白いリネンのシャツ
この夏以降、ライヒシュタット公は、しきりと、空咳ばかりしていた。
新しく主治医になったシュタウデンハイム医師が下した結論は、「気管に結核の傾向がある」というものだった。
昨冬も、彼は、体調を崩した。カーニバルのシーズンは、引きこもって暮らした。前任者の、故ゴリス医師は、気管支炎と診断している。
それだけではない、と、シュタウデンハイムは思った。
昨冬から続くこの咳は、もっとずっと、重い病の兆候だ。
彼の体には、結核が潜伏している……?
結核だとしたら、罹患は、随分前のことだったのだろう。恐らくは、幼い子どもだった頃と、推測される。ここ数年、プリンスは、健康だったのだから。
結核という病は、侵されたからといって、すぐに発病するわけではない。罹患から長い間、プリンスはそれを、体の奥に封じ込めてきたのだ。
昨冬の発病は、体内に潜んでいた病が、何らかのきっかけで、発病したと考えられる。
何が悪く作用したのかは、わからない。
だが、プリンスはそれを、軍務訓練で鍛えた体で、撃退した。
この夏の、グラーツ城での不調。
それも、結核のせいに違いないと、医師は踏んだ。あるいは、何らかの不調のせいで、昨冬発病後、再び肺の奥底に封じ込められた結核が、また、勢力を盛り返したのだ。
その咳が、ずっと続いている。
気になった。
だが、シュタウデンハイム医師は、結核だと、断言はしなかった。彼は、慎重な医師だった。
それに、プリンスの病は、まだ、そこまで悪くなってはいない。
とにかく、体に無理な負担をかけてはいけない。用心深く慎重に行動することを、医師は、奨励した。
シュタウデンハイム医師は、水浴療法を推奨した。夏から秋にかけて、これは、効果を上げた。プリンスの容態は、目に見えて、良くなっていくように見えた。
体を作る意味で、水泳や乗馬は許したが、激しい動きを伴うダンスや、フェンシングは禁じた。
特に、ワルツはいけない。
もともと庶民のダンスだったワルツは、激しい動きを伴う。パートナーを回転させ、自分も回転しながら、広いホールを端から端まで踊りながら移動する。健康な人でも、踊り終わると、息を切らしていた。ダンスホールでは、卒倒する人さえいる。
結核患者には、とんでもないことだった。その、候補者にも、もちろん。
医師は、さらに、成長し切るまで、有害な食品……酒や煙草など……を避けるよう、強く勧告した。
シュタウデンハイム医師のこの処方は、一定の効果を上げたように見えた。
*
シェーンブルク宮殿の美しい庭を、馬が、勢いよく走ってくる。
白く輝くような馬に乗っているのは、金色の髪をなびかせた、フランソワだった。
馬もまた、嬉しそうだった。弾むように軽快に走ってくる。
緑の芝の上を走る馬と主人は、一幅の絵のように美しかった。
……いや。
「どこへ行くんです、殿下!」
門から入ってきたアシュラは叫んだ。
今日、外出の予定があったとは聞いていない。第一、付き添いが誰もついていないではないか。
フランソワは答えなかった。
端正なその顔が、いたずらっ子のように
馬上の人は、馬の腹を両脚でぎゅっと締めあげた。馬は、喜びに満ち溢れ、なおもスピードを上げる。
あっけに取られて立ちすくむアシュラの横を、馬と王子は、馨しい風のように、駆け抜けていく。
「プリンス!」
建物から、人影が現れた。よたよたと走ってくる。
「お待ちなさい! プリンス!」
家庭教師のディートリヒシュタイン伯爵だった。手に、布のようなものを握りしめている。
もちろん、全速力で走る馬が、待つわけがない。すでに、馬に乗ったフランソワの姿は、城門の外へ消えていた。
「ああ……」
アシュラの元までたどり着き、ディートリヒシュタインはへたりこんだ。
ぜいぜいと、肩で息をしている。
「ダメじゃないですか、先生。プリンスが、一人で、城の外へ、出て行っちゃったじゃないですか!」
情け容赦なく、つけつけと、アシュラは、責め立てた。
「また逃すなんて……」
「シャツ……」
やっとのことで、ディートリヒシュタインは喘ぐような声を出した。
「シャツ?」
「プリンスの、シャツ」
彼は、白いリネンを握りしめていた。
よくよく見ると、たしかにそれは、紳士物の
「わっ、先生、なんてものを持ち歩いてるんです! まずいですよ。女官が来ます」
思わずアシュラは、それをひったくった。衝動的に自分の服の下に押し込み、隠そうとする。
「君、それを、プリンスのところに持っていってくれ」
なおも肩で息をしつつ、ディートリヒシュタインは言った。
「乗馬をして、汗をかいたのに、着替えもせずに、劇場へ出かけてしまって……。汗が冷えて、体に悪い影響を与える」
「……はあ」
「急激な温度の変化は、体によくないと、シュタウデンハイム
苦しい息の下、なおもぶつぶつと、ディートリヒシュタインは文句を述べ立てていた。
「F・カール大公と遠乗りをしたり、夜遅くまで、どこかで遊んでいたり。殿下はちっとも、医師のいうことを聞かない! 私の言うことも、だ!」
この年齢の男子にはよくあることだと、アシュラは思った。自分も、羽目を外して遊び歩くことがある。
プリンスだって、そうそう、監督官の言うことを聞いてはいられないだろう。ディートリヒシュタインのように口うるさいお目付け役なら、なおさらだ。
……シュタウデンハイム医師が、プリンスには「結核の傾向」があると指摘したことは、アシュラはまだ、知らなかった。
ライヒシュタット公の症状は、政府からの指示で、内密にされていた。
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