ナポレオンの軍馬


 冬(1827―1828にかけての冬)。

 昨年の冬に引き続き、フランソワの体調は、芳しくなかった。喉の不快感と、寒気が、ずっと続いている。また、彼は、幼い頃から歯に問題を抱えていて、体の不調と交互に、苦痛が表れた。


 シュタウデンハイム医師は、舞踏会への参加を禁じた。また、狩猟も制限した。

 再び、フランソワは、引きこもって暮らした。







 アシュラが部屋を訪れると、フランソワは、紙片を前に、何か、考え込んでいた。

「殿下」

声を掛けると、はっとしたように、顔を上げた。


 白いシャツの上にこれも白のベストを重ね、茶色の、落ち着いた色合いのガウンを羽織っている。首筋には、相変わらず、固いカラーが巻き付けられていた。ただし、髪は、整えられていなかった。短く切られた金髪は、強く癖が出て、好き勝手な方向に、飛び跳ねている。


 顔色は良かった。肌には艶もある。病状は、それほど悪くはないらしい。


 大丈夫だ、大事をとって引きこもっているだけなんだと、アシュラは、思った。体中の力が抜けそうになるくらい、ほっとした。



 「なんだ、お前か」

 つまらなそうに、フランソワが、うそぶく。

 悪態をつく元気があることにも、アシュラは、安堵した。


「悪うございましたね、私で。でも、いいんですか? そんな事、言って」

「いいんだよ。お前が来ると、ろくなことがない」

「じゃ、帰ろうかな」

「帰れ帰れ」


 アシュラは、これ見よがしに、手に持っていた品物を振り回してみせた。

 ステッキだった。

 紫檀したん製で、美しい艶がある。握りの部分は銀でできており、虎の形をしていた。


「ほら、これ。モーリツ・エステルハージから預かりました。元気になったら、これを携えて、また、遊びに行きましょうって」

「わあ……」

フランソワの顔に、喜びの色が湧き上がった。

「モーリツには、話したかな? 僕、ステッキを集めてるんだ」


「ステッキ?」

アシュラは眉をしかめた。

「また、随分、爺臭い趣味をお持ちですね……」


「お前は、ステッキの素晴らしさを知らないんだな」

気を悪くする風もなく、フランソワは答えた。

「現代の紳士にとって、ステッキは、剣の代わりなんだ。剣と違って、細身のステッキなら、軽快に、颯爽と歩ける。路上で、流血沙汰を起こすこともない。ステッキは、平和の証なんだぞ」

「はあ」

「僕の蒐集を、見せてやろうか?」


 フランソワはそう言って、続きの間の扉を開いた。

 そこには、壁一面に、ステッキが飾られていた。


「ほら。これは、かしでできている。丈夫だぞ。こっちはかえでで、これは、藤製だ……」

 籐製といわれたそれは、節くれだっていて、華奢だった。


「握りの部分を見てご覧。ほら。美しくカーブしてるだろう?」

「まるで、蛇のようですね」

アシュラはちょっと身を引いた。


 くすりと、フランソワは笑った。

「こっちは、曲がり具合を利用して、鷹の頭を、かたどっている」

「あ、本当だ。蛇のと比べても、柔らか味がありますね」

「うん。この握りは、象牙でできているからな」

「象牙? 高価なものをステッキなんぞに……」

「ステッキだから、象牙も生きる」


 朗らかに言って、フランソワは、別のステッキを手にとった。


「ご覧。握りのところに、穴があいてるだろ? ここに香りを仕込むんだ」

「素晴らしい! いい匂いをさせて、ご婦人方をたらしこもうという計略ですね!」

「また、お前はそれを言う」

じろりとアシュラを睨んだ。

「匂いの強いところへ行った時の、エチケットだよ! 衛生対策だ!」

「はあ……」


「僕は今、折り畳みのできるステッキを探してるんだ。どこかでそういうのを、見かけた人がいる……」

「へえ」

「なんだ、その、やる気のない態度は」

むっとしたように、フランソワは言った。

「いい。そんなやつに、これ以上、大事なコレクションを見せてやるもんか」

「だって……」


 アシュラの中で、ステッキのイメージは、女性用のそれだった。

 当世、女性は、かかとの高い靴を履いている。彼女らは、歩く時に、よろめいて転ばないように、ステッキを用いた。女性用のステッキは、実用品なのだ。



 「以前、一際ヒールの高い靴を履いた女性に、声をかけたことがありましてね……」


 魅力のある女だった。貴族ではないようだが、レースや繻子で、めいっぱい、飾り立てたドレスを着てた。強い香水の匂いを振りまいている。

 アシュラの好みではなかった。それでも、声をかけるのが、男として一応の礼儀だと、彼は理解した。


 「そしたら彼女、いきなり、ステッキを逆さまにして、握りの方を突き出してきたんです」


 握りは、イヌの顔の形をしていた。呆気にとられているアシュラに向かって、イヌは、ぺろっと、舌を出した……。



 「それはお前、フられたんだよ!」

 フランソワが爆笑した。

「お前はいやだ、って、彼女は、言ったんだ! 仕掛け物だな。素晴らしい。ああ、そのステッキ、僕も見てみたかったな……」


「ステッキですか?」

「ステッキだよ、もちろん」

即座にフランソワは答えた。


 アシュラも負けずに、補足する。

「なかなかイカした女性でしたよ? 腰のあたりがきゅっとしまってて、そのくせ、ヒップがこう、ばーんと張っていて」

両手を広げて、形作ってみせた。


「それは、コルセットだ。お前が惹かれたのは、クジラの骨なんだ」

呆れたように、フランソワが言った。

「へえ。殿下は、女性の、体型補正肌着の知識が、豊富なんですね……」

「いや、これは、モーリツが」


 フランソワは、焦っているようだ。

 そんなことだろうと、アシュラは思った。やはりあいつモーリツは、有害だ。


 女性の話をしても、今回は、フランソワは、純潔がどうのと、怒り出すことはなかった。





 「ところで殿下。さっきは何を、読んでらしたんです?」

 居間に戻って、アシュラは尋ねた。

「手紙だよ」

「手紙!」

思わずアシュラは叫んだ。

「あんなに熱心に!?」


「言っておくけど、女性からじゃないからな。ナイペルク将軍からだ。アルフレッドが今朝、届けてくれたんだ……」



 ナイペルク将軍は今も、フランソワの母、マリー・ルイーゼと共に、パルマにいる。アルフレットは、彼の長男だ。女優たちに囲まれてやに下がっていたグスタフの、上の兄だ。



「僕は、ナイペルク将軍が大好きだ。ちょっと前の話だけど、彼は僕に、素晴らしい知恵を授けてくれた。僕がフランス語の学習に苦労していると言ったらね……」


 ……では、あなたのお父様は、何語を使っていらしたのでしょう?


「考えてもご覧よ。フランス軍を、数々の勝利を導いた司令を、父は、フランス語で出したんだ。また、戦術における、類まれな経験から生み出した、教訓的な教えも、フランス語で語られ、後世に伝えられた。そして、僕が生まれた国について、決して無知であってはいけないという、父の最後の言葉も、フランス語だったんだ……」


 フランソワは口を噤んだ。夢見るような瞳に、憧れの色が浮かんでいる。

「だから僕には、フランス語を学ぶ、おおいなる理由があるんだ」


アシュラは感心した。

「貴方が、フランス語学習に意欲を燃やされるとは! ……ディートリヒシュタイン先生が、どんなに怒っても、小言を言っても、決して成し遂げられなかった偉業を、ナイペルク将軍は、やってのけたわけですね」

「お前は、大袈裟だなあ。でも、まあ、そういうことだ」

照れくさそうに、フランソワは笑った。


「僕は、ナイペルク将軍が大好きなんだよ。今回の手紙でも、軍務での、実際的な注意点を、いろいろ、教えてきてくれた。だから、すぐにでも返事を書かなくちゃ。ナイペルク将軍と、それからもちろん、お母様にも……、あ、そうだ!」


不意に、フランソワは飛び上がった。

「ちょっと、この絵を、見てくれないか!」



 部屋の隅に立てかけられたイーゼルは、さっきから、アシュラの気を引いていた。

 部屋に、ほんの少し残るテレピン油の匂いから、絵が、この部屋で描かれたことは、明らかだった。


 プリンスが、描いた絵だ。


 無造作に、彼は、キャンパスを覆っていた布を取り除いた。

 たくましい馬の絵が現れた。

「軍馬だよ。父の馬だ」

誇らし気に、彼は言った。


 父、ナポレオンの、軍馬の絵だった。

「記憶を頼りに描いたんだ。本当は、馬に乗った父上自身の似姿を描きたかったんだけど……」

言いかけた続きを、アシュラが引き取った。

「いろいろ、問題があるでしょうからね。家庭教師たちが見たら、大騒ぎになる」

「いや、そうじゃなくて。記憶が……、記憶の中の父の姿が、あまりに、曖昧で……」

しょんぼりと、フランソワは俯いた。


 そんな彼が、アシュラは、気の毒になった。

「殿下も、ナポレオンの肖像画くらい、ご覧になったことがあるでしょう? それを参考に描けばいいのに」

「あるよ。本に載ってた。でも、それは、どうしても、記憶の中の父の姿とは、違うんだ」



 ナポレオンの描かせた肖像画は、3人の絵師の手によるものだという。自分のイメージを固定させる戦略の為、ナポレオンは、敢えて、他の絵師を起用しなかった。



「本で見た父の似姿は、僕の記憶のそれと、あまりにかけ離れていた。でも、その記憶自体、あいまいなんだ。紙の上に起こそうとしても、うまく出てこない。そうしているうちに、記憶にある父の姿そのものが薄れてしまいそうで、……怖かった」

「だから、馬の絵を?」

アシュラが問うと、フランソワは黙って頷いた。


 なんとか、力づけたいと、アシュラは思った。

「あ……、えと……。でも、ほら、この鞍なんか、すごく、写実的に描けているじゃないですか。手にとって、触れそうなくらいだ」

 褒めると、途端に、フランソワは嬉しそうな顔になった。

「馬具は、自分のを参考に、細かく描き込んだんだ!」

「うまく描けてます」

真顔で、アシュラは請け合った。


「そう? ……でも。……お前、この背景を、どう思う?」

馬の背後に描かれた、もくもくとした雲を、フランソワは指さした。その雲は、暗い色合いで、塗りこめられていた。


「いいんじゃないですか? 最近の流行りでしょ? 戸外を描いた絵は、みんなこんな感じだ」

アシュラが意見を述べると、フランソワは、不満そうに唇を歪めた。

「背景は、絵の先生に頼んだ。僕には、うまく描ける自信がなかったからね。でも、ちょっと、残念なんだよなあ。僕は、父の馬には、明るい青空の下にいてほしかったのに」

「……」


アシュラは言葉に詰まった。ナポレオンの辿った運命を考えると、背景の黒雲は、いかにも暗示的だった。だが、ただでさえ、ナポレオンの話は、宮廷では憚られる。つい最近までは、フランソワの前で、父親の話をすることは、禁じられていたくらいだ。


 フランソワは、じっと、絵の中の軍馬を見つめている。

「僕は、この絵を、パルマに送るつもりだ」

「パルマに?」

「うん。お母様のところへ」

「マザコンですか」

心の裡でつぶやき、アシュラは、続きを声に出した。

「お母さんじゃなくて、好きな女に贈ったらいい。喜ばれますよ? 簡単に落とせます」

「……」


じろりと、フランソワは、アシュラを睨んだ。

「僕は、お母様に、贈るんだ!」


「なぜ?」

「だって、この絵を見れば、お母様はきっと、父のことを思い出すだろ? 父と過ごした、幸せな日々のことを。そしたら彼女は、今年こそ、きっと、僕のところに帰ってきてくれる筈だ!」

「殿下……」


 アシュラはフランソワに向き直った。背伸びをして、いきなり、その額に手を当てる。


「なにをする! 僕に触るなと言ったろ!」

赤い顔で、フランソワが喚き立てる。

「やっぱりだ。殿下、お熱が出てきたようです」

「熱? そんなものは、出てな、」

「いいから、お休みなさい。シュタウデンハイム医師をお呼びしましょうか?」

「いらない」


 それでも、アシュラの手を借り、フランソワは横になった。ベッドではなく寝椅子を選んだのは、彼なりの、せめてもの抵抗だったのだろう。


 「夕方になると、いつもこうなるんだ。大丈夫。明日になれば、治ってる」

諦めたような口調で、彼は言った。アシュラは毛皮を持ってきた。

「冷たいお水をお持ちしましょう」

「それもいい。少し眠る」

毛皮を押しやり、フランソワは、頭からコートを引き被った。

 毛皮は、咳が出るのだ。





 ……だいぶ回復されてはきたが……殿下はまだ、お体が弱っていらっしゃるんだ。

 アシュラは心配だった。

 ……さもなければ、母親のことなんか、考えるものか。


 フランソワは、母親に会いたいのだ。だが、自分から訪ねていくことは許されない。そしてなぜか、母親は、なかなか、ウィーンの息子の元を訪れない。病気くらいでは、まず、重い腰を上げようとしない。


 フランソワはもう、ダダをこねることのできる子どもではなかった。パルマ治世という、母親の仕事についても、理解がある。


 それで、ひたすら、父の軍馬の絵を描くことに、この冬を費やしたのだろう。

 病の為、引き篭もって暮らさざるえなかった、この冬を。


 ……母親なんて、ちっともいいものじゃないのにな。

 自身の母親に思いを致し、アシュラは心の中で毒づいた。

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