ポーラングライン/プリンスを頼む
シェーンブルンの庭園には、ポーラングラインという、小さなフランス風の庭があった。
そこには、モミの木に囲まれた、別荘風の建物があった。高い天井には、羽を広げた天使の絵が描かれている。
マルファッティが見つけてきて、フランソワに勧めた。
「ひと目に触れない、気持ちのいい庭です。気晴らしにはなると思いますよ」
……宰相はいい。最後の秘跡の後、
……だが、この俺は、彼が死ぬまで、「治療」を続けなければならないのだ! もはや、打つ手は皆無だというのに。
外気を多く取り込むことは、結核の治療法のひとつだった。
根拠のない、民間療法に過ぎないのだが。
……プリンスは、外へ出るのがお好きだ。
シェーンブルン宮殿に移ってからも、馬車で外出を続けていた。
今も、体調が許す限り、毎日のように、バルコニーに出ているという。
せめてもの、罪滅ぼしのつもりだった。
果たして、フランソワは、ひどく喜んだ。
しかし、問題があった。
どうやって、彼をそこへ連れて行くか。
もはや、彼は一人では歩くことはできない。椅子駕籠だ。椅子に座らせたまま、運ぶしかない。
(※椅子駕籠。セダン・チェアーとも。椅子を納めたボックスを、二人がかりで運ぶ)
この移動法を、フランソワは、ひどく嫌がった。自分が病弱に見え、屈辱的だというのだ。
「ほら、昔、いたじゃないですか」
マルファッティは説得に出た。
「
とうとう、彼は、椅子で運ばれることを了承した。それほど、外へ出たかったのだ。
だが、ポーラングラインの庭には、先客がいた。
マリー・ルイーゼ、そして、レオポルド大公夫妻とその娘が、お付きの者たちを引き連れて、待機していたのだ。
「やあ、フランツ! 元気かね? ナポリには、いつ行くんだ?」
レオポルド大公が早速話しかける。
同じシェーンブルンにある庭に来るだけで、一苦労だったのだ。だが、レオポルド大公に、悪気はなかった。
「フランツ。私達は、いつだってあなたのそばにいるわ……」
それでもフランソワは、笑顔を形作ってみせた。
「……」
二人の娘、10歳になったばかりの
少し遅れて、
「まあ、あなたがライヒシュタット公ね!」
バイエルンの女王は叫んだ。
「あなたのことは、娘のゾフィーから、さんざん、聞かされているわ! あの娘は、あなたのことが大好きでね……」
言いながら、強引に、フランソワの横に割り込む。
戸惑った顔をして、F・カールが、義母の隣に並んだ。
プリンスは、身近な人にしかわからないほど微かに、顔を顰めていた。
「ご覧、フランツ。みんな、あなたの為に集まってくれたのよ!」
マリー・ルイーゼは、嬉しそうだった。
……これは、集まりすぎだ。
さすがに
「医学的見地からみて、ですな、プリンスは……」
「まあまあ、先生。先生もどうぞ、こちらへ。娘のお産の時の様子を、話して下さいな」
マルファッティが言いかけたのを、バイエルンの女王が、陽気に遮った。二人目の孫が無事生まれ、彼女は、上機嫌だった。どうやら、娘の主席医師でもあるマルファッティから、詳しいお産の話を聞きたいようだ。
F・カールが、心配そうに、妻の母と甥とを、見比べている。
マルファッティは、プリンスを避難させることに失敗した。
部屋に帰ると、プリンスは、熱を出した。少しだけ眠ったが、熱のせいで、すぐに目を覚ました。
付き添っていたモルは、プリンスの脚が、むくんでいるのに、この時、初めて気がついた。
なんだかとても、いやな気がした。
そこへ、マルファッティ、ディートリヒシュタイン、そして、マリー・ルイーゼがやってきた。マリー・ルイーゼには、執政官のマレシャルが付き従っている。
ディートリヒシュタインは、何か用があって来たらしい。だが、マルファッティを見ると、態度を豹変させた。舌鋒を極めて、侍医を非難する。
「プリンスがここまでひどくなったのは、マルファッティ先生、あなたのせいですぞ」
マルファッティも負けてはいなかった。
「私は、医師として、できる限りの治療を施してきました。患者が重症化したのは、プリンスが、あちこち出歩いたせいです」
「なんと、患者に罪をなすりつけるのか!?」
ディートリヒシュタインは激高した。
「あなたは、外出禁止を命じるべきだったのだ。それを、あやふやな態度を取り続けたから……。この、意気地無しめが」
「なんですと! 意気地無しとは、聞き捨てならぬ!」
ひそかに、モルはため息をついた。
こうならないように、今まで、二人が、プリンスの部屋で鉢合わせることがないよう、気を配ってきたのに。
まさか、プリンスの母親が、二人を一緒に連れて来るなんて!
そのマリー・ルイーゼも、舌戦に参加していた。
「どうして皆様方は、パルマへ、息子の本当の病状を教えて下さいませんでしたの?」
「これは異なことを。私はさんざん、手紙に書いて送りましたぞ!」
「あなたではありません、ディートリヒシュタイン先生。マルファッティ先生と、ハルトマン将軍ですわ!」
突然出てきた上官の名に、思わずモルは、首を竦めた。
将軍はただ、医師の言うことを信じただけだ。単純な彼は、自分の都合のいい説しか、信用しない。
ハルトマンは未だに、プリンスは治ると信じている……。
ようやくのことで、一同が引き上げていったのは、夜の9時過ぎのことだった。
深い溜め息を、プリンスはついた。
一人、残ったモルに向かってつぶやく。
「やれやれ。世界に僕とお前と、二人きりだったら、どんなにかよかったのに」
もっと違う状況で言って欲しかったと、モルは思った。
プリンスは、モルにも退出するよう、命じた。
その頬は赤く、熱が依然として高いことを物語っていた。
*
翌日。再び、ディートリヒシュタインが訪ねてきた。
「明日から、しばらく留守をします」
短い滞在の後、去り際に、彼は言った。
「ミュンヘンへ行かねばなりません。娘がお産をするのです。覚えていますか? あなたが、花婿の付添人をしてくれた、ユーリアです」
プリンスの顔に、理解の色が浮かんだ。
ディートリヒシュタインは、力を得たようだった。
「あのユーリアが、子を産むのです。私には初孫ですよ、プリンス」
ずっと暑い日が続いていた。
暑さは、確実に、プリンスの体力を奪っていた。
彼は、朦朧としているようだった。
「娘の出産が終わったら、すぐに戻ってきます。ほんの少しのお別れです。すぐ帰ってきますから。それまで……、」
ディートリヒシュタインは、言葉を切った。
ハンカチで口を抑える。
しばらくそのままでいた。
やがて、ハンカチを口元から取り除けた彼は、いつもの皮肉な笑みを浮かべていた。
「それじゃ、プリンス。ごきげんよう」
*
「後のことは、よろしく頼む、モル男爵」
見送りに出たモルに、しつこいくらい、ディートリヒシュタインは、念を押す。
「プリンスのご容態は、手紙でお知らせします」
モルは約束した。
「頼んだぞ、モル。君は本当に、彼によくしてくれて……」
年老いた伯爵の目に、みるみる涙が溜まっていった。赤くなった鼻を、彼はすすり上げた。
「私だって、本当は、行きたくはないのだ。けれど、ここに残って、何ができる? プリンスは、日増しに、具合が悪くなっていく。私の訪れが、彼を疲れさせることだってあるのだろう?」
ディートリヒシュタインの問に、モルは答えなかった。
プリンスを疲れさせるのは、彼だけではない。実の母親の訪れでさえ、彼を、くたくたに疲弊させる。
自覚があるだけ、ディートリヒシュタインの方が、まだましだった。
ついに溢れ出た涙を、ディートリヒシュタインは、ぐいと拭った。
「本音を言うと、私は、見たくないのだ。彼の死に顔など……、死が、私のよく知っている、あのおかわいらしい、生き生きとしたプリンスの記憶を歪めてしまうことを、私は、心の底から恐れている!」
なるべく頻繁に手紙を書くと、モルは誓った。
「……臨終の様子も伝えてほしい」
消え入るような声で、ディートリヒシュタインが頼んだ。
「あの子の……死に様……を、どうか……」
「必ず、真実をお知らせします。私は、日誌をつけています。それに基づいて、本当のことだけを、お伝えします」
自分は、この人には、誠実であろうと、モルは思った。
プリンスを、心の底から愛し、その死を恐れ、悲しんでいるからだ。
*
「そうすると、やっぱり僕は、そんなにひどい病気じゃないんだな」
客の出ていった部屋に残っていた侍従は、そんなつぶやきに、顔を上げた。
古くからいる侍従だ。
「殿下……」
苦しげに眉を寄せ、目をつむったまま、プリンスが続けた。
「だって、もし僕が危険な状態にあると考えたなら、先生は絶対、ミュンヘンへ行ったりしない筈だ」
家庭教師だった頃から、ディートリヒシュタインは、ちょくちょく、留守をしていた。宮廷劇場の支配人も兼務していたので、出張が多かったのだ。ナポレオンが死んだのも、彼の留守中のことだった。それで、この悲しい知らせは、フォレスチ先生が伝えた。
……プリンスは、希望を捨ててはいない。再び、ディートリヒシュタイン伯爵に会えると、信じている。
侍従は、畏怖の念に打たれた。
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