12 夏の雷鳴

雲隠れ 1


 ポーラングラインの内庭は、プリンスの気に入った。

 彼は、始終、庭へ行きたがった。


 しかし、母親の前で、椅子駕籠セダン・チェアーに乗ることだけは、嫌がった。

 それで、マリー・ルイーゼが同行しようとすると、付き人たちは、丁重に、断らねばならなかった。



 ある時、途中の庭に、一群の人々が集まっていたことがあった。

 彼らの目につかない、樹々の間を、プリンスの一行は進んでいった。


 戸外にいる開放感からだろうか。人々の声は大きかった。


「絶対、怪しいわ」

「そうね。私もそう思う」

宮廷婦人達の、賑やかな声が、聞こえてくる。


「サレルノ公は、相手構わずだからな」

男性の声も聞こえた。

「ええっ! だって、サレルノ公は、の妹さんの、夫でしょ!」



 駕籠を担いでいた付き人が、思わず、立ち止まりそうになった。駕籠の横に付き添って歩いていた侍従が、構わず、通り過ぎろと合図する。

 なす術もなかった。彼らの心中に構わず、声は耳に入ってくる。



「関係ないわ! だって、あの、マリー・ルイーゼ様ですもの」

「そうよ。彼女は、パルマで、好き勝手なさってる、って評判よ。今もよ?」

「ナイペルク将軍だって、最初は不倫だったわけでしょ?」


 故ナイペルク将軍との貴賤婚を、彼らは、決して忘れることはなかった。



 「これで全てが完璧だ!」

カーテンの内側でプリンスが吐き捨てたのを、横を歩いていた侍従は聞いた。

 ……どれほどの傷を、彼は、心に負ったのか。

 自身の体の病み衰えた、今、この時に。


 静かに、足音を忍ばせ、プリンスの一行は、ポーラングラインの庭へ進んだ。

 昼まで庭にいて、部屋へ引き上げた。







 ポーラングラインの庭は、確かに、プリンスの気晴らしになった。庭で、歩く練習を始めたいと、プリンスは、希望を持っていた。


 季節は、夏の盛りだった。

 ただでさえ暑い季節だ。

 周囲に布を巡らせた椅子駕籠セダン・チェアーの中は、ひどく暑かった。

 庭に行くだけで、プリンスは、ぐったりしてしまう。


 「……壊れた」

つぶやきが聞こえた。

「はい?」

侍従が聞き返す。


 この日は、2度めの庭だった。

 一度部屋に戻ったプリンスは、いつものように熱を出した。少し眠ったのだが、目覚めても、ひどくだるそうだった。それでも、付き人の助けを借りて、ようやく起き上がり、庭に出てきたのだ。


「体が溶けていく。僕は、朽ちていくんだ」

 プリンスがつぶやいた。


 ほんの少し庭にいただけで、彼は、すぐに引き返した。



 部屋に戻ると、決まって、高熱が、彼を襲う。咳は、自然に出てくるものではなくなっていた。彼は、ひどい困難と努力を経て、咳をしていた。


 すでに、肘掛け椅子に腰掛けることもできなくなっている。彼は、自分の頭さえ、支えることができない。


 寝椅子に横になり、プリンスは嘆いた。


「もう、死ぬんだ。何者ももはや、僕を助けることができない」


「あなたは死にません。快方に向かっているんです。ただちょっと、咳が残っているだけで」

 必死でモルが宥める。


 プリンスは、簡単には引き下がらなかった。

「お前には、僕がどんなにみじめか、想像もつかないんだ!」


「でも、殿下。殿下は、お腹の具合は、悪くないですよね?」

肯定も否定もする間を与えず、モルは言い立てた。

「殿下は、肝臓の病で死ぬんでしょう?」

 ……ナポレオンのように。

「お腹が大丈夫なうちは、あなたは、死にません」

「……」



 モルの説得がどれほどの効果があったかは、わからない。

 間もなく彼は、寝息を立て始めた。


 ……脚が、腫れている。

 毛布を掛け、モルは思った。


 すでにこの日、モルは2度、プリンスをベッドから引き起こした。

 咳が喉に詰まり、窒息しそうになったからだ。



 7月13日、近づく死を予測し、ワーグナー司祭が訪れた。


 プリンスは、久しぶりに、宮廷司祭と会うことを承知した。ただし、モルの同席が、条件だった。

 以前に、約束したからだ。ワーグナー司祭を邪険に追い返したりはしない。だが、彼との面談には、モルが必ず、同席をする、と。


 少なくとも、司祭を追い返さなかったのは、プリンスにしては、上出来だった。

 だが、司祭と二人きりでなければ、告解はできない。

 死の前に、罪を告白し、魂の負担を軽くしなければならないというのに。


 ……ひょっとして、プリンスは、司祭にさえも打ち明けられない、重大な秘密があるのでは?

 ふと、そんな疑問が、モルの頭に宿った。

 ……いったい、どれほどの秘密なのだろう。


 また来ると言いおいて、司祭は帰っていった。



 「マレシャルに会いたい」

 司祭がいなくなると、プリンスがつぶやいた。

 この話題に、モルは飛びついた。

「昨日、殿下は、マレシャルパルマの執政官に、親切に接したんでしょう? ハルトマン将軍が、褒めてましたよ」


 プリンスの表情に、幽かな明るさが灯った。

 力を得て、モルは続けた。


「ついにマレシャルを取り込むことに、成功したようですね?」

「うん。彼は、ヴァーラインをくれると言った」


 ……ヴァーライン。(※フランスの料理人。プリンスは彼を、ナポリへ連れて行きたがっていた)

 危うく、モルは涙ぐみそうになった。

 ……プリンスはまだ、ナポリへ行くことを諦めていない!


「マリー・ルイーゼ様に加え、マレシャルの承諾も得ることができたんですね! 大したもんだ!」

 大袈裟なくらい、モルは褒め称えた。

 プリンスはちらりと、モルを見た。なんだか照れくさそうに、モルには見えた。

「僕にとって、まだ、共感する価値があるのは、あなただけだ」

「……」


 囁くようにかすれた声で言われた言葉を、モルは、大切に、心の宝箱に仕舞い込んだ。







 ……咳が減っている。

 モルは気がついた。

 咳が出ないということは、肺に溜まった膿を、排出する力がなくなったということだ。

 窒息の危険が高まったということに他ならない。


 息が詰まる度に、付き人たちは、患者の体を起こし、口に溢れる血痰を、ハンカチーフで取り除いた。


 マリー・ルイーゼとF・カールが、見舞いに訪れた。プリンスの、あまりの顔色の悪さに、驚いている。

 さすがに、迷惑だった。

 すみやかに、モルは、二人に、お引き取り願った。



 一時間ほど、プリンスは眠った。咳は殆どなかったが、呼吸が早く、苦しそうだった。



 「元気になる方法がわからない」

ぽっかりと目を開け、プリンスがつぶやいた。

「自然と、元気になりますから。そういうもんですよ、何事も」

なんとか不安を和らげようと、普段は寡黙なモルが、あらゆる弁舌を弄する。

「ポーラングラインの庭で歩く練習をして、そしたら、馬車に乗って、また、ハイムバッハの森へ行きましょう。ハイムバッハの次は、ラクセンブルクです。馬車で行けたら、じき、乗馬もできるようになりますよ」

「元気になったら、ナポリへ行く」

「そうです! そうですとも!」


 ……空中の城だ。

 しかしモルは熱心に、ナポリへの旅程を、話し始めた。





 この日(7月15日)は、ポーラングラインの庭へ行た、最後の日になった。しかし、暑さと息苦しさで、プリンスは、5分と庭にいることができなかった。


 部屋に引き返したプリンスは、空気を求め、ベランダへ出た。

 ここも、3分といられない。

 部屋に戻り、ソファーに倒れ込んだ。



 ……脚が。

 ひどくむくんだ脚が、モルは気がかりでしようがなかった。今日は、脚に加え、腕までむくんでいる。呼吸は激しく、頭部がひどく冷たかった。


 マルファッティ医師が、温湿布と温かいタオルに加え、薬を処方した。温湿布とタオルは、薬の効果を促進させる為だったが、プリンスは、薬を拒絶した。


 ……プリンスは、マルファッティ医師を、信用していない?

 ……「マルファッティは、危険な男よ」

 マリー・ルイーゼの声が、モルの耳に蘇る。


 母親マリー・ルイーゼの不信にも関わらず、ついに、主治医の交代はなかった。それは、彼女自身の、あまりの評判の悪さの帰結に他ならない。宮廷は、母親の抗議よりも、医者マルファッティの評判を重視したのだ。


 あんまりだと、モルは思った。

 ……いや、しかし。

 この期に及んで、医師が替わっても、困る。新しい医師は、死に臨んだ患者の容態を、把握できないに違いない。



 その夜、10時。

 ひどい喀血があった。

 夜中の1時過ぎまで付き添っていたモルとハルトマン上官は、四肢のむくみが緩くなったことに気がついた。


 ……死の苦しみが始まったのだ。

全身が引き締まる思いが、モルはした。


 この苦しみは、5日も6日も続くかもしれない。







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