誰にも渡したくない

 アシュラはモーリツ・エステルハージと共に、宮廷の厨房の調査に着手した。

 だが、調べれば調べるほど、毒物を混入する隙はないように思われた。


 厨房では、宮廷料理長官の下、幾重ものチェック体制が敷かれている。宮廷料理長官は、高位の貴族が務める。長官の下には、専属料理長がいて、毒味はもちろん、微細な味のチェックまで、厳しい管理下におかれていた。


 調理スタッフが少しでも怪しい行動をすれば、絶対に、監視役の目に止まる。

 料理運搬人もまた、常にチームを組んで行動していた。彼らは、相互に監視し合っている。

 料理に毒を盛るのは、不可能なように思われた。


 ならばどうやって?


 けれどもアシュラとモーリツは諦めなかった。

 とりあえずは、皇帝が病を得た晩と、ライヒシュタット公が急な不快を覚えた日、それぞれホーフブルク宮殿とグラーツ城で職務についていた者たちの洗い出しから始めた。両者に共通している者が、当座の容疑者だ。







 「アシュラ」

秘密警察の事務所へ報告へ赴いた帰り。建物を出てすぐ、声をかけられた。

 振り返って、驚いた。

「マイヤーホーファーさん!」

 シューベルトの年長の友人、マイヤーホーファーが歩いてきた。


「どうしてここへ?」

「君と同じだ。職務だよ」

「職務……」


マイヤーホーファーが官僚だったことを、アシュラは思い出した。

「あなたの仕事って……」

悲しそうに、マイヤーホーファーは頷いた。

「秘密警察官だ。お前の、先輩だよ」

「そうだったんですか!」

 初耳だった。


 マイヤーホーファーは、居心地が悪そうだった。

「そういうわけで、君が同類だってことはすぐにわかったんだ。それをシューベルトに伝えたのは……」

「わかってます。僕は、彼のことを探っていた。注意を促すのは、友人として、当然のことだ」

「お前は、本当に、お人好しだな」

マイヤーホーファーは、苦笑した。


 先日、政府に対して、反抗的な脚本家ナンデンカンデンの後をつけていて、アシュラを見かけたのだと、マイヤーホーファーは言った。


「その時は、声をかけられなかった。ナンデンカンデンは衛兵と追っかけっこを始めるし、お前は、後ろで、凄まじい悪態をついてるし……」


「あはは」

乾いた笑いを、アシュラはあげた。

「でも、いいんですか? あいつのこと、ほっておいて?」


 ナンデンカンデンは、プリンスをネタに芝居を書いて、当たりを取ろうと狙っている。しかも、あることないこと、でっちあげて。

 とんでもないペテン師だ。

 そういうことなら、マイヤーホーファーには、真剣に働いて欲しい。アシュラは切に願った。


 だが、マイヤーホーファーは、泰然としていた。

「大丈夫だ。奴はまた、檻の向こうへ戻ったから」

アシュラを見た。

「久しぶりだな。どうだ? 少し、つきあわないか?」

「いいですね」

アシュラは応じた。


 相変わらず、ノエは、ウィーンを留守にしている。

 秘密警察の先輩なら……、

 アシュラの方でも、マイヤーホーファーに相談したいことがあった。






 「毒! ライヒシュタット公の料理に、毒だって?」

 「鵞鳥に説教する狼亭」は、混み合っていた。ほぼ全員が酔っ払っていてマイヤーホーファーの素っ頓狂な声に、耳を傾ける者もいない。


「プリンスだけじゃないんです。去年の、皇帝のご病気も、恐らく……」

「ライヒシュタット公を狙った毒を、うっかり皇帝が摂取してしまった、と?」


 無言で、アシュラは頷いた。


「しかし……どうやって、そのコックは、料理に毒を盛ったんだ?」

「そこが、どうしても、わからないんです。でも、健康そのものだったプリンスが、あんな恐ろしい発作を起こされて……皇帝もそうです。皇帝のご病気も、全くの突然でした。しかも皇帝は、プリンスが手付かずで残した、料理を食べて、そうなった」


「毒を疑ってるのは、君だけだろ? 宮廷でも官庁でも、誰も、そんなことは言っていない」

「そうですけど……」

アシュラは言い澱んだ。


 だって、ナポレオンの解毒剤が、激烈な効果を齎した……。


「なんだ? 何か、根拠でもあるのか? だとしたら、一大事だぞ」

マイヤーホーファーが言った。

「いえ……」


 アシュラは口をつぐんだ。密偵をクビになるようなことをするなと、フランソワが言っていたからだ。



 周囲は、相変わらず、自分のことだけを大声で語り続ける(そして人の話は、一切、聞こうとしない)、酔っぱらい達の喧騒で満ち満ちている。


「もうひとつ、おかしなことが、あるんです。資材横流しの捜査が、強制終了させられたんです。しかも、宰相じきじきの命令で」


 アシュラは、ライヒシュタット家の薪が、粗悪品にすりかえられたこと、それが、どうやら、中央官庁からの差し金らしいこと、そして、その捜査が回り回って、自分のところまで辿り着いたことを話した。


「それが、急に、もう、捜査するなって。しかも、宰相自ら」



 実は、宰相命令を無視して、こっそり、調べてみた。

 だが、この業者がどこなのか、どうしてもわからなかった。薪そのものは、使用人の手で、すでに処分されていた。


 政府の注文書の写しが添付されていたことは間違いないと、ライヒシュタット家の下働きの男は主張していた。

 だったら、発行元の部署くらい、わかりそうなものだと、アシュラは思った。


 だが、捜査は、宮内庁長官から秘密警察まで、さんざんたらい回しになっていた。つまり、どこの部署でも、わからなかったのだ。



 マイヤーホーファーは肩を竦めた。

「そもそも、押し付けられた仕事だろ? 捜査打ち切りになって、良かったじゃないか」

「でも……」

「かりにも、政府宰相じきじきの命令だ。余計なことをするんじゃないぞ」

「……」


 マイヤーホーファーは、空になっていたアシュラのグラスに、安ワインを注いだ。

「どうだ、この店」


 言われてアシュラは、店内を見回した。

 コートマルクト(王宮近く、王室御用達の店が並ぶ界隈)近くにある「鵞鳥に説教する狼亭」は、しかし、庶民的な店だった。価格も良心的で、腹いっぱい、飲食ができる。


「……いい店ですね」

「だろう?」

マイヤーホーファーは嬉しそうだった。

「最近シューベルトは、この店に河岸を変えたんだ」

「ああ、僕、この頃、彼に、会ってない。シューベルトは、元気ですか?」


 一気に懐かしさがこみ上げてきた。

 マイヤーホーファーは、肩をすくめた。


「相変わらずさ。歌を歌って、ワルツを弾く。踊って、作曲する。そうそう、今、彼は、ウィーンにいないよ。グラーツへ出かけたんだ」

「へえ……。もしかして、また、音楽の先生をしに?」



 シューベルトが、エステルハージ家の令嬢の、音楽教師を務めていたことは、アシュラも知っていた。モーリツと同じ一族だが、両家とも、この大貴族の支流にあたる。

 シューベルトは、一家について、避暑に出かけたこともあった。



「そういえば、どうなったのかな? 令嬢との恋は」

「恋だって!」

マイヤーホーファーの顔色が変わった。

「ええ、13歳だったがりがりの女の子が、6年経って再会したら、とってもきれいになっていたって、感激していましたよ」

「馬鹿な……あのシューベルトが、女になんか、うつつをぬかすものか!」


「高嶺の花ですね、あれは」

アシュラは断言した。

「令嬢の方は、気遣いのできる優しい方のようですけど、父親がね……。むりむりむり、って感じです……」


「そうだろうよ」

なぜかほっとしたように、マイヤーホーファーが言った。

「しかし、今度は女だって……? 俺は、シュヴィントだけで、手一杯だというのに……」

「シュヴィント! 彼、どうしてます?」



 シュヴィントは、シューベルトお気に入りの、美青年だ。マイヤーホーファーより遥かに年下で、シューベルトよりも7つも若い。



「相変わらずだよ。おとぎ話の騎士や、王女の物語に夢中だ」

「……彼らしい」



 画家であるシュヴィントは、ウィーンに惚れ込んでいた。彼は好んで、夢と想像の世界を、描いていた。



「何が! 子どもっぽい、絵空事じゃないか。時代の要請に、ちっとも沿っていない。馬鹿げた逃避に過ぎない」

 いらいらと、マイヤーホーファーは、座卓を指で叩いた。

「でも、問題は、シューベルトは、そんなシュヴィントに夢中なんだ。現に今、作曲している曲も、楽譜の挿絵には、あいつの絵を使うようなことを言っている」

「へえ。凄いな」


「お前は、どっちの味方だ! 今度のは、大作なんだぞ! ベートーヴェンの死から、彼はずっと、その曲に掛かりきりになっている」

「ぜひ、聞いてみたいです。まだ、作曲中なんですね? ああ、待ち遠しいな」


「お前には、物事の本質が、ちっとも見えてない!」

 マイヤーホーファーはテーブルを叩いた。グラスを鷲掴みにして、一息に飲み下す。



 いつかの苦い思い出が、アシュラの胸に甦った。

 女の子と楽しく踊っていたアシュラは、マイヤーホーファーに拉致されて飲み屋に連れ込まれたあげく、酔っ払った彼から、シュヴィントに似ているとののしられ……。


 とにかく、マイヤーホーファーは、酒癖が悪いのだ。



「もうそのくらいにしておきましょうね、マイヤーホーファーさん」

アシュラは腕を伸ばした。


 一瞬遅く、マイヤーホーファーは、ワインのボトルを抱え込んだ。


あの人シューベルトを渡したくない……」

酒瓶を抱え込んだまま、涙ぐんでいる。

「女にも、……シュヴィントにも」


「はいはい」

再び酒瓶を取り上げようとして、アシュラは、失敗した。


「それなのに俺は、こんなところで、お前を相手に飲んでいる」

「あなたが、誘ったんじゃないですか!」

さすがにアシュラは、むっとした。


 マイヤーホーファーは、一向に、頓着しない。

「俺には、決定的に、時間が足りないんだ。詩作をする前に、働かなくちゃならない。仕事から帰ってくると、もう、くたくただ。目はかすみ、体の節々が痛む。足はじんじんと腫れ、頭はぼうっとして、まるで蜘蛛が巣を張ったみたいだ。そんな、破れたズタ袋みたいな体を引きずって、俺は、夜遅くまで、ペンを握っている……」


「頑張って書き続けていれば、そのうちに、体が慣れて、徹夜も平気になりますって」

「なるか、バカ! 年を取れば取るほど、体がきつくなるばかりだ。俺はもう、敗残兵なんだよ。人生にもあの人にも、取り残されたんだ」

「それは、ちがうと思います。少なくとも、シューベルトは、友達を見捨てるような人じゃない」

「そして、俺の仕事ときたら!」


 マイヤーホーファーは、アシュラの励ましなど、まるで、耳に入らないようだった。かっと目を見開いた。


「俺の仕事は、なんと、検閲だ! 素晴らしい芸術を貶め、政治の道具にすることなんだ!」


 不意に、アシュラの脳に、にかっと笑うナンデンカンデンの顔が浮かんだ。恥を知ろうともせずに取材を続け、ドブネズミのように、官憲から逃げていった……。


「大丈夫ですよ。芸術家あのひと達は、決して、諦めたりはしないから」

「お前の仕事は、検閲じゃないからな」


 険悪な目を、マイヤーホーファーは、アシュラに向けた。


「アシュラ。お前は、賢いよ。秘密警察に入ると同時に、お前は、演奏活動から遠ざかった。音楽を支えることを止め、観客になったんだ。お前は、賢い」

「……」


 それは、ドミニクの病気があったからだ。アシュラは、本気で、ドミニクを支えようと思っていた。時間的に、はおろか、経済的にも、アシュラには、余裕がなかった。


「音楽を聴くことは、僕の、一番の楽しみです。生きる喜びです」

小さな声で彼は言った。


「わかってる」

 深い溜め息を、マイヤーホーファーはついた。

「八つ当たりして、済まなかった。誰だって、生きることに、せいいっぱいなんだ。余計なことをする力なんて、そうそう、残されてはいない。それでも、……生業なりわいの他に何かを求めるのなら……努力を続けなければならない。わかっているさ、そんなこと」


 不意に、マイヤーホーファーは押し黙った。

 アシュラはそっと、その手から、グラスを抜き取った。

 されるがままに、マイヤーホーファーが、ぶつぶつ言っている。


「だが、能力のないものは、どうしたらいいんだ? 努力だけで、実りを手にすることができない者は? 俺は、疲れた。シューベルトはもう、俺の詩には、曲をつけてはくれない」


 アシュラは、マイヤーホーファーのグラスを飲み干した。もうそろそろ、潮時だ。

 くるりと振り向き、店主に向かって、手を振った。

「おおい、親父さん! お勘定」


 がちゃんと、大きな音がした。

 酒やつまみで散らかった卓上に、マイヤーホーファーが突っ伏していた。


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