セドルニツキの警戒


 「お前、これを、どう思う?」

朝、届けられたばかりの報告書を、セドルニツキ伯爵は、部下に手渡した。



 セドルニツキ伯爵は、秘密警察の長官である。通称、切り裂き伯爵。本や芝居台本の検閲が何より好きだ。削除、訂正の赤ペンのインクで、ゲラ校正刷りを真っ赤にすることで有名だった。



「ベネチアからの密書ですね。国境詰めの警察官からの」

 部下のノエは、上司セドルニツキから、書類を受け取った。

 暗号で綴られた密書に、素早く目を通す。

 密書には、エリザ・ナポレオーネ・カメラータ伯爵夫人が、ウィーンへ向かっている、と記されていた。


「知っての通り、エリザ・ナポレオーネ・カメラータは、ナポレオンの姪だ」

尊大にセドルニツキは言い放った。

「彼女は、昔、オーストリア領トリエステに住んでいた」


「旅券には、不備はなかったと、ベネチアの国境詰め捜査官は言っています」

さらに暗号を解読しながら、ノエが答えた。

「ローマ法王の秘書が発行した、正規の旅券だったそうです」

「それで、ベネチアの国境は通過したわけだな」

「トリエステも通過し、ウィーンへ向かっています」


「次は、これだ」

セドルニツキは、ノエの鼻先に、筒状に丸めた手紙を突き出た。

「……」

ノエは無言で受け取り、広げた。

「ザウラウ侯爵から、セドルニツキ長官あなた宛の親書ですね」

素早く目を通す。

「ナポレオンの姪は、無害だと書いてあります」



 ザウラウ侯からの手紙には、旅券を発行する当たり、ローマの秘書官から問い合わせが来たので、ウィーンにも知らせておく、とあった。

 ナポレオンの姪、エリザ・ナポレオーネ・カメラータ伯爵夫人は、全く無害な人物である。安心して入国させるとよい……。

 それが、手紙の趣旨だった。

 なお、くれぐれも宰相メッテルニヒを煩わせてはいけないと、但し書きがついていた。



「ナポレオンの姪は、変人だそうだな?」

「それは、主観の問題でしょう」


「……どう思う?」

セドルニツキは部下に尋ねた。

「仮にも、ナポレオンの姪が、ウィーンへ入るのだ。ザウラウ侯は必要ないとおっしゃっておられるが、……本当に、宰相に知らせなくても、いいのだろうか」


「ベネチアの警察官の意見は、違うようですね。国境警備の捜査官は、優秀です。わざわざ密書で、ナポレオンの姪がウィーンへ向かったと知らせてくるとは……。ベネチアの捜査官には、何か、感じるものがあったのだと思います」

ノエは答えた。

「たとえ、彼女の安全性を、ザウラウ侯が保証されたとしても。私としては、ベネチアの捜査官の直観を信じたいところです」


我が意を得たりとばかり、セドルニツキは、大きく頷いた。


「私も、そう思う。もし何かことがあって、宰相からお叱りを受けたら、叶わない。確かにザウラウ侯は、かつて警察大臣だったが、それは、随分前のことだ。今は、引退中の身だ」

「違います。トスカーナ大使として赴任中です」

「同じことだ。温暖なイタリアで、余生を楽しんでおられるのだろうよ。まさに、官僚の夢だな」


束の間、セドルニツキは、羨ましそうな顔をした。


「それに引き換え、メッテルニヒ侯は、今も宰相だ。我々は、彼の不興を買うわけにはいかないのだ」

「つまり、ザウラウ侯前警察大臣メッテルニヒ侯現宰相、どっちにしっぽを振るべきかという問題ですね」


「ノエ。お前、貼り付け。このナポレオーネという女がウィーンに来たら、徹底的に、尾行するんだ」

「承知しました」

ノエは答えた。








セドルニツキ切り裂き伯爵と、秘密警察官ノエは、このお話では、あちこちに出てきます。セドルニツキは、

5章「切り裂き伯爵 セドルニツキ」

に、一番史実に添ったエピソードがあります。


ノエも実在の警察官の名です。彼は、ライヒシュタット公の馬車に三色旗を投げ込んだ男を追って、フランス・ドイツのあちこちを駆け回った警察官です。この事件は、

4章「投げ込まれた三色旗と、崇高な義務」

のことです。

その功績を称え(?)、アシュラの上司になって頂きました。


また、年寄りの冷や水、ザウラウ侯が、かつて警察大臣だったことも、本当です。ヨーハン大公と共にナポレオン戦争を戦ったのも、嘘ではありません。

1830年に、70歳で、トスカーナ大使に赴任したのも、この年、イタリアで、ナポレオンの弟、リュシアンから接触があったことも、史実です。

メッテルニヒへのちょっかいについては……さぞや、やりたかったのではないか、と。





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