わが君の手にキスを



 間もなく、エリザ・ナポレオーネナポレオンの姪は、ウィーンに到着した。


 劇場。城壁の散歩道。プラーター公園。

 街のあちこちで、彼女の姿が散見された。


 相変わらず、ズボンを履き、男装していた。だが、タータンチェックのマントですっぽりと全身を覆った彼女は、意外と、目立たなかった。また、ウィーンっ子は、他人の言動に、それほど注意を払わない。

 エリザ・ナポレオーネナポレオンの姪は、枯れ葉散るウィーンの街に、溶け込んでいた。



 尾行していたノエは、間もなく、彼女の視線の先に、いつも同じ人物がいることに気がついた。


 ライヒシュタット公。

 皇帝の孫だ。

 ……ナポレオンの姪の狙いは、ナポレオンの息子か。

 腑に落ちた思いだった。



 何度か、彼女は、足を踏み出そうとした。

 しかし、ライヒシュタット公の歩みの速さに立ち遅れ、或いは、彼が従者が一緒だったりして、どうしても、話しかけることができないでいる。


 ……トロイ女だな。

 無念そうに唇を噛むエリザの後を、ノエは尾行した。





 マリアヒルフの人混みまで戻ってきた時、男が、彼女にぶつかった。

「おっと、ごめんよ」

そう言いつつ、相手の肩を、自分の手で抑えるようにして、再び、全身をぶつける。


「何をする!」

 明らかに女の声で叫んで、エリザは、男を睨みつけた。

 ぐいと、男は、帽子の縁を押し下げた。

「ああ、これは、昼から飲みすぎた~」

 言いながら、ふらふらと彼女から離れていく。




 「どうだった?」

ノエが、街路樹の陰から出てきた。さりげなく男と並んで歩き始める。


 「武器は持っていなかった」

男が答えた。

「本当か? よく調べたのか?」

「ああ。確かに、あれは女だったよ」

急に、しまりのない顔になった。

「そうじゃない! 銃とかナイフとか……そういうのは持ってなかったかと聞いている!」

小声でノエは怒鳴りつけた。


 この男は、秘密警察の協力者だった。本職は、掏摸すりである。寸時に、人の体を探ることに長けていた。


 掏摸は、肩を竦めた。

「何も。寸鉄も帯びず、ってやつだ」

「ふむ。彼女がお前に抱きつかれてるのを見て、飛び出してくる仲間もいなかったしな」

「それにあの女は、別に、鍛えられてる風でもなかったぜ? 普通の女だった」

むしろ嬉しそうに、掏摸は付け足した。



 ……武器は持っていない。

 ……近くに、仲間もいない。

 掏摸と別れ、ノエは考えた。


 その上、本名で、オーストリアに入国していた。「エリザ・ナポレオーネ・カメラータ伯爵夫人」というのは、彼女の本名だ。


 ベネチアから報告が来ていたので、ウィーンの係官は、入念に、旅券をチェックした。

 どこにも疑わしい所はなかった。

 旅券は、完璧だった。

 エリザ自身の態度も堂々としていて、少しも、疑わしいところがなかった。


 ……もう少し、泳がせてみるか。

 ノエは思った。

 ただ、彼女の狙いが、ライヒシュタット公だとすると……。


 ……アシュラ。

 ノエの部下は、ライヒシュタット公に、えらく心酔していた。

 その部下に、ノエは、ライヒシュタット公の身の回りの警護は任せろと請け合ったのだ。


 アシュラは今、オーストリアの外へ出している。

 メッテルニヒ宰相の動きが、あまりに露骨だったから。

 身分の低い、一介の市民アシュラの身の上に、宰相は、興味を持ちすぎた。住居の地図まで寄越せとは、明らかに、やりすぎだ。


 アシュラ自身の身の安全のために、ノエは、彼を、ウィーンから遠くへ旅立たせた。

 しかし……。


 フランスへ入るという報告が来たのが、7月の初め。

 そこへ、革命が起きた。アシュラの消息は、途絶えたままだ。

 アシュラはどうしているのだろう。


 このエリザという女が、何を企んでいるのか、わからない。

 もし、彼女がライヒシュタット公の味方だとすると……従姉だから、それは充分、あり得た……うかつに、メッテルニヒに報告するわけにはいかない。


 ライヒシュタット公の敵は、外国人だけではない。国内にもいる。その場合は、ひょっとすると、ナポレオンの姪は、彼の味方になるのかもしれない。

 

 ノエは、ライヒシュタット公を守ると、アシュラに約束した。それは、彼の不利になるようなことはしない、ということも含まれる。

 約束は、約束だ。







 1830年11月11日の晩。

 フランソワは、家庭教師のオベナウスの家を訪ねた。


 アプローチの敷石を踏んで、階段に差し掛かった時だった。背後で、物音がした。

 暗がりから、誰かが出てきた。ゆったりとしたタータンチェックのマントをまとっている。


 その人物は、階段のすぐ下の段まで来ていた。振り向いた彼の手を、いきなり、ぎゅっと握りしめた。


 フランソワの心臓が、跳ね上がった。

 しかし、なぜか、いやな気持はしなかった。

 相手の全身から、彼への、親愛の情のようなものが溢れ出ているように感じられたのだ。


 彼の手を鷲掴みにし、その人物は、自分の口元へ持っていった。

 湿った唇が、押し当てられた。


 その時だった。

 辺りが、ぱっと明るくなった。上の、玄関ドアが開けられたのだ。


「何をなさっているのです!」

階上から声が降って来た。フランソワの教師、オベナウスの声だ。


 明るいところから出てきたオベナウスには、すぐには、状況が飲み込めなかったようだ。


 フランソワの手に押し当てられていた唇が、離れた。相手は、階上のオベナウスを睨みつけた。

「無礼者! 我が君の手にキスすることを、妨げるとは!」

 明らかに、女性の声だった。


 フランソワは、動転した。

 彼は、相手に向かい、軽く頭を下げた。

 そして、オベナウスめがけて、一気に、階段を駆け上った。


 生徒が中に入るやいなや、オベナウスは、玄関のドアを固く鎖した。

 外階段の下には、エリザ一人が取り残された。



**



 「背が高くて、思った通りハンサムだったわ」

戸外に残された残された人影……エリザは、ひとり言をつぶやいた。


 おもむろにサンダルを脱ぎ、振った。中から、小石が出てきた。足音を立てぬよう、敷石の外側をそっと歩いたので、サンダルの中に、石が入ってしまったのだ。


「でも、なんて、悲しそうなお顔……それに、なんだかとても、不幸せそう」



 彼女の背後で、秘密警察官ノエが、一部始終を見ていた。

 ライヒシュタット公が、悲しそうで、不幸せそうなのは、その通りだと思った。







 オベナウスの住居では、生徒と教師が、向かい合っていた。



「……」

「……」


 フランソワは、呆然としていた。

 ……あれは、女性だった。


 ダンスや儀礼の他に、女性から手を握られ、キスされたのは、初めての経験だった。

 別に、怖い思いをしたわけではない。相手が発散させていた親愛の情は、彼の不安を、かき消してくれた。

 だが。


 ……まさか、女性だったなんて……。



「……」

「……」


 オベナウスは、困惑していた。


 よくは見えなかったが、あれは、確かに女だった。

 すると自分は、生徒の濡れ場を目撃してしまったのか!?


 13歳の時からの教え子も、今ではもう、19歳だ。ましてや、プリンスである。女の一人や二人いても、おかしくない。


 ……邪魔しちゃったか。


 いや、あんなところで、手を握り合っているのが悪い。恨まないでもらいたい。


 ……謝ったほうがいいかな。


 他の二人の教師と違い、後から家庭教師となったオベナウスには、生徒に対する、気後れがあった。

 しかし、何と言って謝る? 却ってプリンスに、気まずい思いをさせるだけではないか?


 この件は、なかったことにした方が、お互いの為……。


 「テキストの52ページを開きなさい」

オベナウスは言った。


 生徒は、無言で教科書を開いた。

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