メッテルニヒとの最後の対決 3
「ベッドへ行かれますか、プリンス」
眠っている肩へ、メッテルニヒはそっと、手をおいた。
彼の肩は、ひどく痩せて、骨ばっていた。
「いいえ」
はっきりとした声が返ってきた。
プリンスが目を開けた。椅子に座り直す。それだけの動作が、ひどく大変そうだった。
しかし彼は、威儀を崩さなかった。
「ご無理をなさらずとも。誰か呼びましょう」
「せっかくの宰相のお越しですから。僕はあなたと、もう少し、話をしたい」
何を話したいというのだと、メッテルニヒは、空恐ろしく感じた。
相変わらずかすれた声で、しかし、穏やかに、優しくさえある口調で、彼は尋ねた。
「前に僕がお話しした夢の話を、覚えておられますか?」
「夢?」
「魔女の夢です」
「ああ……」
魔女からの口づけのせいで、プリンスは死ぬことになった。
魔女はそれを、彼女の父からの命令だと言った……。(※1)
「あの時は言いませんでしたが、夢には、続きがあるのです」
「続き?」
「ええ」
おもむろに、彼は続けた。
「魔女は、先に行って、僕を待っていると、言ってくれたのです。……天国で」
「!」
メッテルニヒは、息を呑んだ。
魔女とは、間違いなく、彼の娘、死んだクレメンティンのことだ。
彼女は、
……そうか。クレメンティンは、天国へ行けたのか。
「ですが、僕は、罪深い人間です。道徳というものを、完全に失ってしまった。僕は、正統、かつ、この世で最も善良で慈悲深い人の、死を願っています」
……フェルディナンド大公だ!
メッテルニヒの傀儡になるはずの、
「ですから僕は、天国には、行けそうにありません。キリスト教の天国には、特に」
……この青年は、イタリア統一を目指している。間違いない!
教皇領の接収と、そして、ヨーロッパの再編……。それらは、確かに破門を意味する。
それなのに、死が、間近に迫ったこの時でさえ、彼は、諦めていない。
病を、全力で跳ね除けようとしてる。
メッテルニヒがナポレオンの息子に嵌めた、轡を。
……本来なら、彼は、とっくに死んでいてもおかしくない。
それほど、病は篤いと、
ナポレオンの息子の体は、
鋼の意思に応え、ここまでもちこたえている。
だから今、こんなにも病は重く、普通以上の苦しみに、喘いでいる。
死をも制そうとする、意思の力に、メッテルニヒは、殆ど怯えた。
やっとのことで、彼は口を開いた。
「皇帝は、あなたがキリスト教徒として、死を迎えられることを望んでおられます」
「お祖父様……」
プリンスの顔に、初めて、苦悩の色が宿った。
痛々しく窶れた顔を上げ、プリンスは、メッテルニヒをまともに見据えた。
「宰相。あなたが、お祖父様の忠実な臣下であったことを、僕はあなたに感謝します」
「……」
思いがけない言葉に、メッテルニヒは呆然とした。
思わず、彼はつぶやいた。
「それは、私を許すということですか?」
「はい。僕は貴方を許します」
「……」
どう答えていいのかわからなかった。
憎いナポレオンの息子。
世界を戦乱の渦に叩き込んだ……。
放っておけば、いずれ、世界は再び、この青年にめちゃくちゃにされる。
だから自分は……。
……これほどの苦痛を、彼に。
……結核を彼にうつし、轡を嵌めた。
……希望の実戦にも参加させなかった。お飾り将校として、ウィーン宮廷から、一歩も外に出さなかった。
……彼が、自分達の手の届かない所へ行かないように。とんでもない所へ飛んでいって、世界を破滅に陥れないように。
依然として、プリンスは、メッテルニヒを見つめている。
その瞳は、驚くほど鮮やかな、青い色をしていた。
「それが、クレメンティンの願いだったからです。別れ際に、彼女は言いました。『お父様を、許してやってほしい』、と」
……あなた。
死んだ妻、エレオノーレの声が聞こえた気がした。
……お父様。
そして、16歳で死んだ、クレメンティンの声。
メッテルニヒの、全身が震えた。
*
病室から、宰相が出てきた。
ふらふらと、まるで酒に酔っているように見える。彼は、真っ青な顔をしていた。
「ワーグナー司祭は、プリンスの元へ、通ってこられているのか?」
控室にいたモルに、宰相は尋ねた。
「殿下に、信仰上の危険はありません」
モルは答えた。
そうとしか、答えられなかった。
だって、プリンスは、司祭を受け入れようとしない。
つい4日ほど前も、訪れたワーグナーに会おうともせず、冷たく追い返した。
乾いた唇を、メッテルニヒは舐めた。
「臨終の際には、必ず、司祭を呼ぶように。終油の秘跡(※2)を受けさせるのだ。彼に、破戒の道を歩ませてはならない。彼は、ハプスブルクのプリンスとして、死なねばならぬ」
切羽詰まった声だった。
わずかによろめきながら、宰相は、去っていった。
*
モルが寝室を覗くと、プリンスは起きていた。
「宰相とのお話は、どうでしたか?」
「ああ。彼は、とてもフレンドリーだったよ。僕のナポリ行きにも、共感を持ってくれた」
……フレンドリー?
モルの頭に疑問符が灯った。
……ありえない。
「なあ、モル。僕がナポリへ行くのを、いざとなったら、宰相が邪魔をするということが、あるだろうか」
「ありませんよ、そんなこと」
ためらいがちに尋ねるプリンスに、きっぱりとモルは否定した。
今のプリンスにとって、ナポリ行きは、唯一の希望だ。
実際に行けるかどうかは別として、その希望を打ち壊していいわけがない。
「だが、メッテルニヒは、いざとなったら、皇帝の禁止を持ち出してくるかもしれない」
プリンスは、慎重だった。今まで、何度も、期待を裏切られ続けているからだ。
少し考え、モルは答えた。
「皇帝は、外交を、メッテルニヒに一任しておられます。そのメッテルニヒが、一度許可した以上、皇帝が許可なされたも同じことです」
「……なるほど」
プリンスは、納得したようだった。
「じゃ、さっそく、ヴァーラインを呼び寄せなくちゃ」
「
……ヴァーライン。
フランス人の料理人だ。プリンスは、パルマの宮廷から、彼を取り戻すと言ってた。
プリンスは、腹痛を装って、懐かしいフランスの味が恋しいと、母のマリー・ルイーゼに訴えていた……。
……例の、陰謀ごっこだ。
思わず、モルの顔が綻んだ。
「
「もちろんさ。僕は今日、羊のように従順だった」
「それは、よろしゅうございました」
「マレシャルにも会おうと思う。彼にも、従順な態度を見せるつもりだよ。今日、メッテルニヒに見せたように」
「……マレシャルは、冷たく、計算高い男です。そのような手段で、懐柔できるとは思えません」
……あんなやつ、大っ嫌いだ。
平然とプリンスの死を口にしたマレシャルを、モルは、許すことができなかった。
「大丈夫さ。任せておいて」
プリンスは、自信ありげだった。
プリンスが、機転の効く会話をするのは、モルに対してだけだ。
他の付き人たちではダメだ。プリンスの投げた球を、受け止めきれない。
生死の堺にあってさえ、機智を失わないプリンスを、モルは、賞讃の目で眺めた。
「殿下」
ためらい、モルは続けた。
「マレシャルだけでなく……、ワーグナー司祭とも、仲良くなさいませ」
「なぜ?」
プリンスが目をむいた。
「だって、お前は、」
「確かに、以前私は、司祭の訪問は必要ないと申しました」
やや強く、モルは、プリンスの言葉を遮った。
秘跡の儀の後も、うるさく訪れるワーグナーに、モル自身も、不信感を抱いていた。
プリンスは、死に怯えているわけではない。
だが、間もなく死ぬというのに、ことさらに死を自覚させてどうしろというのだ!
とはいえ、このまま、ワーグナーの不興を買い続けるのは、さすがによろしくないかもしれない。
ワーグナーは長年、彼に宗教教育を施してきた。年長の師として、このような侮辱を受けるとは、まさか思っていなかったろう。
このままいったら、ワーグナー師は、プリンスの死への立ち会いを、拒否するかもしれない。
モルは続けた。
「私は今、前に言ったことを、後悔しています。ご病気の時、人の訪問は、確かにうるさいものです。しかし、ワーグナー師ほど影響力のある方を、蔑ろにするのは、賢明ではありません」
帰りがけに、
「ワーグナー師を追い返したりして、今ここで、宰相の不興を買うのはまずいです。全ては、イタリア行きの為です。辛抱なさいませ」
プリンスは、微妙な表情を浮かべた。悔しそうな、それでいて、どこか恥ずかしそうな、ぎくしゃくとした表情だ。
「司祭が来たら、すぐに連れてきてくれ」
とうとう、彼は言った。
大急ぎで付け加える。
「ただし、モル、お前にも同席してほしい」
・‥…━…‥・‥…━…‥
※1 魔女の夢
7章「赤いラッパと魔女」、ご参照ください
※2 終油の秘跡
ローマ・カトリック教会の七つの秘蹟の一つです。臨終時の病人に平安と恵みを受けさせる為に、体に香油を塗る儀式です。
ずっと昔は、頭に塗っていたらしいです。「ハプスブルク展」に、終油の儀式の宗教画があったのですが、座って頭を垂れた人の頭に、上から、器の油を注ぐようにしていたので、驚きました。死にかけてる時は、さすがにちょっと、辛いかも。
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