プリンスと女優たち
「あっ! あんた!」
劇場で、優雅に珈琲を啜っている男を見て、思わずアシュラは、声を上げた。
モーリツ・エステルハージだった。
「ということは、あんたが、プリンスを、悪の道に……」
家庭教師が心配しすぎだと思ったことは、アシュラの頭から吹っ飛んでいた。
こいつが一緒なら、心配しすぎるということはない。
「プリンスはどこだ?」
肩を怒らせ、質した。
へらり、と、モーリツが笑みを浮かべた。
「久しぶりだね、アシュラ。相変わらず、機嫌が悪いなあ。彼なら、心配いらないよ。楽屋で、女優の一団に囲まれている」
「女優?」
「今をときめく、若い、美人たちだよ」
「げ」
「おいおい、邪魔しようなんて、不埒なことは、考えるなよ」
「だって……」
「心配か?」
モーリツは、にやりと笑った。
「こっちへ来るがいい」
アシュラの腕を引っ張った。
モーリツはアシュラを、舞台の上の小部屋へ引っ張り込んだ。
「ここに目を当ててご覧」
壁に穿たれた、小さな2つの穴を、彼は指さした。
言われるとおり、アシュラは、覗いてみた。
隣の部屋が見えた。
そこには、プリンスと、もう一人、貴公子がいた。二人の周りを、きれいな衣装の、若い娘たちが取り囲んでいる。
「あの男は、信頼できる。グスタフ・ナイペルクだ」
「ナイペルク?」
「ああ。パルマへ行かれた
ナイペルク将軍は、今でも、マリー・ルイーゼ、パルマ女公の右腕として、
父のナイペルク将軍は、ネーデルランド革命軍との戦いで片目を失った勇者だった。体には、これも戦場で得た、多くの傷を持つという。
だが、息子のグスタフは、なんだか、ひどくちゃらけた男に、アシュラの目には映った。女優たちに囲まれて、へらへら笑っている。
フランソワと同じ年だというが、はるかに、老けて見えた。乱れた生活のせいで、純真さが消え失せてしまったせいだろう。
「僕がいると、彼女らは、僕に群がっちゃうからね。その点、グスタフなら、安心だ。あのナイペルク将軍の息子とは思えない、田舎臭さだ」
「……」
女優たちの輪の中で、フランソワは、硬直していた。というか、つんとして見えた。
声は聞こえないのだが、美しい娘たちが、ひっきりなしに、彼に話しかけているのが見える。それに対して、ろくに返事もしていない。
既視感のある光景だった。
以前、シューベルティアーデの集まりに連れて行った時と、同じだ。
今回は、女性たちのグレードは、ぐっとアップしている。なにしろ、女優である。中には、アシュラも顔を知っている、有名女優もいた。
それに今回は、如才なく場を取り持つ、グスタフもいる。
会話は、なんとか、流れているようだった。
少し遅れて、繻子の薄物をまとった娘が、部屋に入ってきた。彼女は無言で、フランソワの隣の、厚化粧の娘を押しのけた。不満そうな厚化粧をものともせず、彼の隣に陣取った。
相変わらずフランソワは、我関せずの知らん顔だ。
薄物を羽織った女優が、不意に、笑いだした。笑いながら、彼女は、大袈裟に、のけぞってみせた。その拍子に、フランソワの腕を、とん、と叩いた。
フランソワは、びくっと震えた。そのまま、じりじりと後退っていく。
「あれまあ。ここの女優陣もダメか」
アシュラの横で、別ののぞき穴を覗いていたモーリツが、ため息をついた。アシュラが聞き咎める。
「ここの女優陣も、って、他でもこんなことをやっているのか?」
「うーん、旗色は悪いねえ」
「そうだろうよ」
思わずアシュラはつぶやいた。
「へえ、お前、何か心当たりでも?」
熱心に隣の部屋を覗きながら、モーリツが尋ねる。
「前に、試したことがあるんだ。もっとずっと純真な女の子たちでね! だが、プリンスは、見向きもしなかった」
「根本的に、対策を考える必要があるな」
モーリツが、のぞき穴から、目を離した。
「仕方ない。撤収だ」
開いたドアの向こうにモーリツの姿を見つけ、フランソワは、明らかにほっとしたようだった。こわばっていた顔が緩み、頬に赤みが差していく。
「お時間ですよ。迎えに上がりました、プリンス」
「うん」
続いて、モーリツの背後に現れたアシュラに気づき、フランソワの顔が引き攣れた。
「お前……、何しに」
「ディートリヒシュタイン先生からの、ことづけものを届けに着ました」
「僕の妻からの?」
「僕の妻」というのは、ゾフィー大公妃とフランソワの間での、ディートリヒシュタインの呼び名である。それが、うっかり出てしまったようだ。
小さな声だった。だが、効果は、激烈だった。
「まあ! 殿下の奥様ですって!?」
「いいえ! ライヒシュタット公は、独身のはずよ?」
「きっと、想い人がいらっしゃるのね。だから、私につれないんだわ!」
自信を持って言い切ったのは、プリンスの隣に割り込んだ、繻子を羽織った娘だった。
かなりの年増だと、アシュラは踏んだ。
「ねえ! 貴方、ご存知なんでしょ? 殿下の想い人、教えて下さいな」
「いや、僕は……」
責め立てられ、もぞもぞとグスタフが、足を組み替えた。
「どなたなの、その幸運な女性は!」
「さぞや、お美しい方なんでしょうね」
「教養もおありなんでしょう? さもなければ、許さないわ!」
「でもきっと、私の方が、若くてきれい……」
その場にいた全員が、一斉に騒ぎ始めた。
「……」
騒ぎ立てられ、狼狽したのだろうか。肝心のフランソワは、再び固くなり、黙り込んでしまっている。
「ああ、あの方ね」
助け舟を出したのは、モーリツだった。軽い調子で、言ってのけた。
「お美しい、皆さん。気にすることはありませんよ。D嬢は、ヨボヨボしわしわの、婆さんですから」
シャツを着替えさせるため、なんとか別室にフランソワを連れ込んだ。モーリツとグスタフは、まだ、女優たちと一緒だ。
「余計なことを……」
フランソワはぼやいた。
「おかげで、可愛い女の子と、知り合いになれなかったじゃないか」
「私のお見受けしたところ、」
脱いだ上着を受け取り、遠慮なくアシュラは申し述べた。
「殿下は既に、手ひどい敗北を喫していらっしゃったようですが」
「うん。女性はみんな、グスタフの方がいいんだ。彼にばかり、話しかける。さすが、ナイペルク将軍の息子だな!」
「それは……」
……あなたがつんつんしているからでしょう。
言いかけた言葉を飲み込んだ。
「ほら、カラーを外して」
「!」
ボタンにかけたアシュラの手が振り払われた。
「お前、向こうを向いてろ」
怒ったように、フランソワが言った。
「は?」
「一人でできる。こっちを見るな」
「またそう言って、濡れたままの下着でいるつもりでしょ? ダメですよ。本当に風邪を引きます」
「だから、一人でできると言っている!」
争う二人の間に、黒いカラーが、外れて落ちた。
「あ……」
フランソワが、手で、首筋を隠した。
赤い、痣に似たものが、ちらりと、アシュラの目に映った。
思わず、はっと息を呑む。
「
フランソワは、アシュラの様子を見ていた。諦めたように、首にかけた手を外す。
痛ましい、赤い腫れ物が現れた。
「シュタウデンハイム医師は、そう言った」
瘰癧。
頸部に表れる、結核性の腫れ物のことだ。
……結核。
一度発病すると、未だ治療法のないその病は、「白いペスト」と呼ばれ、恐れられていた。
何と言っていいのか、わからなかった。
アシュラは無言で、ディートリヒシュタインが託したシャツを手渡した。
「殿下。お体を大切になさいませ」
体を屈め、シャツの皺を伸ばしてやりながら、やっとのことで、言った。
声が震えた。フランソワの顔が見れない。
跪いて、その両手を握った。
「お願いですから……」
「大丈夫だ」
にっこり笑って、彼は受け合った。
「僕なら、大丈夫だよ。だって、僕はまだ、何も、していない……その機会さえ、与えられていない」
辛そうに目を伏せた。
*
この年(1827年)11月。
2年前に妻、エレオノーレに先立たれた宰相、メッテルニヒは、再婚した。
相手は、貧乏な貴族の娘だった。21歳の新婦に対して、新郎は、54歳だった。
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