女の意地
女性の二人連れが、埃だらけの乾燥した田舎道を、歩いていた。
赤・白・青の3つの色でめかしこんだエリザ・ナポレオーネと、その連れである。
同行の娘は、ただ、オーストリアに家族がいるというだけで、
エリザ・ナポレオーネの方は……。
ふいに、エリザ・ナポレオーネが走り出した。通りの向こうに止まった馬車に向けて、ぶんぶんと手を振る。
「叔母様! ごきげんよう!」
馬車の中にいた貴婦人は、驚いたように、目を瞬かせた。
「まあ! エリザじゃないの! 誰かと思ったわ。というか、まさか女性だとは……」
「ええ、私よ。カロリーヌ叔母様!」
ウィーンへ行く前に、エリザ・ナポレオーネとその連れは、ベネチアから、トリエステに立ち寄った。
ナポレオンの妹、元ナポリ王妃のカロリーヌがいるからだ。
彼女の夫、ミュラは、かつて、ナポリ王だった。ナポリに固執し、2度も、
従って、彼女と
……カロリーヌは、反フランス、反ボナパルトだ。
ナポレオンの弟ジェロームは、
ナポリ王妃だったカロリーヌは、イタリア半島へ足を踏み入れることを許されなかった。
今、彼女は、かろうじて、イタリアの入り口、トリエステに居住を認められている。
トリエステは、現在はオーストリア領だが、ナポレオン時代には、フランスの支配下にあった。カロリーヌの姪、エリザ・ナポレオーネもまた、幼少期を、トリエステで過ごしている。
周りの好奇の目を避け、カロリーヌは、男装の姪を馬車に乗せた。
自分の住居に連れて行く。
連れの娘を別室に休ませ、姪だけを、私室に招き入れた。
「ねえ! どうしてあなたは、未だに、男の格好をしているの?」
カルスト台地を馬で駆け回っていた幼い姪の姿を、カロリーヌは、忘れることができなかった。
しかし、それも、結婚するまでのことだろうと思っていたのだが……。
「それに、ご主人はどうしたの? あなたの息子は、まだ小さかったんじゃなくて?」
「夫とは、別れたわ」
「別れた? なんでまた」
「私の、高貴な志を、彼に、抑圧させない為よ!」
「高貴な志ですって!?」
「ローマ王奪還よ! 男装は、その為だわ。だって、スカートを穿いていたら、フェンシングや乗馬や、馬車の御者席に座ることだって、できないじゃない!」
「そんなことは、殿方に任せておいたらいいんじゃなくて?」
「ダメよ!」
エリザ・ナポレオーネは意気込んだ。
「うちの夫をはじめ、男なんて、アテにならないわ! おじ様たちだって、ちっとも役に立たないし!」
「でも、リュシアン兄さんやジェロームは、オーストリアに手紙を書いたんじゃなかったかしら。ジョセフ兄さんも、アメリカから手紙を書き送ったはずよ!」
「手紙は、ローマ王には届かなかったのよ」
静かな声で、エリザ・ナポレオーネが応えた。
確かなことは、わからない。けれど、オーストリアの従弟から、おじ達へ、返事が一切なかったことは、事実だった。
意気消沈したおじ達は、徐々に、ローマ王奪還を、諦めつつあった。
「叔母様。協力してほしいの」
熱い目でエリザ・ナポレオーネは、カロリーヌを見つめた。
「叔母様は確か、オーストリアのメッテルニヒと親しかったわね?」
親しかったなどというレベルではない。
カロリーヌはその昔、メッテルニヒの愛人だった。というより、メッテルニヒの方が、彼女の熱心な求愛者だった。
フランス大使時代、ちょうど、メッテルニヒが辣腕を発揮して、
メッテルニヒは、トスカーナ大公だった
そのメッテルニヒに、彼女は、自分の髪を編み込んだ鎖を与えた……。
ちなみに、カロリーヌもメッテルニヒも、既婚者だった。
フェルディナント大公だけが、独身だった。彼は、最初の妻を亡くした後だった。
「メッテルニヒは、叔母様が一時、オーストリアへ亡命していらした時、何かと、役に立ってくれたでしょ?」
畳み掛けるように、エリザ・ナポレオーネが言う。
夫のミュラが処刑された後、メッテルニヒは、カロリーヌの身分を保証してくれた。
オーストリアにおける居住も、古くて寒いハインブルク城から、小奇麗で住みやすいフロスドルフ城を手配してくれた。
「無理よ!」
メッテルニヒの名が出た途端、カロリーヌは叫んだ。
「だって、私はもう、年を取ってしまったもの」
「それは、向こうも同じよ!」
「
「大義の前の小事よ」
呆れたように、エリザ・ナポレオーネは首を横に降った。
「叔母様に、ご迷惑はかけないわ。失敗した時だけでいいの。もし私がローマ王奪還に失敗して、牢に繋がれたら……その時は、
「ローマ王奪還? 国家の反逆罪じゃない。メッテルニヒに、そんな力があるのかしら」
「昔、アナトール大佐が、ローマ王に失敗した時、母親のモンテスキュー夫人は、
「でも……」
「大丈夫よ、叔母様。私は失敗なんかしないから。ローマ王を無事に、オーストリアから連れ出してみせる!」
「連れ出して、どうするつもりなの?」
「フランスへお連れするわ。もちろん!」
「……フランス」
「ローマ王はね。フランスへ来さえすれば、それでいいの。彼が三色旗を手にしてストラスブール(国境の町)へ現れれば、たちまち、民衆の歓呼に包まれて、パリまで運ばれていくわ」
「そんなにうまくいくかしら」
「大丈夫よ、叔母様」
エリザ・ナポレオーネは、強い目で叔母を見た。
「今、パリには、オルタンス叔母様がいるの」
「まあ! オルタンスが!」
「シャルル・ルイも一緒よ」
「あの子は、母親の腰巾着だから、」
「その上、叔母様は、オーストリアの密偵を、手元に置いているらしいの」
「密偵ですって?」
「ローマ王と仲良しの密偵よ。裏切り者の反体制ってやつね。彼がいればきっと、ローマ王は、私達を信用するわ」
「……」
カロリーヌは押し黙ってしまった。
「……叔母様」
思わず、エリザ・ナポレオーネは嘆いた。
「ああ……ポーリーヌ叔母様が生きていらしたら!
カロリーヌは、平然として応えた。
「本当にね。時には、
「そんなこと、あるわけないでしょ!」
「だって、フランス王室は、犬小屋みたいだって、あの当時、よく言われてたじゃない?」
「犬小屋?」
「犬は、親きょうだい、関係ないからね」
「叔母様!」
姪に怒鳴られ、カロリーヌは、首を竦めた。
「私が言ったんじゃないわ。でもまあ、少なくとも、ポーリーヌお姉様は、蓄財の才能だけは、あったわね。金持ちの夫から、宝石やお金を剥ぎ取る才能に恵まれていたわ」
「何をするにも、お金は、大事よ」
「でも、エリザ。
エリザ・ナポレオーネは、ちらりと、
「ねえ、叔母様。ご存知かしら。メッテルニヒは、また、結婚するそうよ」
「え? 彼の奥さんは、去年、亡くなったばかりじゃなかった?」
「それ、二人目の奥さんね。確か、
「……そうだっけ」
「今度貰う奥さんもね、31歳年下だそうよ。彼にとっては、3人めの奥さんね」
「……また、若いのを……」
「いいの? 叔母様」
声を怒らせ、エリザ・ナポレオーネは続けた。
「男にばかり、いい思いをさせて。メッテルニヒは、もう、58歳よ。叔母様は、お幾つ? まだ、たったの48歳じゃないの!」
「……」
「老け込んでる場合じゃないのよ!」
「……わかったわ」
ついに、カロリーヌは言った。
「いいわ、任せて。私は、ナポレオンの妹よ。かつては、ナポリ王妃だったわ。いざとなったら、メッテルニヒに、昔のことをいろいろ思い出させてやる」
「そうよ! 頼むわ、叔母様!」
「小娘なんかに、負けられない!」
「それでこそ、カロリーヌ叔母様だわ! 私達には、高貴な義務があるのよ!」
「……あなたも、失敗しないようにするのよ」
カロリーヌは、姪に釘を刺すのを忘れなかった。
「ライヒシュタット公は、オーストリア皇帝の孫でもあるんですからね。無理矢理、誘拐するような真似は……」
「そんなこと、しないわ!」
エリザ・ナポレオーネは真剣な目をしていた。
「彼は必ず、私と一緒に来る。ローマ王は、フランスの帝王になるの! 偉大なる
※1
アナトール大佐は、ローマ王の養育係だった、ママ・キューの息子です。ナポレオン軍に入り、ナポレオンの没落後は、ローマ王奪還に闘志を燃やしました。その様子は、
1章「解任 1」
にございます。
7章「バロネスの怒り」に、母子共々再登場していますが、こちらは、フィクションです。
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