トリコロールをまとったナポレオンの姪
「おお、ようやっと、返事が来たか」
ローマ法王庁の秘書官は、安堵の吐息を漏らした。
「で、ザウラウ侯は、なんと?」
フィレンツェ(トスカーナ大公国の首都。ザウラウ侯が赴任している)から帰り着いた官吏は、直立した。
「問題の貴婦人について、不審な点はない。旅券を発行しても、全く問題はない、ということでございました」
「不審な点はない? 男装で町中を歩いている女だぞ?」
「はい。ちょっと変わっているだけで、別に害はないから大丈夫、との仰せで」
「ふむ。ちゃんと名前は出したのか? エリザ・ナポレオーネ・カメラータと」
「はい」
「ナポレオンの姪だと言ったか?」
「もちろんです!」
ここ、ローマ法王庁に、エリザ・ナポレオーネ・カメラータ伯爵夫人から、ウィーンへの、旅券が申請された。
ローマ法王の秘書官は、ただちに、過去の記録を調べた。
カメラータ伯爵夫人は、過去にオーストリア領トリエステに住んでいた。その後、フィレンツェ(トスカーナ大公国)で、カメラータ伯爵と結婚している。二人の間には、男の子が一人いる。
しかし、何より問題なのは……、
……彼女が、ナポレオンの姪だということである。
……ナポレオンの姪を、ウィーンへやっていいものか。
秘書官は、迷った。
折しも、フランス政府が、ナポレオンの親族の、届け出なしの居住変更を禁じると、通告してきたばかりだ。
考えあぐねていた時、同じイタリアのトスカーナに、ザウラウ侯が大使として赴任してきたことを知った。
ザウラウ侯といったら、オーストリアの重鎮だ。イタリア外交にも明るく、ナポレオンについても詳しい。彼の言うことなら、間違いなかろう。
至急、秘書官は、ザウラウの元へ、使者を送った。
果たして使者は、ナポレオンの姪は無害だという返事を持ち帰ってきた。
「ならば、彼女の旅券を発行するとしよう」
秘書官はつぶやいた。
*
同じ頃、フィレンツェでは、ザウラウが、鼻歌を歌っていた。
……エリザ・ナポレオーネ・カメラータ、か。
……母も娘も、「エリザ」は、相当な、はねっかえりだな。
母のエリザ・バチョッキは、かつてこの、トスカーナ地方を治めていた。
彼女に関する、奇矯な噂を、ザウラウは、山のように仕入れていた。
演劇、特に悲劇が好きで、自ら演じることを好んだ、とか。
ルッカでは、フランス風広場を造る為に、歴史的建造物を含むほぼ1ブロックを破壊し、危うく暴動を招くところだった、とか。
……あの
ローマ法王庁からの問い合わせに、ザウラウは、断固たる太鼓判を捺した。
……カメラータ伯爵夫人は、無害な人物である。
ただでさえ、ナポレオンの姪である。彼女がウィーンへ足を踏み入れさえすれば、相当な混乱が起きることが予想された。
メッテルニヒの困った顔が目に浮かぶようだ。
エリザ・ナポレオーネが、何を企んでいるかは、わからない。だがもし、彼女が、
……パルマも、ほど近い。ライヒシュタット公は、母親を訪ねることができるやもしれぬな。
もっとも、彼が見物したかったのは、その時の、
……まず、ウィーンのわが部下に、手紙を書かねばならぬな。
ウィーンの秘密警察が有能なことは、世界の定評がある。楽しい計画に、無粋な邪魔が入ったらいけない。
かつてザウラウは、警察大臣を務めていた。警察をおとなしくさせ、「エリザ」の行動を黙認させるなど、たやすいことだ。
*
ベネチアの、国境詰め秘密警察官は、眉を顰めた。
眼の前のこの女……これが、男でないのは、わかりきっている……は、いかにもうさんくさかった。
女性の二人連れだった。一人は、まあ、普通だ。普通にスカートを履いている。
問題なのは、その連れの方だった。そもそも彼女は、なぜ、ズボンを履いて、男装しているのか。
それだけならまだいい。
どういうおしゃれか、全身を、青、白、赤の3色で飾り立てているのだ。
……青、白、赤?
……トリコロールか?
そう決めつけるのは、尚早かもしれない。ただ単に、変わっている、というだけなのかもしれないが……。
変人の方の通行証には、「カメラータ伯爵夫人エリザ」とあった。
既にベネチアの秘密警察は、カメラータ伯爵夫人が知人宛に書いた手紙を横取りし、入手していた。
その手紙には、彼女は「重要な仕事」の為に、ウィーンに向かっている、と書いてあった。
……重要な仕事?
通行証自体は、きちんとしたものだった。ローマ法王の秘書官が発行したものだ。これを疑っては、バチが当たる。
それによると二人は、 まともな方の娘の、父と兄弟に会いに、ローマからウィーンへ行くということだった。経由地は、ここベネチアと、トリエステ。
不備は、どこにもない。
「私達、昔、オーストリアに住んでおりましたの」
男装の(麗人、というには、へんちくりん過ぎた)カメラータ伯爵夫人が言った。
傍らのまともな格好の娘を指し示した。
「ですから、この子の親戚がまだ、
その声には、真実の響きがあった。
……なるほど。
秘密警察官は思った。
疑いすぎるのは、職業病だ。それに、こんな奇矯な女たちに、まさか、国家転覆の野望があるわけでもなかろうし。
二人の女性は、無事、ベネチアを通過した。
一応、納得して、女性たちに、国境を通過させはした。
だが、二人がいなくなってからも、ベネチアの警察官は、どうも、すっきりとしなかった。何かが引っかかるのだ。
長年勤めた秘密警察官としての、勘、なのかもしれなかった。
彼には、誇りがあった。
自分の仕事は、母国の治安を守る神聖な任務だという、強い自負だ。
考えあぐねた末、彼は、ペンを取った。
ウィーンの秘密警察本部に向けて、報告書を認めた。
※ エリザ・ナポレオーネ・カメラータ
ナポレオンの姪です。6章「ナポレオンの母」で、アシュラが会っています。
ナポレオンの姪、エリザ・ナポレオーネ・カメラータ(ナポレオンの妹の娘)は、男装で知られています。彼女は、ある目的の為に、普段から乗馬をし、馬車では御者席に座り、フェンシングを習っていました。同じ目的のために、夫とも別居をしています。
かなり奇矯な性格であったことは、疑いがありません。
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