わが君の手にキスを
間もなく、
劇場。城壁の散歩道。プラーター公園。
街のあちこちで、彼女の姿が散見された。
相変わらず、ズボンを履き、男装していた。だが、タータンチェックのマントですっぽりと全身を覆った彼女は、意外と、目立たなかった。また、ウィーンっ子は、他人の言動に、それほど注意を払わない。
尾行していたノエは、間もなく、彼女の視線の先に、いつも同じ人物がいることに気がついた。
ライヒシュタット公。
皇帝の孫だ。
……ナポレオンの姪の狙いは、ナポレオンの息子か。
腑に落ちた思いだった。
何度か、彼女は、足を踏み出そうとした。
しかし、ライヒシュタット公の歩みの速さに立ち遅れ、或いは、彼が従者が一緒だったりして、どうしても、話しかけることができないでいる。
……トロイ女だな。
無念そうに唇を噛むエリザの後を、ノエは尾行した。
*
マリアヒルフの人混みまで戻ってきた時、男が、彼女にぶつかった。
「おっと、ごめんよ」
そう言いつつ、相手の肩を、自分の手で抑えるようにして、再び、全身をぶつける。
「何をする!」
明らかに女の声で叫んで、エリザは、男を睨みつけた。
ぐいと、男は、帽子の縁を押し下げた。
「ああ、これは、昼から飲みすぎた~」
言いながら、ふらふらと彼女から離れていく。
「どうだった?」
ノエが、街路樹の陰から出てきた。さりげなく男と並んで歩き始める。
「武器は持っていなかった」
男が答えた。
「本当か? よく調べたのか?」
「ああ。確かに、あれは女だったよ」
急に、しまりのない顔になった。
「そうじゃない! 銃とかナイフとか……そういうのは持ってなかったかと聞いている!」
小声でノエは怒鳴りつけた。
この男は、秘密警察の協力者だった。本職は、
掏摸は、肩を竦めた。
「何も。寸鉄も帯びず、ってやつだ」
「ふむ。彼女がお前に抱きつかれてるのを見て、飛び出してくる仲間もいなかったしな」
「それにあの女は、別に、鍛えられてる風でもなかったぜ? 普通の女だった」
むしろ嬉しそうに、掏摸は付け足した。
……武器は持っていない。
……近くに、仲間もいない。
掏摸と別れ、ノエは考えた。
その上、本名で、オーストリアに入国していた。「エリザ・ナポレオーネ・カメラータ伯爵夫人」というのは、彼女の本名だ。
ベネチアから報告が来ていたので、ウィーンの係官は、入念に、旅券をチェックした。
どこにも疑わしい所はなかった。
旅券は、完璧だった。
エリザ自身の態度も堂々としていて、少しも、疑わしいところがなかった。
……もう少し、泳がせてみるか。
ノエは思った。
ただ、彼女の狙いが、ライヒシュタット公だとすると……。
……アシュラ。
ノエの部下は、ライヒシュタット公に、えらく心酔していた。
その部下に、ノエは、ライヒシュタット公の身の回りの警護は任せろと請け合ったのだ。
アシュラは今、オーストリアの外へ出している。
身分の低い、
アシュラ自身の身の安全のために、ノエは、彼を、ウィーンから遠くへ旅立たせた。
しかし……。
フランスへ入るという報告が来たのが、7月の初め。
そこへ、革命が起きた。アシュラの消息は、途絶えたままだ。
アシュラはどうしているのだろう。
このエリザという女が、何を企んでいるのか、わからない。
もし、彼女がライヒシュタット公の味方だとすると……従姉だから、それは充分、あり得た……うかつに、メッテルニヒに報告するわけにはいかない。
ライヒシュタット公の敵は、外国人だけではない。国内にもいる。その場合は、ひょっとすると、ナポレオンの姪は、彼の味方になるのかもしれない。
ノエは、ライヒシュタット公を守ると、アシュラに約束した。それは、彼の不利になるようなことはしない、ということも含まれる。
約束は、約束だ。
*
1830年11月11日の晩。
フランソワは、家庭教師のオベナウスの家を訪ねた。
アプローチの敷石を踏んで、階段に差し掛かった時だった。背後で、物音がした。
暗がりから、誰かが出てきた。ゆったりとしたタータンチェックのマントをまとっている。
その人物は、階段のすぐ下の段まで来ていた。振り向いた彼の手を、いきなり、ぎゅっと握りしめた。
フランソワの心臓が、跳ね上がった。
しかし、なぜか、いやな気持はしなかった。
相手の全身から、彼への、親愛の情のようなものが溢れ出ているように感じられたのだ。
彼の手を鷲掴みにし、その人物は、自分の口元へ持っていった。
湿った唇が、押し当てられた。
その時だった。
辺りが、ぱっと明るくなった。上の、玄関ドアが開けられたのだ。
「何をなさっているのです!」
階上から声が降って来た。フランソワの教師、オベナウスの声だ。
明るいところから出てきたオベナウスには、すぐには、状況が飲み込めなかったようだ。
フランソワの手に押し当てられていた唇が、離れた。相手は、階上のオベナウスを睨みつけた。
「無礼者! 我が君の手にキスすることを、妨げるとは!」
明らかに、女性の声だった。
フランソワは、動転した。
彼は、相手に向かい、軽く頭を下げた。
そして、オベナウスめがけて、一気に、階段を駆け上った。
生徒が中に入るやいなや、オベナウスは、玄関のドアを固く鎖した。
外階段の下には、エリザ一人が取り残された。
**
「背が高くて、思った通りハンサムだったわ」
戸外に残された残された人影……エリザは、ひとり言をつぶやいた。
おもむろにサンダルを脱ぎ、振った。中から、小石が出てきた。足音を立てぬよう、敷石の外側をそっと歩いたので、サンダルの中に、石が入ってしまったのだ。
「でも、なんて、悲しそうなお顔……それに、なんだかとても、不幸せそう」
彼女の背後で、秘密警察官ノエが、一部始終を見ていた。
ライヒシュタット公が、悲しそうで、不幸せそうなのは、その通りだと思った。
*
オベナウスの住居では、生徒と教師が、向かい合っていた。
「……」
「……」
フランソワは、呆然としていた。
……あれは、女性だった。
ダンスや儀礼の他に、女性から手を握られ、キスされたのは、初めての経験だった。
別に、怖い思いをしたわけではない。相手が発散させていた親愛の情は、彼の不安を、かき消してくれた。
だが。
……まさか、女性だったなんて……。
「……」
「……」
オベナウスは、困惑していた。
よくは見えなかったが、あれは、確かに女だった。
すると自分は、生徒の濡れ場を目撃してしまったのか!?
13歳の時からの教え子も、今ではもう、19歳だ。ましてや、プリンスである。女の一人や二人いても、おかしくない。
……邪魔しちゃったか。
いや、あんなところで、手を握り合っているのが悪い。恨まないでもらいたい。
……謝ったほうがいいかな。
他の二人の教師と違い、後から家庭教師となったオベナウスには、生徒に対する、気後れがあった。
しかし、何と言って謝る? 却ってプリンスに、気まずい思いをさせるだけではないか?
この件は、なかったことにした方が、お互いの為……。
「テキストの52ページを開きなさい」
オベナウスは言った。
生徒は、無言で教科書を開いた。
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