8 鷲の子の檻を開けよ
ザウラウの意趣返し
※6章「年寄りの冷や水」に出てきた、オーストリア皇帝の古くからの重臣、ザウラウ侯の、再登場です。
ザウラウは、退屈していた。
オーストリアから、トスカーナ大公国の大使となって赴任してきたが、ここイタリアは、退屈すぎた。
ウィーンに比べれば気候温暖で、単調な日々が流れていく。
なにより、トスカーナは、ハプスブルク家の所領である。呆けがつくほど、平和だった。
……なにが、長年の貢献への褒美だ。
……メッテルニヒめ。あの若造が。
ザウラウは今年(1830年)、70歳になる。メッテルニヒは、13歳も年下だ。
……どうせ、ヨーハン大公と仲良くしすぎた罪での、
……今更、ヨーハン大公を担いで、
トスカーナの前の大公、
彼となら、酒でも飲みながら、メッテルニヒの悪口を言い合い、楽しい時間を過ごせたろう。激動の昔を懐かしむのは、退屈しのぎにもってこいだ。
だがあいにくと、フェルディナント大公は、6年前に亡くなっている。後をついだ息子は、あの大公の息子らしからぬ、お堅い男だった。しかも妻にベタ惚れしており、全く、粋ではない。
10年前に、ナポリのカルボナリを抑え込んでからというもの、このイタリアは、平穏過ぎた。
……儂は、まだまだ、仕事ができるぞ。
……部下も大勢、ウィーンに残してきた。
隠居する気は、毛頭、ない。
ザウラウは、退屈しきっていた。
そんな彼のもとへ、思いがけない来客があった。
「本当にお取次ぎして、よろしいのでしょうか」
官吏は、戸惑い気味だった。
「構わない。通しなさい」
ザウラウは、大きく頷いた。
入ってきたのは、フランス人だった。黒髪に、揉み上げが頬の下の方まで伸びている。
リュシアン・ボナパルト、ナポレオンの弟だ。
「私は、ウィーンへ行かねばならぬのです」
ザウラウの顔を見るなり、リュシアンは訴えた。
「それをあの、メッテルニヒが、どうしても、許可してくれなくて……」
「まあ、彼は、そうでしょうな」
落ち着き払って、ザウラウは答えた。
オーストリアの宰相メッテルニヒは、ボナパルト家の人間を国内へ入れることを禁じていた。
彼がかつて、フランスを追われた彼らを、一時的にせよ受け容れたのは、奇跡に近い。オーストリアなら、安心、メッテルニヒの監視下にあるわけだから。などと、猫なで声で、同盟国から押し付けられたわけだが。
今、ボナパルト家の大半は、このイタリアに住んでいる。行き場のない彼らを、ローマ教皇が受け容れてやったからだ。
「して、ウィーンには、何の御用ですかな?」
しれっとして、ザウラウは尋ねた。
「甥に、会いたいのです」
「甥?」
「ローマ王です」
「はて?」
「オーストリア皇帝の孫です! あなたがたが、ライヒシュタット公と呼んでいる青年ですよ!」
「ああ!」
ようやく、ザウラウの中で、いろいろ、繋がった。
7月にフランスで革命が起きた。しかし、ボナパルニストは、その機会を生かせなかった。
自らブルジョワ王を名乗る
つまり、ナポレオンの親族達は……。
「私はただ、甥に会いたいだけなのです」
必死の表情で、リュシアンは訴えた。
「我々コルシカ人は、血筋を何より重んじます。甥に会うことが、そんなに悪いことだとは、私には思えません」
「ライヒシュタット公に会って、どうするおつもりかな?」
意地悪くザウラウは尋ねた。
「彼に、父親の思い出話を。父のことを何一つ知らずに生きていくのは、彼にとっていいこととは思えません」
「今のこの時期に?」
「今のこの時期だからこそです!」
リュシアンは力を込めた。
「ブルボン王朝が倒れ、今度の王朝は、
「ふむ」
ザウラウは考えた。
……それも一理あるな。
アルプスのヨーハン大公が、しきりとこの、
トスカーナの今の大公と同じく、妻にベタ惚れという、嘆かわしい一面を持つヨーハン大公では、ある。だが、ザウラウの、長年の、大切な友であることに、変わりはない。
年少の者の信頼は、裏切りたくない、とヨーハンは言っていた。
それは、彼、ザウラウも同じだ。
ザウラウだって、自分を頼ってきた
だから、メッテルニヒに、ライヒシュタット公をアルプスへ療養にやるよう、言ってやった。だが、まあ、確かに、宰相の言うように、冬のアルプスは、ぞっとしない。肺を病んでいるのなら、なおさらだ。
メッテルニヒには、春になるまで待ってやると言ったのだが……、
……この儂が、イタリアに飛ばされたのでは、これ以上、メッテルニヒに、圧力の掛けようがないではないか。
……あの小面憎い宰相のことだ。儂がいなくなったのをいいことに、春になっても、なんだかんだいって、間違いなく、約束を反故にすることだろう。
ザウラウが反論しないのに力を得、リュシアンは続けた。
「私は、兄のジョセフとは違います。兄は、フランスの
ナポレオンの兄、かつてスペイン王だったジョセフは、今、アメリカに渡っている。
そこから
初めは、甥と会いたいという単純な手紙だった。が、どんどん過激に、また、誇大妄想的になっていった。
ジョセフはまた、7月革命直後に、フランス議会に、猛烈な抗議文を書き送っている。
フランスの王位継承者はオーストリアのライヒシュタット公だと、彼は主張した。
1815年、エルバ島より復位したナポレオンは、王位を、息子に譲っている。この6月22日の譲位から、7月7日(亡命していた
……故に、革命によってブルボン王朝が倒れた今、即位すべきはローマ王である。
……ルイ・フィリップの即位は成り立たない。
同じ頃、
もちろん、皇帝も
「
リュシアンは、溜息をついた。
「おかげで、何もしていない我々まで、居住の制限を課せられてしまった」
この8月に、ボナパルト家のメンバーは、引っ越しをする場合は、届け出が必要となったのだ。
「私はただ、甥に会いたいだけなのに。きっと甥だって、父方の親戚に会ってみたいと思っていることでしょう」
「なるほど」
きっと、リュシアンが眦を決した。
「高位の方々からも、私を支持する声を、たくさんいただいております。退職されたばかりのモル外務大臣ですとか、ベルトラン将軍ですとか……そうした方々のご好意を、無碍にするわけには参りません」
「ベルトラン……」
ナポレオンの古くからの部下で、セント・ヘレナへも一緒に行った将軍だ。
……何が、昔話だ。
……未だに、ナポレオンの部下と連絡を取り合っているではないか。
そういうことなら、と、ザウラウは思った。
……ぜひとも、メッテルニヒを悩ませてやるがいい。
まだ何か言いたげなリュシアンに向かって、ザウラウは大きくひとつ、頷いてみせた。
「ライヒシュタット公ご自身にとって、父方の親戚に会ってみるのも、悪くないでしょう」
「……え?」
リュシアンが怪訝そうに目を瞬いた。
その彼に向かって、ザウラウは続けた。
「さすがに、ボナパルトの姓を持つ者を、オーストリアに入国させることはできません。私の権限ではね。ですからあなた、手紙をお書きなさい。そうすればそれを、私が手ずから、
「本当ですか!?」
リュシアンの目が輝いた。
「本当にそのような……いや、文句を言うわけではないが、ザウラウ侯、貴方の前任者は、私のことなど、まるで虫けら扱いで……」
「まあ、ボンベルは、生まれついての官僚ですからな」
半信半疑だったリュシアンの声が、潤んできた。
「私、このようなご厚情を賜ったことは、兄ナポレオンの没落後、初めてです……」
「そのくらいのこと。お任せなさい」
大きく、ザウラウは胸を叩いた。
「たくさん、お書きになるといい。一通、私が届けたら、後は、郵便でも構いません。真心こめた手紙が何通も届けば、身内を思う気持ちに、宰相も動かされるかもしれません」
ジョセフの手紙に、メッテルニヒが、相当、苛立っていたことを、ザウラウはよく覚えていた。
……さらに、このリュシアンが加われば……。
メッテルニヒのストレスは、相当なものになるだろう。
俯いて、ザウラウは、にまりと笑った。少しだけ、胸の支えが下りた気がした。
できたら、ナポレオンの親族を、もっともっと、オーストリアへ送り込んでやりたいところだ。
メッテルニヒを困らせるためなら、この老政治家は、なんでもやるだろう。
※
メッテルニヒとトスカーナ大公フェルディナント、及び、ナポレオンの妹カロリーヌの三角関係は、
1章「温めたタオルとブランデーと 1」
にございます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます