誰にも渡したくない
アシュラはモーリツ・エステルハージと共に、宮廷の厨房の調査に着手した。
だが、調べれば調べるほど、毒物を混入する隙はないように思われた。
厨房では、宮廷料理長官の下、幾重ものチェック体制が敷かれている。宮廷料理長官は、高位の貴族が務める。長官の下には、専属料理長がいて、毒味はもちろん、微細な味のチェックまで、厳しい管理下におかれていた。
調理スタッフが少しでも怪しい行動をすれば、絶対に、監視役の目に止まる。
料理運搬人もまた、常にチームを組んで行動していた。彼らは、相互に監視し合っている。
料理に毒を盛るのは、不可能なように思われた。
ならばどうやって?
けれどもアシュラとモーリツは諦めなかった。
とりあえずは、皇帝が病を得た晩と、ライヒシュタット公が急な不快を覚えた日、それぞれホーフブルク宮殿とグラーツ城で職務についていた者たちの洗い出しから始めた。両者に共通している者が、当座の容疑者だ。
◇
「アシュラ」
秘密警察の事務所へ報告へ赴いた帰り。建物を出てすぐ、声をかけられた。
振り返って、驚いた。
「マイヤーホーファーさん!」
シューベルトの年長の友人、マイヤーホーファーが歩いてきた。
「どうしてここへ?」
「君と同じだ。職務だよ」
「職務……」
マイヤーホーファーが官僚だったことを、アシュラは思い出した。
「あなたの仕事って……」
悲しそうに、マイヤーホーファーは頷いた。
「秘密警察官だ。お前の、先輩だよ」
「そうだったんですか!」
初耳だった。
マイヤーホーファーは、居心地が悪そうだった。
「そういうわけで、君が同類だってことはすぐにわかったんだ。それをシューベルトに伝えたのは……」
「わかってます。僕は、彼のことを探っていた。注意を促すのは、友人として、当然のことだ」
「お前は、本当に、お人好しだな」
マイヤーホーファーは、苦笑した。
先日、政府に対して、
「その時は、声をかけられなかった。ナンデンカンデンは衛兵と追っかけっこを始めるし、お前は、後ろで、凄まじい悪態をついてるし……」
「あはは」
乾いた笑いを、アシュラはあげた。
「でも、いいんですか? あいつのこと、ほっておいて?」
ナンデンカンデンは、プリンスをネタに芝居を書いて、当たりを取ろうと狙っている。しかも、あることないこと、でっちあげて。
とんでもないペテン師だ。
そういうことなら、マイヤーホーファーには、真剣に働いて欲しい。アシュラは切に願った。
だが、マイヤーホーファーは、泰然としていた。
「大丈夫だ。奴はまた、檻の向こうへ戻ったから」
アシュラを見た。
「久しぶりだな。どうだ? 少し、つきあわないか?」
「いいですね」
アシュラは応じた。
相変わらず、ノエは、ウィーンを留守にしている。
秘密警察の先輩なら……、
アシュラの方でも、マイヤーホーファーに相談したいことがあった。
「毒! ライヒシュタット公の料理に、毒だって?」
「鵞鳥に説教する狼亭」は、混み合っていた。ほぼ全員が酔っ払っていてマイヤーホーファーの素っ頓狂な声に、耳を傾ける者もいない。
「プリンスだけじゃないんです。去年の、皇帝のご病気も、恐らく……」
「ライヒシュタット公を狙った毒を、うっかり皇帝が摂取してしまった、と?」
無言で、アシュラは頷いた。
「しかし……どうやって、そのコックは、料理に毒を盛ったんだ?」
「そこが、どうしても、わからないんです。でも、健康そのものだったプリンスが、あんな恐ろしい発作を起こされて……皇帝もそうです。皇帝のご病気も、全くの突然でした。しかも皇帝は、プリンスが手付かずで残した、料理を食べて、そうなった」
「毒を疑ってるのは、君だけだろ? 宮廷でも官庁でも、誰も、そんなことは言っていない」
「そうですけど……」
アシュラは言い澱んだ。
だって、ナポレオンの解毒剤が、激烈な効果を齎した……。
「なんだ? 何か、根拠でもあるのか? だとしたら、一大事だぞ」
マイヤーホーファーが言った。
「いえ……」
アシュラは口をつぐんだ。密偵をクビになるようなことをするなと、フランソワが言っていたからだ。
周囲は、相変わらず、自分のことだけを大声で語り続ける(そして人の話は、一切、聞こうとしない)、酔っぱらい達の喧騒で満ち満ちている。
「もうひとつ、おかしなことが、あるんです。資材横流しの捜査が、強制終了させられたんです。しかも、宰相じきじきの命令で」
アシュラは、ライヒシュタット家の薪が、粗悪品にすりかえられたこと、それが、どうやら、中央官庁からの差し金らしいこと、そして、その捜査が回り回って、自分のところまで辿り着いたことを話した。
「それが、急に、もう、捜査するなって。しかも、宰相自ら」
実は、宰相命令を無視して、こっそり、調べてみた。
だが、この業者がどこなのか、どうしてもわからなかった。薪そのものは、使用人の手で、すでに処分されていた。
政府の注文書の写しが添付されていたことは間違いないと、ライヒシュタット家の下働きの男は主張していた。
だったら、発行元の部署くらい、わかりそうなものだと、アシュラは思った。
だが、捜査は、宮内庁長官から秘密警察まで、さんざんたらい回しになっていた。つまり、どこの部署でも、わからなかったのだ。
マイヤーホーファーは肩を竦めた。
「そもそも、押し付けられた仕事だろ? 捜査打ち切りになって、良かったじゃないか」
「でも……」
「かりにも、政府宰相じきじきの命令だ。余計なことをするんじゃないぞ」
「……」
マイヤーホーファーは、空になっていたアシュラのグラスに、安ワインを注いだ。
「どうだ、この店」
言われてアシュラは、店内を見回した。
コートマルクト(王宮近く、王室御用達の店が並ぶ界隈)近くにある「鵞鳥に説教する狼亭」は、しかし、庶民的な店だった。価格も良心的で、腹いっぱい、飲食ができる。
「……いい店ですね」
「だろう?」
マイヤーホーファーは嬉しそうだった。
「最近シューベルトは、この店に河岸を変えたんだ」
「ああ、僕、この頃、彼に、会ってない。シューベルトは、元気ですか?」
一気に懐かしさがこみ上げてきた。
マイヤーホーファーは、肩をすくめた。
「相変わらずさ。歌を歌って、ワルツを弾く。踊って、作曲する。そうそう、今、彼は、ウィーンにいないよ。グラーツへ出かけたんだ」
「へえ……。もしかして、また、音楽の先生をしに?」
シューベルトが、エステルハージ家の令嬢の、音楽教師を務めていたことは、アシュラも知っていた。モーリツと同じ一族だが、両家とも、この大貴族の支流にあたる。
シューベルトは、一家について、避暑に出かけたこともあった。
「そういえば、どうなったのかな? 令嬢との恋は」
「恋だって!」
マイヤーホーファーの顔色が変わった。
「ええ、13歳だったがりがりの女の子が、6年経って再会したら、とってもきれいになっていたって、感激していましたよ」
「馬鹿な……あのシューベルトが、女になんか、
「高嶺の花ですね、あれは」
アシュラは断言した。
「令嬢の方は、気遣いのできる優しい方のようですけど、父親がね……。むりむりむり、って感じです……」
「そうだろうよ」
なぜかほっとしたように、マイヤーホーファーが言った。
「しかし、今度は女だって……? 俺は、シュヴィントだけで、手一杯だというのに……」
「シュヴィント! 彼、どうしてます?」
シュヴィントは、シューベルトお気に入りの、美青年だ。マイヤーホーファーより遥かに年下で、シューベルトよりも7つも若い。
「相変わらずだよ。おとぎ話の騎士や、王女の物語に夢中だ」
「……彼らしい」
画家であるシュヴィントは、ウィーンに惚れ込んでいた。彼は好んで、夢と想像の世界を、描いていた。
「何が! 子どもっぽい、絵空事じゃないか。時代の要請に、ちっとも沿っていない。馬鹿げた逃避に過ぎない」
いらいらと、マイヤーホーファーは、座卓を指で叩いた。
「でも、問題は、シューベルトは、そんなシュヴィントに夢中なんだ。現に今、作曲している曲も、楽譜の挿絵には、あいつの絵を使うようなことを言っている」
「へえ。凄いな」
「お前は、どっちの味方だ! 今度のは、大作なんだぞ! ベートーヴェンの死から、彼はずっと、その曲に掛かりきりになっている」
「ぜひ、聞いてみたいです。まだ、作曲中なんですね? ああ、待ち遠しいな」
「お前には、物事の本質が、ちっとも見えてない!」
マイヤーホーファーはテーブルを叩いた。グラスを鷲掴みにして、一息に飲み下す。
いつかの苦い思い出が、アシュラの胸に甦った。
女の子と楽しく踊っていたアシュラは、マイヤーホーファーに拉致されて飲み屋に連れ込まれたあげく、酔っ払った彼から、シュヴィントに似ているとののしられ……。
とにかく、マイヤーホーファーは、酒癖が悪いのだ。
「もうそのくらいにしておきましょうね、マイヤーホーファーさん」
アシュラは腕を伸ばした。
一瞬遅く、マイヤーホーファーは、ワインのボトルを抱え込んだ。
「
酒瓶を抱え込んだまま、涙ぐんでいる。
「女にも、……シュヴィントにも」
「はいはい」
再び酒瓶を取り上げようとして、アシュラは、失敗した。
「それなのに俺は、こんなところで、お前を相手に飲んでいる」
「あなたが、誘ったんじゃないですか!」
さすがにアシュラは、むっとした。
マイヤーホーファーは、一向に、頓着しない。
「俺には、決定的に、時間が足りないんだ。詩作をする前に、働かなくちゃならない。仕事から帰ってくると、もう、くたくただ。目はかすみ、体の節々が痛む。足はじんじんと腫れ、頭はぼうっとして、まるで蜘蛛が巣を張ったみたいだ。そんな、破れたズタ袋みたいな体を引きずって、俺は、夜遅くまで、ペンを握っている……」
「頑張って書き続けていれば、そのうちに、体が慣れて、徹夜も平気になりますって」
「なるか、バカ! 年を取れば取るほど、体がきつくなるばかりだ。俺はもう、敗残兵なんだよ。人生にもあの人にも、取り残されたんだ」
「それは、ちがうと思います。少なくとも、シューベルトは、友達を見捨てるような人じゃない」
「そして、俺の仕事ときたら!」
マイヤーホーファーは、アシュラの励ましなど、まるで、耳に入らないようだった。かっと目を見開いた。
「俺の仕事は、なんと、検閲だ! 素晴らしい芸術を貶め、政治の道具にすることなんだ!」
不意に、アシュラの脳に、にかっと笑うナンデンカンデンの顔が浮かんだ。恥を知ろうともせずに取材を続け、ドブネズミのように、官憲から逃げていった……。
「大丈夫ですよ。
「お前の仕事は、検閲じゃないからな」
険悪な目を、マイヤーホーファーは、アシュラに向けた。
「アシュラ。お前は、賢いよ。秘密警察に入ると同時に、お前は、演奏活動から遠ざかった。音楽を支えることを止め、観客になったんだ。お前は、賢い」
「……」
それは、
「音楽を聴くことは、僕の、一番の楽しみです。生きる喜びです」
小さな声で彼は言った。
「わかってる」
深い溜め息を、マイヤーホーファーはついた。
「八つ当たりして、済まなかった。誰だって、生きることに、せいいっぱいなんだ。余計なことをする力なんて、そうそう、残されてはいない。それでも、……
不意に、マイヤーホーファーは押し黙った。
アシュラはそっと、その手から、グラスを抜き取った。
されるがままに、マイヤーホーファーが、ぶつぶつ言っている。
「だが、能力のないものは、どうしたらいいんだ? 努力だけで、実りを手にすることができない者は? 俺は、疲れた。シューベルトはもう、俺の詩には、曲をつけてはくれない」
アシュラは、マイヤーホーファーのグラスを飲み干した。もうそろそろ、潮時だ。
くるりと振り向き、店主に向かって、手を振った。
「おおい、親父さん! お勘定」
がちゃんと、大きな音がした。
酒やつまみで散らかった卓上に、マイヤーホーファーが突っ伏していた。
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