その一人ひとりに、彼は、口ごもりながら、礼を述べた。
「立派になったな。どうだ、フランツ。私が君に、軍事理論を教えようか?」
カール大公が言った。
アスペルン戦いの勝者である、この勇猛な大叔父は、今、あらゆる公務から退き、軍事論の著作に専念している。
「え? 僕にですか? 本当に?」
「地形とか、要塞とか、まあ、そういう地味な話だ。聞く気はあるかね?」
「もちろんです!」
当惑しつつ、フランツは頷いた。
カール大公は、父、ナポレオンの敵だった。幼い頃、自分はずいぶん、この人に逆らったものだ。いたずらもした。
それなのに、その自分に、軍事上の知識を授けようとしてくれている……。
ためらいつつ、大公が口を開く。
「実は、マリアが、君に会いたがってな」
「大公女が?」
マリア・テレジアは、カール大公の、一番上の娘だ。今年、12歳になる。
「もちろん、弟のアルブレヒトも一緒に連れて行く」
なぜかきっぱりと、カール大公は言い放った。
「アルブレヒト
「いや、あやつに、軍事教育は、まだ早過ぎる。だが、姉の番くらいはできるだろう」
「大公女の? 番?」
「……、」
「カール大公!」
向こうで、誰かが呼んでいる。
人気のある大公は、あちこちで引っ張りだこだった。すぐに、フランツのそばから、立ち去っていった。
「フランツル……」
ゾフィー大公妃が声を掛けてきた。傍らに、F・カール大公の姿も見える。
「ありがとう、ゾフィー。F・カール大公も」
「まあ、いっぱいやれや」
相変わらず、しまりのない顔でにやにや笑いながら、
「あ、ちょっと待って……」
広い広間を、フランツは、きょろきょろと見回した。
本当に、彼が、この喜びを分かち合いたい人は、テーブルのすぐ近くにいた。優しい目で、彼を見守っていた。
すぐ近くに、家庭教師のディートリヒシュタインもいる。
「お母様!」
弾んだ声で、彼は呼びかけた。にっこりと、母は微笑んだ。
「よかったわね、フランツ。あなたが、頑張ったからよ」
「おめでとう、フランツ君。これで君も、きたるべきミュンヘンドルフ(ウィーンから数キロ南)での大演習の時、何の飾りもない制服で参加しなくても、すむわけだ」
相変わらず皮肉交じりの口調で、それでもディートリヒシュタインが、彼なりの祝辞を述べた。
2年前、15歳での昇進に、
……あと2年。将校に昇進するのは、せめてあと2年は、待つべきです。
自分の言葉に、彼は誠実だった。
今年に入って、皇帝から教え子の昇進を打診された時、
「ありがとうございます、先生……」
皮肉屋の先生の、本心はよくわかっている。
「いや、遅すぎたくらいだ。軍曹などという、誰にでもなれる位は、君という人に、全く、ふさわしくなかった」
ぼそぼそと、口の中で、ディートリヒシュタインはつぶやいた。
「フランツ、」
女官から何かを受け取り、母が言った。
「これを、あなたに」
持ちにくそうに母が差し出すそれを見て、フランツは、驚いた。
トルコ風に、刃の大きく反り返った剣……、
「あなたのお父様が、エジプトでお使いになった剣よ」
震える手で、フランツはそれを受け取った。
初めて手にする、父の形見だった。
それは、確かに父がそこにいたという証のように、フランツには思えた。
「お母様。なんてお礼を申し上げていいか……」
「おめでとう、フランツ」
ひどくこそばゆそうな顔で、母は、息子を見上げた。
*
夏の休暇に同行する家庭教師は、常にディートリヒシュタインで、フォレスチは、大抵、ホーフブルクに留守番だった。
だが、フランツに、最初に、軍事教育を施したのは、他ならぬフォレスチ先生だった。
ワグラムなど、戦略上重用な土地の地図を作成したのも、フォレスチと一緒だった。この地図は、祖父の皇帝に進呈して、よくできていると、褒められたものだ。
その晩、フランツは、フォレスチに手紙を書いた。
「
同志、フォレスチ先生
私達は、どんな些細なことでも、軍務に関することならば、厳粛に取り組まなければなりません。でも、僕には、何も、難しいことなんて、ないんだ! 自分を、今宵、授けられた栄誉にふさわしい人間に見せたいという熱意と願望は、私を、作り変えるでしょう。私はもう、子どもっぽいことには興味がなく、この言葉通りの、立派な人になります。それは、私の、強い意思なのです。……。
」
※
ハプスブルク家では、直系の大公は、17歳で成人とみなされます。傍系の大公は、20歳です。独立すれば、扶持が与えられます。
ライヒシュタット公は、大公ではありませんが、皇女の息子です。「公爵(Herzog)」という彼の身分は特殊ですが、傍系の大公と同じ扱いをされたようです。
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