哄笑
……ちっ。
……まずい時に、まずいお方が。
スタンは、舌打ちした。
大司教は、ゾフィー大公妃の産んだ息子に、洗礼を施す為にシェーンブルン城を訪れていた。儀式を済ませ、ライヒシュタット公の元へ立ち寄ったのだ。
折悪しく、スタンの同僚・モルは、非番だった。
彼は、”seccatore”(迷惑なやつら―プリンスがワーグナー宮廷司祭をディスる言葉)に対する、なんらかの取り決めを、プリンスと結んだようだった。モルなら、
プリンスは、ベランダから、庭へ下りていた。
大司教が見えるというので、きちんと着替え、椅子に座っている。
この着替えが、どれだけ大変だったか、大司教にはわかっているのだろうか、と、スタンは思った。
着替えている途中で、プリンスは、何度も眠りに落ちた。殆ど、気絶しているようだった。
椅子に座るのだって、もう、かなり苦痛な筈だ。頭が、とても重そうだ。
足音を忍ばせ、スタンは、その場を立ち去ろうとした。
3人の付き人のうち、スタンだけが、爵位がない。軍の階級は、モルと同じ大尉だが、スタンは、庶民だ。
伯爵である
しかし、坊さんの親玉と、皇族との会談に同席するのは、さすがに気が引けた。せっかくの、偉い司祭のお越しだ。神さまの話は、二人きりでした方がよかろうと判断した。
ところが、プリンスが、僅かに首を横に振って、スタンを引き止めた。ここにいろと、青い目が命じている。
仕方なく、スタンは、その場に留まった。
……まさかこのお偉い坊さん、臨終に関する説教なんかを、おっ始める気じゃなかろうな。
スタンは危惧した。
今ここで、プリンスに、死のことなど、思い出させたくない。
「私は、4年前に、プリンス、貴方とお会いしました。覚えていますか?」
穏やかに、大司祭は話しかけた。
覚えていると、プリンスは、肯った。
大司祭は、当然、という顔をしている。
「思えば、あの頃から、あなたは、ご病気でした。当時の医師は、あなたに、冷水浴を勧めていましたな。早すぎる成長に対して、体力をつけるように」
大司教は首を傾げた。
「それが、肺病には、悪かったのではないでしょうか。あの時私は、確かに、あなたに、医師の言いなりになってはいけないと、申し述べたはずです」
知ったかぶってると、スタンは思った。
実際は、当時の医師、シュタウデンハイムは、肺病の可能性を疑っていたという。スタンはその話を、元家庭教師のディートリヒシュタインから、耳にタコができるほど、聞かされていた。
前の侍医の水浴療法は、一定の成果を上げたということだった。
……「ああ! シュタウデンハイム先生が、お元気でいらしたら!」
……「彼なら、初めから、結核の治療をしたに違いない! そしたらプリンスは、今も、元気でいらしたろうに!」
ディートリヒシュタインは、際限もなく、嘆き続けている。
「誤診」を続けたのは、次の侍医、マルファッティだと、彼は主張している。
ディートリヒシュタインと、今の侍医、マルファッティは、非情に仲が悪い。
まるで、犬と猿のケンカのようだ。
面白いから、スタンは、わざと二人を鉢合わせさせて、プリンスを楽しませようとした。
だが、この頃は、そんなささやかな余興さえ、プリンスの病状に障る。
「肺は悪くありません。今の先生方が、間違った診療をしておられるだけです」
鋭く、プリンスが抗議した。
この頃の彼には珍しく、なおも彼は続けた。
「僕の病は、父と同じく、肝臓の病です。今すぐにでも、ウィーンを出れば、」
その時、咳の発作が、彼を襲った。
……ああ、まずいな。
スタンは思った。
大司祭が、憐れみのこもった眼差しで、プリンスを見たのだ。
人から憐れまれることを、プリンスは、何より嫌う。もっとも、好きな人もいなかろうと、スタンは思う。それにしても、彼の誇りの高さは、人一倍だった。
大司教は、咳き込むプリンスの手を取った。
「あなたは今、耐える気持ちを失っているのです。冷静におなりなさい。辛抱強くなるのです。医学の力は、きっと病状を鎮めてくれるはずです」
「辛抱強く」という言葉を耳にした途端、プリンスが、嘲った。
「辛抱強くなるんですか。この僕が?」
……無理もない。
スタンは思った。
彼は今まで、実に辛抱強く、病気の苦痛に耐えてきた。
自分たち付き人に、なにひとつ、苦しみを打ち明けなかった……。
司祭にはわからないかもしれない。
今、プリンスの苦痛は、想像を絶するほど大きくなっているはずだ。
かすれた声が言い募る。
「辛抱強くなれと。今この時に? それは難しい。難しすぎる!」
静かに、彼は、笑い始めた。
「似ている」
思わず、といった風に、大司教がつぶやいた。
「有名な父親に……。まるで、ナポレオンが乗り移ったようだ」
小さな声だった。その上、司祭は、プリンスの左側にいた。彼の左の耳は、殆ど聞こえていない。
だが、傍らに控えるスタンには、はっきりと聞こえた。
掠れた笑い声は、なりやまない。プリンスは、笑い続けている。
「ナポレオン……ピウス7世から破門された、破戒王……」
立派な法衣に包まれた体を、大司教は強張らせた。
再び、咳の発作が、笑い続けているプリンスを襲った。笑いながら、プリンスは、激しく咳き込んだ。口元を抑えた白いハンカチーフが、みるみる赤く染まっていく。
慌てて、スタンは、上官の元へ駆け寄った。
大司教が立ち上がった。そっと、その場を離れていく。
その姿は、まるで、何かに怯えているように、スタンの目には映った。
何か……恐らく、悪魔に遭遇したら、人はあんなふうに、逃げていくのではないか。
後をも見ずに。
戦々恐々と。
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