友たちの悲痛
ナポリ。
仕事を放り出し、旅支度をしているモーリツ・エステルハージの元へ、父親から
「
よもやと思うが、こちらへ帰って来ようとはしておるまいな?
プリンスはもう、長くはない。だが、臨終の床に呼ばれるとしたら、それはお前ではない。プロケシュ少佐だ。
ウィーンへ帰ってきても無駄だ。お前は、プリンスに会わせては貰えない。メッテルニヒも、望んではいない。
」
末尾には、母の手で、走り書きが認められてあった。
「
彼はもう、いけないらしいの。ああ、神よ。どうか彼の魂の、安らかならんことを。
」
「モーリツ。出発するぞ」
ドアが開き、グスタフ・ナイペルクが、大股で入ってきた。
部屋に入ってすぐ、モーリツの旅行鞄に、躓いた。蓋を開いたまま、床の上に、放り出してある。グスタフは、顔を顰めた。
「何をしているんだ。早くしろ! 間に合わなかったら、許さないぞ!」
「僕は行かない」
ぽつんと、モーリツは答えた。
「なんだって?」
グスタフが胴間声で叫ぶ。
「僕は行かない。行けないんだ、グスタフ……」
モーリツは泣いていた。
肩を竦め、グスタフは、一人で、外へ出ていった。
*
「グスタフ!」
馬に乗った弟を、下の兄が呼び止める。
「どこへ行く気だ?」
「決まってる。シェーンブルンだ。殿下に会いに行く」
「グスタフ! この馬鹿が!」
馬の進路を塞ぎ、3つ年上の兄は、怒鳴りつけた。
「お前が行ってどうする? 何様のつもりだ、お前!」
「そこをどけ、兄貴! 俺は、プリンスに、心からの献身を誓った! 殿下は今、どれだけ、寂しく、心細い思いをしておられるか……。邪魔をすると、たとえ兄貴でも、容赦しないぞ」
鞍の上から馬を操り、兄を踏みつけようとする。
「よく考えろ」
危ういところで、兄は、馬の蹄をよけた。
語調を変え、諭すように続ける。
「俺達の義理の妹弟……恐れ多くも、
アルベルティーナとヴィルヘルムの妹弟は、グスタフら兄弟と、血がつながっている。
父親が、同じだからだ。
だが、妹弟の母は、グスタフらの母とは、全然違った。
彼らの母は、マリー・ルイーゼ……皇帝の娘……だ。皇族に列せられることはなかったが、妹弟は、皇帝の血を引いている。
さらに、兄は言い募った。
「それなのに、一介の軍人でしかないお前が、
「俺は、彼のそばで育った!」
父のナイペルクは、母と引き離されたプリンスの傍に、同じ年齢の息子、グスタフを侍らせた。
「俺は、絶対の忠誠と、許されるのなら、真実の友情を、彼に対して抱いている!」
「馬鹿野郎!
兄が怒声を上げた。
「血の通った兄上であられるにもかかわらず、お二人は、生涯で一度も、ライヒシュタット公に会わせてもらえないんだぞ!」
そうだ。
異腹の妹と弟は、プリンスと、血が繋がっている。
……にもかかわらず、彼らは、一度も、彼に会ったことがないのだ。一度も会わぬまま、彼は、死のうとしている……。
「馬から降りろ、グスタフ! 亡き父上の顔に、泥を塗る気か!」
馬が、ぴたりと止まった。
騎手が、馬から、転がり落ちた。
そのまま、泥だらけの地面に、倒れ伏した。
*
部屋に一人残されたモーリツは、頭を抱え、机の前でうなだれていた。
軍での活躍も昇進も、それどころか、ウィーンを出ることさえ許されなかったプリンス。
だが、彼の頭の中には、何か、素晴らしい計画があるようだった。
プリンスが何を考えていたのか、モーリツは知らない。彼の考えが固まる前に、モーリツは、ナポリへ飛ばされてしまった。
手紙のやり取りは危険だった。プリンスは、監視されている。
また、ためらいもあった。名門、エステルハージ家の長男として、モーリツは、失うものが、多すぎた。
やがて、プリンスが重病だという噂が、流れてきた。
すぐにウィーンへ帰ろうとした息子を、父は、きつく諌めた。
母も、父に同意した。彼女は噂を肯定し、彼の病状について、わかる限りのことを手紙に書くと、約束してくれた。
ナポレオンの息子に与することは、多くの危険を示唆した。
モーリツは、エステルハージ家を危険に晒すことはできないと思った。ハンガリーの、有力貴族として、エステルハージ家は、皇帝に、絶対的な服従を誓っている。
また、父と母のことも、心配だった。
だが、ここ、ナポリに来て、考えが変わった。
ナポリ。明るい太陽と、乾いた海風の街。ギリシアやローマを偲ばせる遺跡。
うすら寒く威圧的で、湿気の多いウィーンとは、全然、違う。
……エステルハージ家は、古くから続く家柄だ。そう簡単に潰れることはないだろう。
……父と母は、いずれ、わかってくれる。
モーリツは思った。
……しかし、プリンスは……。
彼は、たったひとりだ。
たったひとりで、戦っている。
……人生は、一度しかない。
エステルハージの名を背負って、生きていくか。
それとも、先の見えない冒険の中へ飛び込んでいくのか。
彼に、忠誠を誓った友として。
……俺の人生は、一度きりだ。
モーリツの心は、決まりかけていた。
プリンスが、シェーンブルン宮殿に移った、と、母が知らせてきたのは、そんな折のことだった。ウィーン郊外の離宮で、彼は、最後の日々を送っているという。
面会は限られた人にしか許されず、あの、マルモン元帥でさえ、追い払われたと、彼女は、書き添えていた。
……もはや、猶予はならない。
面会が叶わなくても、彼の近くにいようと、モーリツは思った。
もしかしたら、病床のプリンスから、呼ばれることだって、あるかもしれないではないか!
思い立ったら、一刻もじっとしていられなかった。荷造りを始めた彼の元へ、父からの至急便が舞い込んだ。
……確かに、面会を許されるとしたら、まずは、プロケシュ少佐だ。
……だって彼は、最初から、プリンスの心の裡にいた。
父は、息子のことを、よくわかっていた。
ゆるゆると、モーリツは、顔を上げた。
鉛のような重い腕を上げ、ペンを取った。
彼は、プロケシュ=オースティンに宛てて、長い手紙を認めた。
「
あなたはまもなく、彼に、再び会う機会を得るでしょう。……(略)……この世を去るにあたって、彼は、自分を異邦人のように感じているに違いありません。また、多くの人達に囲まれながら、彼は、自分を理解し、また、最後の望みを打ち明ける人を求めていることでしょう。彼の最後の思いを、どうか、受け取ってやって下さい! 僕は、あなたが羨ましい!
(中略)
しかし、どうして、彼を憐れまなければならないのでしょう。彼にとって死は、多分、祝福なのです。彼の地位は、幸せを、殆ど約束してくれない。彼がどうしても受容することのできない、未来の起きるべきことがらの中で、死は、彼にとって最も良いものであったように思われます。彼の名誉……非の打ち所のない……は、受け入れがたい多くの困難に晒されやすいものです。彼の義務は、多様であり、矛盾の塊で、互いに調和が取れないものです。
完全に満たされることのない名声は、彼を困らせ、平凡さは、彼にとって、罪でさえあります。しかし、僕達の喪失は、深い悲しみを呼び起こさずにはいられません。世界が彼を知る前に、明るい光は、消えてしまうでしょう。太陽が登る、まさにその時に。
友情を失うという個人的な喪失感について、今、ここに書くことは、差し控えます。僕の前途に置かれていたその友情こそが、僕の人生で、一番の喜びだったとしても。
あなたには、(もし、遅すぎるのではなかったら)彼に、僕の忠誠を思い起こさせて欲しいのです。いつだって僕は、彼に忠誠を捧げていました、そのことを、彼は知っているはずです。ああ、僕は、彼の最期の瞬間をかき乱すことさえ、できないのか! 今、彼は、いつも以上に、完璧な共感を欲していることしょう。でもその共感は、いつも、彼の目の前にあったのです。いつだって僕は、最大限の献身と友情を、彼に向けて、差し出していた……。
」
*
その頃、プロケシュ=オースティンは、ローマへ向かっていた。
……ナポレオンの親族を取り込むのだ。
イタリア統一の為に。
連合国のくびきを振り切り、フランスへ帰る日のために。
かつての帝王、ナポレオンの親族と、話をつけておく必要があった。
幸い、ボローニャへ来てから知り合った、教皇領の貴族の妻が、ナポレオンの姪(※ナポレオンの弟リュシアンの娘)だった。その伝手で、彼は、ナポレオンの母レティシアに会えることになった。
……。
◆───-- - - -
ここまでお読み下さって、ありがとうございます。
この後、とても辛く、悲しいお話が続きます。
ここまできて私は、敵前逃亡したい気持ちでいっぱいです。
これは、ウェブ小説です。日常の中で、読み手の方に寄り添うお話であるべきです。
辛く悲しいお話は、6回、続きます。この間のタイトルは、「雲隠れ 1~6」です。「雲隠れ 1~6」は、ウェブ小説としては、間違っています。多分。ですから、お読みになられなくても、構いません。
その場合は、「雲隠れ」終了後の、「シューベルトの子守歌 1」からお読みになって下さい。
ですが、敢えてお読み頂けるのなら、どうぞ、今まで通りお付き合い下さい。
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