雲隠れ 2
翌朝(16日朝)。
プリンスは、声を失っていた。
窓を全開にさせ、庭、せめてバルコニーに出たいと、意思表示をする。
息が、苦しいのだ。彼は、戸外の新鮮な空気を欲していた。
花咲き、緑香る、麗しきシェーンブルンの空気を。
出られるわけがなかった。
もはや、彼が、城の外の空気に触れることはない。
プリンスは、ソファーに身を投げ、狂ったように、拳で頭を打った。
付き人たちは、なす術もなく、見守るしかなかった。
声が出なくなった治療にと、マルファッティが処方したのは、蛭だった。
首筋に貼り付け、血を吸わせる。
瀉血の変わりなのだろうか。
効果はなかった。
……これでは、カタツムリを売り付けに来た香具師どもと、大差ないではないか。
マルファッティへの、はっきりとした不信を、モルは感じた。
5月に、マルファッティは、ロバのミルクを、炭酸水で希釈したものを処方した。すぐに、炭酸水は、マリエンバート水(※マリエンバートは温泉地)に変わった。しかし、全く効かなかったばかりか、プリンスは、お腹を壊してしまった。
万事がこの調子だった。
スープは止めたほうがいいと言った矢先に(比較的元気だったプリンスが、馬車に乗り込むまでの間だ)、やっぱり許可する、と言い出し、プリンスの不興を買った。
医師お得意の、
マルファッティの指示はころころ変わり、一貫性がない。治療は、効果がないどころか、時には有害でさえある。その上、根本的な結核の治療は、何もしていない。
だが、幸いなことに、この日は、さしもの酷暑も勢力を潜めていた。珍しく、涼しい一日だった。
……今の涼しさが続いてくれたら!
心の底から、モルは願った。
……もしかしたら、彼は、生き延びるかもしれない。
朝の興奮も収まり、プリンスは、とても静かだった。
モルは希望を持った。
*
その日の夕方。
モルは、皇帝への伝令に指名された。
プリンスが亡くなったら、リンツに滞在中の皇帝に、知らせに行く役目だ。
あらゆる準備が、着々と、整えられていく……。
*
その夜、医療会議が開かれた。
涼しくなった気候や、穏やかになった容態を鑑み、診断が下された。
……突発的な事故や窒息がなければ、数週間、生きながらえることができるかもしれない。
しかし、暑さがぶり返せば、数日の命だ。
夏の気候が、禍福を分ける……。
*
プリンスは、うとうとと、まどろんでいた。
フィフェノットという医師が、医療会議の後に、立ち寄った。彼は、昨夜、喀血のあった際も、診療に来ていた。
「どうだ、プリンスの具合は」
居合わせたモルに尋ねた。
「大分、落ち着かれたようです」
モルは、口蓋に張り付いた舌を、布を使って、懸命に引き剥がしていた。ちょっと目を離した隙に、血痰が乾いてしまったのだ。
その様子を見て、医師は、顔を顰めた。
「どうやら、肺だけでなく、気管までやられてしまったようだ。特にゆうべは、通常の2倍の早さで、気管がやられた」
医師がしゃべり始めたのと、プリンスが咳き込み始めたのは、ほぼ同時だった。
医師は、プリンスの左側に立っていた。
その上、患者は、咳をしている。
きっと聞こえないと思ったのだろう。声を落とすことなく、医師は、言い放った。
「さぞや苦しいだろうな。さきほど、医療会議で話し合ったのだが、もって、あと、2~3週間というところだ」
プリンスの顔に、焦燥の色が浮かんだ。
声の出ないその表情に、モルは、彼の疑念を、読んだ気がした。
「死ななければならないのですか?」
それは、モルの心でもあった。
……この人を、死なせなければならないのか!?
*
翌17日。
マリー・ルイーゼがワーグナー司祭を連れてきた。プリンスは、司祭の言うことには、全く、反応しなかった。
ただし、立ち会いに、モルが呼ばれた。
それだけは、プリンスの意思だった。
喀血のあった15日から、プリンスは、食事を摂ろうとしなくなっていた。
こみ上げてくる膿や痰で、気管だけでなく、口の中まで腫れ上がり、ものを食べるとしみるのだ。
モルが懸命に説得し、ようやく、スプーン一杯のスープを口にした。
容態は、だが、比較的、安定していた。
モルは、本を読んで聞かせた。彼が読んでいる間、プリンスは、いくらか、気持ちが落ち着くようだった。しかし、いつものように、眠りに落ちることはなかった。青い大きな目を見開いて、仰臥している。
モルは、途切れることなく、読み続けた。
「今夜は、もう少し、ここにいさせて下さい」
夜、いつもの時間になると、モルは、頼んだ。
昼間、ワーグナー師が訪れている。司祭の訪れは、プリンスに、迫りくる死を、思い起こさせたはずだ。
眠れぬ夜、一人、死の恐怖に向き合うプリンスの孤独を、モルは思った。
しかし、彼は首を横に振って拒んだ。
悄然と、モルは、病室を出た。
*
翌日(18日)も、同じような状態が続いた。
あまり眠れず、少し、咳が出た。
気管の他、口、舌、喉の化膿が顕著になり、ものを飲み込むことは、一層、困難になっていた。
食事は飲み物だけ、そして、わずかに、柔らかい卵半分を、スプーンで食べた。それだけのものを、彼は、非常な努力で、嚥下した。
*
19日。
その日は、特別な日だった。
後から思えば、多分。
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