愛を感じたことがない
ある夜のこと。
モルの朗読の合間に、フランソワはつぶやいた。
「僕の心は、空っぽだ。僕は、人に対して、愛を感じたことがない。異性に対しても……、」
ちらりとモルを見た。
「自分の付き人に対しても、だ」
フランソワは、メッテルニヒから、ハルトマンら、軍の付き人達が、離職したがっていることを、聞いていた。
彼は、彼らが、自分から離れていくことを恐れた。
その反面、仕方のないことだと諦めてもいた。だって、みんな、自分から離れていってしまうから。
ママ・キューも。
フランスの付き人たちも。
プロケシュも、モーリツもグスタフも。
ディートリヒシュタインでさえ、家庭教師の職を辞した。
全ては、いずれ、奪われる。
執着したら、負けなのだ。
眠れなくて、真っ暗な闇に、一人、目を明けて、近づく死を見つめていなければならない時でさえ、フランソワは、付き人たちを下がらせる。
そばにいてくれと、言えない。
その彼に、3人の付き人に対し、自分の元を去らないでくれ、などと、言えるわけがなかった。離れていこうとする者は、こちらから切った方が、傷は浅くてすむ。
特に、病に気力を奪われつつある今は。
だが、……。
……付き人に対して、愛を感じない。
プリンスの言葉は、思いもかけない破壊力で、モルを襲った。
思わず、彼は言い返した。
「それはあなたの、人を信じない、冷たく閉じた性格のせいです」
……いけない。俺は、なんてことを。
モルは思った。
それなのに、止められなかった。
彼は、疲れていたのだ。
病人を看病する疲れに加え、失業する付き人たちへの手当ての確保、パルマの執政官との攻防、
それらが全て、モルの肩に重くのしかかっていた。
だから、自分の本音に蓋をすることができない……。
「あなたは常に身近な人を、裏切り者、不誠実だと見ますが、あなたが人をそう思うことで、人も貴方を、そう見てしまうのですよ」
それは、常々、モルが感じていたことだった。
プリンスは、決して、自分の気持ちを人に晒さなかった。モルには、彼の本音がわからない。彼の心は、いつも、雲の上にあるように、遠くに揺らいで見えるだけだ。
……プリンスは、ご自分が具合が悪いことも、喀血したことさえ、自分たちに隠し続けた。
モルには、それが一番、辛いことだった。
……主治医が、症状をきちんと把握し、適切な治療を施していれば、ここまで悪くなることはなかったはずだ。
彼は、知らなかった。
マルファッティ医師が、故意に結核という病名を隠し続けたことを。
震える声で、モルは続けた。
「私に関して言えば、私は、常にあなたに、心を開いて、友情に満ちた気持ちで接してきました。そのことは、おわかりだったはずです」
……しかし、彼はただ、自分を利用しただけだ。
自分より、プロケシュやモーリツ・エステルハージ、グスタフ・ナイペルクに、信を置いた。
そして、彼らは、自分を愚弄した。
アルマッシィのベッドで目覚めた朝を、モルは忘れることができない。
「私は、何度も、この仕事から、身を引きたい思いました。しかし、大抵の場合、あなたへの誤った信頼から、それは友に対して、してはいけないことだと、自分を諌めてきたのです」
「では、お前は、僕の友人ではなかったのか?」
それまで黙って聞いていたプリンスが尋ねた。
モルは、大きく息を吸った。
「友情とは、相互的なものです。貴方は私に、同じものを与えて下さいましたか?」
答えはなかった。
モルは、絶望した。
「私はあなたに、心からの愛情(Zuneigung)を感じてきました。私はあなたの知性を尊敬しています。しかしあなたは、私の気持ちなんか、これっぽっちも、わかっちゃいないんだ。常日頃から、あなたは、人生に、全く幸福を感じていないと言っていますね?」
……「生まれたことと、死ぬこと。これだけが、僕の人生だった」
……「ゆりかごと墓場は、近くにある。その間には、巨大な無があるだけだ」
「全て、あなたのせいです。外の世界を、不信の目で、冷たく利己的に見つめている限り、あなたは、決して、幸せにはなれないでしょう」
……もっと、自分たちを信じて欲しい。
……この私を!
……もっと自分たちに、心を開いて欲しい。
……この私に!
「それは、本当のことだ。僕は、いつも不幸だった。今までの人生で、僕は、ほんの少しも、満足したことがなかった」
かすれた声が、言葉を紡いだ。
……「いつも不幸だった」。
……「満足したことがなかった」。
モルの胸が震えた。
……これほどの境遇と、才能に恵まれながら。
「僕は、どう感じたらいいのだろう」
尋ねる声は、幼子のように寄る辺なかった。
……お前は、
……スタンは、ハルトマンは。
……どうしたら、僕の
何かに操られるように、モルは答えた。
「心を開いて、率直に。誠実で思いやりを持って」
……みんなに。
……この、私に!
「だって、あなたは、そんなにも素晴らしい……、あなたは、人から愛される要素に満ち満ちています。感情の放出を、防ごうとなさらないで。世の中の人には、あなたを信じない理由なんて、これっぽちも、存在しないんですから」
それは、今までフランソワが、皇帝や家庭教師らから、言われてきたことと、真逆のことだった。
そしてモルは、彼が、常に身辺や、思想信条を探られて育ってきたことを知らなかった。
モルにはもう、歯止めが効かなくなっていた。
「あなたと一緒にいられるのは、いつだって、私の名誉です。あなたが輝くのを見ると、私は、喜びとやりがいを感じたものです。それなのに、あなたは、自分は不幸だとおっしゃる。なんて悲しい……不幸な……」
それは、……モル自身は、自覚していなかったけれども……もちろんプリンスも……、壮大な愛の告白だった。無骨な軍人が、心に蓋をして、今まで、己にさえ隠してきた、愛情の吐露だった。
……だって、報われるはずがない。
身分。階級。そして、彼の想い人の前には、死が控えている。断固として。冷然と。
プリンスは、じっとモルを見つめた。この頃、とみに青みを増した瞳の色に溺れそうだと、モルは思った。
「お前は、僕のことをよく知っているな」
とだけ、プリンスは言った。
*
……俺は、彼の為を思って言ったんだ。
例によって、”Guten Abend” の一言で下がるよう命じられ、モルは思った。
彼は、宮殿の長い廊下を歩いていた。このまま、控室に戻っても、仮眠など取れそうにない。
……彼の閉鎖的な性格について、俺たちは、外部の人間には口を閉ざしてきた。
だが、やがて、人々は、彼の本当の性格を知るようになるだろう。
近づいてくる人を、決して信用しない。優美な笑みの下に、己を隠し続ける。
その、冷たく、閉じた性格。
……それは、決して、彼の為にならない。
彼は、自分の地位や評判、将来を忘れてはならないのだ。
プリンスに将来などないということを、この時、モルは忘れた。彼は、自己弁護に夢中だった。
それまでモルは、いつだって、冷静に、彼の症状を見極めてきたはずだった。
けれども今、彼は、完全に動転していた。
……俺は、大変な告白を、上官に対して、してしまった気がする……。
……だが、プリンスは、熱心に、注意深く俺の話に耳を傾けていた。
これは、具合の悪い彼には、滅多にないことだった。
……まるで、心を奪われたようだった……。
希望を持ってはいけない、と、モルは、自分を諌めた。
彼が、(奇跡的に)病を克服したら、彼はきっと、元の彼に戻ってしまうだろう。再び、モルのことなど顧みなくなるに違いない!
大股で歩き続けるモルの視界の端に、何か動くものが映った。
鼠だ。向こうから、鼠が駆けてくる。
その鼠の、尻尾の先が曲がっているのを、モルは見て取った。
前に見た鼠だと、すぐに気がついた。あろうことか、黒猫を追いかけていた鼠だ。
今、鼠は、ためらうことなく、まっしぐらにモルめがけて突っ込んでくる。
避ける暇はなかった。鼠は、あっという間にモルの足元まで到達した。いきなり、彼のブーツにかじりつく。
「何をする! こらっ! こらっ!」
足踏みをする靴先から、すばしこく駆け上がっていく。ズボン越しに、小さな爪の、硬い感触が伝わってきた。
太もも当たりまで登った鼠は、上着に飛びついた。脇から、するするとよじ登っていく。
肩まで上り詰め、そして……、
……。
「うわーーーーーーーっ!!!」
少し先を歩いていた侍従は、叫び声に振り返った。
軍人が、手足を振り回し、奇妙な踊りを踊っている。
「どうしました?」
侍従は、慌てて駆け戻った。
「鼠だ! 鼠に噛まれた!」
「なんですって? それはいけません」
変な黴菌でも回ったら、大変だ。
「耳だ! 肩から耳に飛び移りやがった!」
……そんなことがあるのか?
……鼠が、立っている人の耳に噛み付くなんて。
「俺の耳を見ろ! 鼠がぶら下がってるだろ!」
「いいえ……」
耳を見る前に、彼は気がついた。
これは、先日、鼠が猫を襲ったなどと、妙なことを口走っていた軍人だ。
「よく見ろ!」
軍人は強情だった。
訝しく思いながら、あんまりしつこいので、その耳のあたりを覗いてみた。
「鼠なんていませんが」
「今、お前が来たから、飛び降りやがった。だが、耳たぶに、噛み跡があるだろう?」
「ありませんよ、そんなもの」
「ちゃんと見ろったら!」
「見てます。ありません」
「嘘を吐くな!」
「嘘ではありません。ご自分で触ってみるがいい」
軍人は、自分の耳を抑えた。
「あれ?」
「痛くないでしょう? だって、なんともなっていませんもの」
きょとんとした顔を、軍人はした。
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