乱交の産物
このまま、フランスを出てやろうか。
アシュラは考えた。
身一つの旅だ。大した荷物は必要ない。旅券は、いつも持ち歩いている。
国境の検閲所に向かって、道を折れた。
「待て!」
眼の前に若い男が立ちはだかった。
背が高く、わりとハンサムだ。だが、目がぎょろりとして、落ち着きがない。
「お前は、ローマ王の部下だな。隠しても無駄だぞ。シャルル・ルイと一緒にいるところを見た。話も聞いた」
……尾行してたのか。
話に夢中で、油断していた。
部下というのは少し違うが、細かいことを気にしている場合ではなかった。
「誰だ、お前は」
「怪しいものではない」
「信じられないね」
尾行して、相手が一人になるのを待って、声を掛ける。
既に、怪しさ満載だ。
……ローマ王。
……シャルル・ルイ。
しかし、ボナパルニストなら、シャルル・ルイの方に声を掛けるだろう。
「お前の狙いは何だ?」
シャルル・ルイが手玉に取っているつもりの、
それとも、
「まさか、ブルボンの残党……」
「かっ、金をくれ!」
相手は、必死の形相でにじり寄ってくる。
「追い剥ぎか!」
アシュラは後じさり、目で、武器になりそうなものを探した。
「違う! 俺は、ローマ王に、少なくとも、15万フランの貸しがあるんだ!」
男は、胴間声を上げた。
「15万フラン!」
大金だ。
思わずアシュラは、目を剥いた。
「何言ってんだ、お前!」
盗むにしても、限度がある。第一、それだけの
狂人かと思った。
菩提樹の枝が折れているのを見つけ、素早く手に取った。油断なく身構える。
焦ったように、男が叫んだ。
「慌てるな! 怪しい者ではない。俺は、シャルル・レオン。ナポレオンの息子だ!」
……また、シャルルか。
……ん?
「ナポレオンの息子だってぇ!?」
「そうだ。母は、エレオノーレ・ドニュエル。ナポレオンの妹の、侍女だった。やがて二人の間に愛が芽生え、俺が生まれた」
そういえば、そんなのが、いたような……。
アシュラは必死で、ウィーンで読んだ資料を思い浮かべた。
……あれか。
ナポレオンと、最初の妻、ジョセフィーヌの間には、子どもができなかった。
ところが、ジョセフィーヌは、ナポレオンとの結婚前に、すでに、子どもを二人、産んでいる。彼女は、
見かねた妹のカロリーヌが、自分の侍女を、
侍女は妊娠し、やがて、男の子を産んだ……。
「だが、その子の父親は、
ナポレオンかミュラか。
どちらが父親か、当の侍女自身にもわからなかった。
ただ、彼女の夫が父親でないことだけは、確実だった。
当時、彼女の夫は、公金横領の罪で、投獄されていたからだ。
「違う! 俺の父は、ナポレオンだ! 実際、父は俺を、最後までかわいがってくれた。俺は、セント・ヘレナへ流される父と、マルメゾンで、面会も果たしたんだ!」
シャルル・レオンと名乗るこの男が、ナポレオンのタネであるかどうか、この際、アシュラには、どうでもよかった。
オルタンスのあの乱交ぶりを知った後では、大抵のことには、驚かない。
驚かないが……。
「なんで、うちの殿下が、お前に、15万フランも借りがあるんだ?」
「俺の教育費だよ」
20歳は軽く越えていると思われる男は、しゃらりと答えた。
「
「だったら、ナポレオンから貰っとけばよかったじゃないか」
「父は、その金を、
もちろん、二人とも、その義務を感じなかった。
ナポレオンの遺言執行人、モンソロンが訴訟まで起こしたのだが、マリー・ルイーゼもウジェーヌも、全く、取り合わなかった。
「ウジェーヌは、既に亡くなっている。だから、本来なら、全額、マリー・ルイーゼから貰いたいところだ。だが、相手がローマ王なら、半額に負けてやってもいい。15万フラン。利子は無しだ。破格の大サービスだ。きっちり支払ってほしい」
アシュラは呆れた。辛辣に答えた。
「とてもじゃないけど、法律家の言うこととは思えない」
「あー、俺は、法律家じゃない。なれなかった。なにしろ、
実際には、この男にやる気がなかっただけだろうと、アシュラは思った。
彼には、ナポレオンの秘書だったメヌヴァルが、後見人についていた筈だ。
「諦めることだな。うちの殿下には、自由になる金なんて、ないから」
「だって、彼は、オーストリア皇帝の孫だろう? 孫が払えなきゃ、
「そんなわけのわからん金を、あの渋い皇帝が、出すものか!」
アシュラが気色ばんだ時だった。
「アシュラ! ここにいたのか!」
シャルル・ルイが姿を現した。
「用を済ませて外に出たら、お前の姿がないから……」
そこで彼は、レオンがいるのに気がついた。
「げげ。お前は、レオン!」
「よう、わが従弟、もう一人のシャルル君。ごきげんよう」
二人は、顔見知りのようだった。
シャルル・ルイは、じりじりと後退した。
「金なら、1スーだって、貸さないぞ」
「今じゃなくたって、構わないさ。そのうち、懐具合のいい時に」
「貸さないから!」
シャルル・ルイは、アシュラの腕を取った。
「帰るぞ、アシュラ」
「いや」
シャルル・ルイの腕を、アシュラは外した。
「俺は、ポーランドへ行く」
「ポーランド? 何しに?」
シャルル・ルイは、あっけに取られた顔をした。
次世代のボナパルト達……もしレオンにその自覚があるのなら……に、アシュラは等分に目をやった。
「俺は、ナポレオンのもう一人の息子に会ってみたい」
「もう一人の息子?」
二人が声を合わせた。
「アレクサンドル・ワレフスカだ」
「ああ!」
シャルル・ルイは、ぽん、と手を打った。
「ポーランド貴族の妻が産んだ、庶子か。だが、彼は今、フランスにいるぜ」
アシュラは驚いた。
「フランスだってぇ!?」
「そう。ルイ・フィリップの下についているんだ」
「フランスの新王の……、それって……」
ルイ・フィリップ政権は、ボナパルニストに反する王権ではないか。
ルイ・フィリップは、突然の革命に、
訳知り顔で、シャルル・ルイが頷いた。
「まったくなあ。
「俗物だからだ」
ふんぞり返って、レオンが言い放った。
「あんたらみんな、俗物だ。俺は知ってるぞ。お前の兄は、カルボナリだ!」
「うるさい。無能な財政破綻者には、言われたくない!」
「なんだと!」
「来い、アシュラ。アレクサンドルに会いたいなら、母上に頼んでやる。俺らにゃ、
さっさと歩き始める。
背後で、レオンが悪態をついている。
「お前らなんか、本当は、この国にいちゃ、いけないんだぞ。どうせ、ニセの旅券を使って……」
「黙れ!」
振り向き、シャルル・ルイは一喝した。
「そういうことは、ジョセフ伯父さんに借りた金を、返してから言え!」
ぐんぐんと歩き始める。
「まったく、
レオンが追って来ないのがわかると、シャルル・ルイは、歩く速度を緩めた。
「
溜息をついた。
「フランスに来ようとしない」
「来ようとしないんじゃない。来れないんだ」
ぴしりと、アシュラは訂正した。
「同じことだ。フランスにいない者は、王として、担ぎようがないじゃないか」
これ以上フランソワの弁護を続ければ、彼が、ナポレオンを尊敬し、熱烈に支持していることを暴露してしまうだろう。
最も危険な、ボナパルニストに。
話を反らせる必要を感じた。アシュラは指摘した。
「だが、浪費家で享楽主義者のレオンは、ナポレオンの子じゃないんだろ?」
ルイ・シャルルは強く頷いた。
「そうだ。あいつには、ボナパルト家の血なんか、一滴も流れちゃいない! あれは、母親の乱交の産物だ!」
「……彼も、あんたにだけは、言われたくなかろうよ」
ぼそりとアシュラはつぶやいた。
※1 オーギュスト
オルタンスの産んだ、4人目の子です。父親は、タレーランの息子です。この章の「オルタンスの息子たち 2」に名前が出てきます。
※
レオンの誕生秘話(?)は、1章「お妃探し 1」にございます。また、最後に名前の出てきたナポレオンの庶子、アレクサンドル・ワレフスキ誕生についても触れています。
なお、レオンというのは、爵位で、正しくは「レオン伯シャルル」ですが、もう、シャルルはおなかいっぱいなので、「レオン」を呼び名に使わせていただきました。
レオンの後見人のメヌヴァルは、マリー・ルイーゼがフランスからオーストリアへ逃れた時、一緒についてきた秘書です。
忠実な秘書だった彼も、やがて、ママ・キューの後を追うように、オーストリア側から、解任されてしまいます。その様子は、1章「解任 2」にございます。
最初は、メヌヴァルの舅が、レオンの後見人についたのですが、やがて、娘婿であるメヌヴァルに引き継がれました。ちなみに、メヌヴァルは、29歳の時に、16歳だった妻と結婚しました(マリー・ルイーゼとローマ王に付き添ってウィーンに行ったのは、ちょうど新婚の頃でした……)。二人の結婚式には、ナポレオンとジョセフィーヌも立ち会ったそうです。
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