12 夏の雷鳴
雲隠れ 1
ポーラングラインの内庭は、プリンスの気に入った。
彼は、始終、庭へ行きたがった。
しかし、母親の前で、
それで、マリー・ルイーゼが同行しようとすると、付き人たちは、丁重に、断らねばならなかった。
ある時、途中の庭に、一群の人々が集まっていたことがあった。
彼らの目につかない、樹々の間を、プリンスの一行は進んでいった。
戸外にいる開放感からだろうか。人々の声は大きかった。
「絶対、怪しいわ」
「そうね。私もそう思う」
宮廷婦人達の、賑やかな声が、聞こえてくる。
「サレルノ公は、相手構わずだからな」
男性の声も聞こえた。
「ええっ! だって、サレルノ公は、彼女の妹さんの、夫でしょ!」
駕籠を担いでいた付き人が、思わず、立ち止まりそうになった。駕籠の横に付き添って歩いていた侍従が、構わず、通り過ぎろと合図する。
なす術もなかった。彼らの心中に構わず、声は耳に入ってくる。
「関係ないわ! だって、あの、マリー・ルイーゼ様ですもの」
「そうよ。彼女は、パルマで、好き勝手なさってる、って評判よ。今もよ?」
「ナイペルク将軍だって、最初は不倫だったわけでしょ?」
故ナイペルク将軍との貴賤婚を、彼らは、決して忘れることはなかった。
「これで全てが完璧だ!」
カーテンの内側でプリンスが吐き捨てたのを、横を歩いていた侍従は聞いた。
……どれほどの傷を、彼は、心に負ったのか。
自身の体の病み衰えた、今、この時に。
静かに、足音を忍ばせ、プリンスの一行は、ポーラングラインの庭へ進んだ。
昼まで庭にいて、部屋へ引き上げた。
*
ポーラングラインの庭は、確かに、プリンスの気晴らしになった。庭で、歩く練習を始めたいと、プリンスは、希望を持っていた。
季節は、夏の盛りだった。
ただでさえ暑い季節だ。
周囲に布を巡らせた
庭に行くだけで、プリンスは、ぐったりしてしまう。
「……壊れた」
つぶやきが聞こえた。
「はい?」
侍従が聞き返す。
この日は、2度めの庭だった。
一度部屋に戻ったプリンスは、いつものように熱を出した。少し眠ったのだが、目覚めても、ひどくだるそうだった。それでも、付き人の助けを借りて、ようやく起き上がり、庭に出てきたのだ。
「体が溶けていく。僕は、朽ちていくんだ」
プリンスがつぶやいた。
ほんの少し庭にいただけで、彼は、すぐに引き返した。
部屋に戻ると、決まって、高熱が、彼を襲う。咳は、自然に出てくるものではなくなっていた。彼は、ひどい困難と努力を経て、咳をしていた。
すでに、肘掛け椅子に腰掛けることもできなくなっている。彼は、自分の頭さえ、支えることができない。
寝椅子に横になり、プリンスは嘆いた。
「もう、死ぬんだ。何者ももはや、僕を助けることができない」
「あなたは死にません。快方に向かっているんです。ただちょっと、咳が残っているだけで」
必死でモルが宥める。
プリンスは、簡単には引き下がらなかった。
「お前には、僕がどんなにみじめか、想像もつかないんだ!」
「でも、殿下。殿下は、お腹の具合は、悪くないですよね?」
肯定も否定もする間を与えず、モルは言い立てた。
「殿下は、肝臓の病で死ぬんでしょう?」
……ナポレオンのように。
「お腹が大丈夫なうちは、あなたは、死にません」
「……」
モルの説得がどれほどの効果があったかは、わからない。
間もなく彼は、寝息を立て始めた。
……脚が、腫れている。
毛布を掛け、モルは思った。
すでにこの日、モルは2度、プリンスをベッドから引き起こした。
咳が喉に詰まり、窒息しそうになったからだ。
7月13日、近づく死を予測し、ワーグナー司祭が訪れた。
プリンスは、久しぶりに、宮廷司祭と会うことを承知した。ただし、モルの同席が、条件だった。
以前に、約束したからだ。ワーグナー司祭を邪険に追い返したりはしない。だが、彼との面談には、モルが必ず、同席をする、と。
少なくとも、司祭を追い返さなかったのは、プリンスにしては、上出来だった。
だが、司祭と二人きりでなければ、告解はできない。
死の前に、罪を告白し、魂の負担を軽くしなければならないというのに。
……ひょっとして、プリンスは、司祭にさえも打ち明けられない、重大な秘密があるのでは?
ふと、そんな疑問が、モルの頭に宿った。
……いったい、どれほどの秘密なのだろう。
また来ると言いおいて、司祭は帰っていった。
「マレシャルに会いたい」
司祭がいなくなると、プリンスがつぶやいた。
この話題に、モルは飛びついた。
「昨日、殿下は、
プリンスの表情に、幽かな明るさが灯った。
力を得て、モルは続けた。
「ついにマレシャルを取り込むことに、成功したようですね?」
「うん。彼は、ヴァーラインをくれると言った」
……ヴァーライン。(※フランスの料理人。プリンスは彼を、ナポリへ連れて行きたがっていた)
危うく、モルは涙ぐみそうになった。
……プリンスはまだ、ナポリへ行くことを諦めていない!
「マリー・ルイーゼ様に加え、マレシャルの承諾も得ることができたんですね! 大したもんだ!」
大袈裟なくらい、モルは褒め称えた。
プリンスはちらりと、モルを見た。なんだか照れくさそうに、モルには見えた。
「僕にとって、まだ、共感する価値があるのは、あなただけだ」
「……」
囁くようにかすれた声で言われた言葉を、モルは、大切に、心の宝箱に仕舞い込んだ。
*
……咳が減っている。
モルは気がついた。
咳が出ないということは、肺に溜まった膿を、排出する力がなくなったということだ。
窒息の危険が高まったということに他ならない。
息が詰まる度に、付き人たちは、患者の体を起こし、口に溢れる血痰を、ハンカチーフで取り除いた。
マリー・ルイーゼとF・カールが、見舞いに訪れた。プリンスの、あまりの顔色の悪さに、驚いている。
さすがに、迷惑だった。
すみやかに、モルは、二人に、お引き取り願った。
一時間ほど、プリンスは眠った。咳は殆どなかったが、呼吸が早く、苦しそうだった。
「元気になる方法がわからない」
ぽっかりと目を開け、プリンスがつぶやいた。
「自然と、元気になりますから。そういうもんですよ、何事も」
なんとか不安を和らげようと、普段は寡黙なモルが、あらゆる弁舌を弄する。
「ポーラングラインの庭で歩く練習をして、そしたら、馬車に乗って、また、ハイムバッハの森へ行きましょう。ハイムバッハの次は、ラクセンブルクです。馬車で行けたら、じき、乗馬もできるようになりますよ」
「元気になったら、ナポリへ行く」
「そうです! そうですとも!」
……空中の城だ。
しかしモルは熱心に、ナポリへの旅程を、話し始めた。
この日(7月15日)は、ポーラングラインの庭へ行た、最後の日になった。しかし、暑さと息苦しさで、プリンスは、5分と庭にいることができなかった。
部屋に引き返したプリンスは、空気を求め、ベランダへ出た。
ここも、3分といられない。
部屋に戻り、ソファーに倒れ込んだ。
……脚が。
ひどくむくんだ脚が、モルは気がかりでしようがなかった。今日は、脚に加え、腕までむくんでいる。呼吸は激しく、頭部がひどく冷たかった。
マルファッティ医師が、温湿布と温かいタオルに加え、薬を処方した。温湿布とタオルは、薬の効果を促進させる為だったが、プリンスは、薬を拒絶した。
……プリンスは、マルファッティ医師を、信用していない?
……「マルファッティは、危険な男よ」
マリー・ルイーゼの声が、モルの耳に蘇る。
あんまりだと、モルは思った。
……いや、しかし。
この期に及んで、医師が替わっても、困る。新しい医師は、死に臨んだ患者の容態を、把握できないに違いない。
その夜、10時。
ひどい喀血があった。
夜中の1時過ぎまで付き添っていたモルと
……死の苦しみが始まったのだ。
全身が引き締まる思いが、モルはした。
この苦しみは、5日も6日も続くかもしれない。
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