友たちの悲痛


 ナポリ。

 仕事を放り出し、旅支度をしているモーリツ・エステルハージの元へ、父親から短信ラインが届いた。



よもやと思うが、こちらへ帰って来ようとはしておるまいな?

プリンスはもう、長くはない。だが、臨終の床に呼ばれるとしたら、それはお前ではない。プロケシュ少佐だ。

ウィーンへ帰ってきても無駄だ。お前は、プリンスに会わせては貰えない。メッテルニヒも、望んではいない。



末尾には、母の手で、走り書きが認められてあった。



彼はもう、いけないらしいの。ああ、神よ。どうか彼の魂の、安らかならんことを。マリー・ルイーゼ様お母さまが間に合われたことだけが、唯一の救いです。





 「モーリツ。出発するぞ」

 ドアが開き、グスタフ・ナイペルクが、大股で入ってきた。

 部屋に入ってすぐ、モーリツの旅行鞄に、躓いた。蓋を開いたまま、床の上に、放り出してある。グスタフは、顔を顰めた。

「何をしているんだ。早くしろ! 間に合わなかったら、許さないぞ!」


「僕は行かない」

ぽつんと、モーリツは答えた。

「なんだって?」

グスタフが胴間声で叫ぶ。

「僕は行かない。行けないんだ、グスタフ……」


 モーリツは泣いていた。

 肩を竦め、グスタフは、一人で、外へ出ていった。







 「グスタフ!」

馬に乗った弟を、下の兄が呼び止める。

「どこへ行く気だ?」

「決まってる。シェーンブルンだ。殿下に会いに行く」


「グスタフ! この馬鹿が!」

馬の進路を塞ぎ、3つ年上の兄は、怒鳴りつけた。

「お前が行ってどうする? 何様のつもりだ、お前!」


「そこをどけ、兄貴! 俺は、プリンスに、心からの献身を誓った! 殿下は今、どれだけ、寂しく、心細い思いをしておられるか……。邪魔をすると、たとえ兄貴でも、容赦しないぞ」

鞍の上から馬を操り、兄を踏みつけようとする。


「よく考えろ」

 危ういところで、兄は、馬の蹄をよけた。

 語調を変え、諭すように続ける。

「俺達の義理の妹弟……恐れ多くも、パルマ女公マリー・ルイーゼ様のお子様たち……でさえ、呼ばれていないのだ。実のお母様パルマ女公が、シェーンブルンへ行かれているのにも関わらず、だ!」



 アルベルティーナとヴィルヘルムの妹弟は、グスタフら兄弟と、血がつながっている。

 父親が、同じだからだ。


 だが、妹弟の母は、グスタフらの母とは、全然違った。

 彼らの母は、マリー・ルイーゼ……皇帝の娘……だ。皇族に列せられることはなかったが、妹弟は、皇帝の血を引いている。



 さらに、兄は言い募った。

「それなのに、一介の軍人でしかないお前が、皇帝の孫ライヒシュタット公のご最期に、立ち会えるものか!」


「俺は、彼のそばで育った!」

 父のナイペルクは、母と引き離されたプリンスの傍に、同じ年齢の息子、グスタフを侍らせた。

「俺は、絶対の忠誠と、許されるのなら、真実の友情を、彼に対して抱いている!」


「馬鹿野郎! アルベルティーナ様異母妹ヴィルヘルム様異母弟の気持ちも考えろ!」

兄が怒声を上げた。

「血の通った兄上であられるにもかかわらず、お二人は、生涯で一度も、ライヒシュタット公に会わせてもらえないんだぞ!」


 そうだ。

 異腹の妹と弟は、プリンスと、血が繋がっている。

 ……にもかかわらず、彼らは、一度も、彼に会ったことがないのだ。一度も会わぬまま、彼は、死のうとしている……。



「馬から降りろ、グスタフ! 亡き父上の顔に、泥を塗る気か!」


 馬が、ぴたりと止まった。

 騎手が、馬から、転がり落ちた。

 そのまま、泥だらけの地面に、倒れ伏した。







 部屋に一人残されたモーリツは、頭を抱え、机の前でうなだれていた。



 軍での活躍も昇進も、それどころか、ウィーンを出ることさえ許されなかったプリンス。

 だが、彼の頭の中には、何か、素晴らしい計画があるようだった。


 プリンスが何を考えていたのか、モーリツは知らない。彼の考えが固まる前に、モーリツは、ナポリへ飛ばされてしまった。


 手紙のやり取りは危険だった。プリンスは、監視されている。

 また、ためらいもあった。名門、エステルハージ家の長男として、モーリツは、失うものが、多すぎた。


 やがて、プリンスが重病だという噂が、流れてきた。

 すぐにウィーンへ帰ろうとした息子を、父は、きつく諌めた。

 母も、父に同意した。彼女は噂を肯定し、彼の病状について、わかる限りのことを手紙に書くと、約束してくれた。



 ナポレオンの息子に与することは、多くの危険を示唆した。

 モーリツは、エステルハージ家を危険に晒すことはできないと思った。ハンガリーの、有力貴族として、エステルハージ家は、皇帝に、絶対的な服従を誓っている。

 また、父と母のことも、心配だった。


 だが、ここ、ナポリに来て、考えが変わった。

 ナポリ。明るい太陽と、乾いた海風の街。ギリシアやローマを偲ばせる遺跡。

 うすら寒く威圧的で、湿気の多いウィーンとは、全然、違う。


 ……エステルハージ家は、古くから続く家柄だ。そう簡単に潰れることはないだろう。

 ……父と母は、いずれ、わかってくれる。


 モーリツは思った。

 ……しかし、プリンスは……。


 彼は、たったひとりだ。

 たったひとりで、戦っている。

 ナポレオンの残した負の遺産と。


 ……人生は、一度しかない。


 エステルハージの名を背負って、生きていくか。

 それとも、先の見えない冒険の中へ飛び込んでいくのか。

 彼に、忠誠を誓った友として。


 ……俺の人生は、一度きりだ。

 モーリツの心は、決まりかけていた。



 プリンスが、シェーンブルン宮殿に移った、と、母が知らせてきたのは、そんな折のことだった。ウィーン郊外の離宮で、彼は、を送っているという。

 面会は限られた人にしか許されず、あの、マルモン元帥でさえ、追い払われたと、彼女は、書き添えていた。


 ……もはや、猶予はならない。


 面会が叶わなくても、彼の近くにいようと、モーリツは思った。

 もしかしたら、病床のプリンスから、呼ばれることだって、あるかもしれないではないか!


 思い立ったら、一刻もじっとしていられなかった。荷造りを始めた彼の元へ、父からの至急便が舞い込んだ。


 ……確かに、面会を許されるとしたら、まずは、プロケシュ少佐だ。

 ……だって彼は、最初から、プリンスの心の裡にいた。


 父は、息子のことを、よくわかっていた。

 ゆるゆると、モーリツは、顔を上げた。

 鉛のような重い腕を上げ、ペンを取った。

 彼は、プロケシュ=オースティンに宛てて、長い手紙を認めた。



あなたはまもなく、彼に、再び会う機会を得るでしょう。……(略)……この世を去るにあたって、彼は、自分を異邦人のように感じているに違いありません。また、多くの人達に囲まれながら、彼は、自分を理解し、また、最後の望みを打ち明ける人を求めていることでしょう。彼の最後の思いを、どうか、受け取ってやって下さい! 僕は、あなたが羨ましい!


(中略)


しかし、どうして、彼を憐れまなければならないのでしょう。彼にとって死は、多分、祝福なのです。彼の地位は、幸せを、殆ど約束してくれない。彼がどうしても受容することのできない、未来の起きるべきことがらの中で、死は、彼にとって最も良いものであったように思われます。彼の名誉……非の打ち所のない……は、受け入れがたい多くの困難に晒されやすいものです。彼の義務は、多様であり、矛盾の塊で、互いに調和が取れないものです。


完全に満たされることのない名声は、彼を困らせ、平凡さは、彼にとって、罪でさえあります。しかし、僕達の喪失は、深い悲しみを呼び起こさずにはいられません。世界が彼を知る前に、明るい光は、消えてしまうでしょう。太陽が登る、まさにその時に。


友情を失うという個人的な喪失感について、今、ここに書くことは、差し控えます。僕の前途に置かれていたその友情こそが、僕の人生で、一番の喜びだったとしても。


あなたには、(もし、遅すぎるのではなかったら)彼に、僕の忠誠を思い起こさせて欲しいのです。いつだって僕は、彼に忠誠を捧げていました、そのことを、彼は知っているはずです。ああ、僕は、彼の最期の瞬間をかき乱すことさえ、できないのか! 今、彼は、いつも以上に、完璧な共感を欲していることしょう。でもその共感は、いつも、彼の目の前にあったのです。いつだって僕は、最大限の献身と友情を、彼に向けて、差し出していた……。







 その頃、プロケシュ=オースティンは、ローマへ向かっていた。

 ……ナポレオンの親族を取り込むのだ。

 イタリア統一の為に。

 連合国のくびきを振り切り、フランスへ帰る日のために。

 かつての帝王、ナポレオンの親族と、話をつけておく必要があった。


 幸い、ボローニャへ来てから知り合った、教皇領の貴族の妻が、ナポレオンの姪(※ナポレオンの弟リュシアンの娘)だった。その伝手で、彼は、ナポレオンの母レティシアに会えることになった。


 ……。








◆───-- - - -


ここまでお読み下さって、ありがとうございます。

この後、とても辛く、悲しいお話が続きます。

ここまできて私は、敵前逃亡したい気持ちでいっぱいです。


これは、ウェブ小説です。日常の中で、読み手の方に寄り添うお話であるべきです。


辛く悲しいお話は、6回、続きます。この間のタイトルは、「雲隠れ 1~6」です。「雲隠れ 1~6」は、ウェブ小説としては、間違っています。多分。ですから、お読みになられなくても、構いません。

その場合は、「雲隠れ」終了後の、「シューベルトの子守歌 1」からお読みになって下さい。


ですが、敢えてお読み頂けるのなら、どうぞ、今まで通りお付き合い下さい。






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