雲隠れ 3
朝から彼は、呼吸が大部楽になり、陽気にさえ、見えた。だいぶ、しわがれてはいるが、声も、再び、出るようになった。ただ、嚥下の困難さは、相変わらずだった。プリンスは、食事を摂ろうとしない。
昼頃、モルが本を読んで聞かせていると、この頃では珍しいことに、プリンスは、うとうととしだした。
プリンスが安心して眠り続けられるように、声を低くし、モルは、本を読み続けた。
眠りは、1時間ほどで、咳に妨げられた。目を覚ました彼は、眠る前より、息苦しそうに見えた。
朗読の声を高めたモルに、プリンスは尋ねた。
「母が、いたのか?」
「ついさきほどまで」
本を置き、モルは答えた。
酸っぱいものでも飲み込んだような顔を、プリンスはした。
確かに、彼の母親は、ここにいた。息子が眠っているのを確認すると、モルに話しかけた。
彼女は、ワーグナー司祭とプリンスを、なんとか、二人きりにさせたがっていた。
告解を受けさせたいのだ。死の前に、全ての罪を洗い流し、心を軽くして、天国へ旅立って貰いたがっていた。
しかし、司祭が訪れると、プリンスは、必ず、モルを呼んでしまう。それで、今まで、果たせずにいた。
彼女は、なんとか、息子を、司祭と二人きりにしたいと、相談に来た……筈だった。
が、この日、彼女が口にしたのは、大半が、
彼女は、近い将来、自分の娘(※ ナイペルクとの間に生まれたアルベルティーナ)を、彼と結婚させるつもりだという。
……「それはそれは、素敵な殿方なのよ」
サルヴィトーレ侯爵は、トリエステまで、彼女と一緒に来たという。ウィーンへも、共に来るはずだった。が、急務の為、パルマに戻ったということだった。
……してみると、あの話は本当だったのか?
モルは思った。
モルはこの話を、しかるべき筋……マリー・ルイーゼと同行してきた、
マレシャルによると、
その大半は、子どもたちと、この「お気に入り」へのものだ。
すでに、9箱を、パルマに向けて、発送したそうだ。さらに、3箱ほどが、
……その間、プリンスは、死の苦しみにあったのだ!
サルヴィトーレ侯爵が、現在、彼女の、一番の「お気に入り」であることは、疑いがない。
その侯爵と長女を、結婚させるつもりだと、彼女はいう。
……自分の恋人を、娘に?
モルは、唖然とした。どう解釈したらいいのか、わからない。
……皇族だからか。
……女だからか。
女だからだろう、と、モルは思った。
……女というものは、永遠に若い心を持っているものなのだ。
眠っているプリンスの枕辺で、
だが、こんな話を、プリンスにするわけにはいかない。
幸い、母の気配は感じても、話の内容までは、聞こえていなかったようだ。
もともと、マリー・ルイーゼの声は、ごく小さい。プリンスは母の声を聞き取れず、彼女が訪れるたび、疲れ果てていた。今回に限って、それがかえって、よかった。
「何か召し上がりますか?」
本を置き、モルは尋ねた。
プリンスは首を横に振った。
一時間半ほど、本を読んでから、モルは、再び、提案してみた。
「オオムギのお粥はどうでしょう?」
しぶしぶ、プリンスは承諾した。口の中が痛むのだろう。相変わらず、彼は、何も食べたくないようだった。
*
午後は、少し熱が出た。それから夜にかけて、とろとろ眠り、また起きて、を、彼は、繰り返した。
モルは、ずっと付き添っていた。本を読み、あるいは、ナポリについて語った。
プリンスは、ただ、彼の声を聞いていた。
その日のプリンスは、いつになく、柔らかい雰囲気だった。
モルが、毛布を直そうとした時だった。
不意に、プリンスが、その手を掴んだ。
何度か、力を込めて、握る。
モルは、息を詰まらせた。
「お前でよかった(※1)」
戻ってきた声で、囁くように、プリンスはつぶやいた。
モルの手を握る指に、きゅっと力が込められた。
「そばに人がいても安らげるなんて。そんな風に、僕は今まで、思ったこともなかった(※2)」
……いつもと違う。
泣きそうになって、モルは思った。
……これは、いつものプリンスじゃない。
悲しい予感に、彼は、戦いた。
久しぶりに声が出たせいだろうか。
なおもプリンスは、話し続けた。
もちろん、ナポリへ行くことについてだった。
旅程。馬車の手配、プリンスの乗る馬車になされるべき改変……。
「ウィーンを出るんだ。ウィーンを出るんだ! 馬車に乗りさえすれば、こんな病気、すぐに良くなる……」
……この人について、自分も、ナポリへ行きたい。
初めて、モルは思った。
プリンスが、ナポリで、何をしようとしているのか知らない。それは多分、宮廷司祭にも告白できないほど、罪深いことに違いない。
けれど、モルは、彼と行動を共にしたかった。
この人となら、神に逆らうことさえ、楽しかろうと思えたのだ。
……罪って、なんだ?
それが、神への反逆かもしれなくても、一向に平気だった。
……ただ、この人と一緒なら。
大きく頷きつつ、モルは、プリンスの話に聞き入った。
いつもの時間になった。
プリンスが、おやすみと、言った。
胸騒ぎを覚えつつ、モルは、控えの間に辞した。
その晩、もう何度目かの、ひどい喀血があった。
今回は、胸というより、腹部全体の発作だった。腹が、まるで蛇腹のように捩れ、プリンスは、ひどく苦しんだ。
発作が過ぎると、腹部は弛緩した。
プリンスは、自ら湿布と温めたタオルを要求し、それらを胸と腹に置いて、眠ってしまった。
数日間、医師や付き人達は、気管や口腔の腫れに気を取られていたが、どうやらまた、肺が、悪化を始めたようだ。
あと何回、彼は、危機を乗り越えられるだろう……。
*
喀血の翌日(20日)。
モルら3人の付き人たちは、マレシャルに呼び出された。
マリー・ルイーゼが、プリンス亡き後に、プリンスに仕えてきた人々に、今までの感謝の気持ちを示したがっている、という相談だった。
プリンスの死後に売却する物品のリストを、マレシャルは見せた。もちろん、マリー・ルイーゼの許可はとってある、という。
「なにしろ、マリー・ルイーゼ様におかれては、ライヒシュタット公の死後、すぐにパルマへお帰りになりたいご所存だ」
尊大に、マレシャルは繰り返した。
使用人の解雇は、覆らなかった。全員をパルマで召し使うわけにはいかないらしい。
ただし、家族のある者には、1年分の給料を保証できることになった。
その他、さまざまな家庭用品は、近しい人に、適切に分配されることになった。
3人の付き人に対しても、マリー・ルイーゼの感謝の気持ちが支払われるということだった。
実はこれについては、予めモルとスタンは、希望を聞かれていた。
……馬が欲しい。
モルは思った。
乗馬姿の彼は、とても、凛々しく、一幅の絵のように美しかった。
……プリンスがかわいがっていた、荒くれの雄馬がほしい。彼はあの馬を、見事に乗りこなしてしまった……。
彼の馬となら、モルは、心おきなく、彼の話ができるだろう。
美しく優雅な彼との日々を……。
スタンは、パルマの勲章を欲しがっていた。3人のうち、スタンだけが、貴族ではない。それゆえのことだろう。
二人の希望は、聞き届けられることになった。
プリンスの生きているうちに、遺産分けの話をするのはどうか。
そんな気持ちも、確かにあった。
しかし、プリンスが死んでも、3人の付き人は、生きていかなくてはならない。
20人を越えるライヒシュタット公の使用人たちも、また。
さまざまな雑事が、人の死には、ついてまわる。
……身近な人の死を、純粋に悲しむことのできる者は、それでもまだ、幸せだ。
◆───-- - - -
※の部分、ですが、モルの手記にあったものと、文意を変えてあります。
原文では、次のようになっています。
日本語、英語とも、きれいな訳が出ますので、ぜひ、グーグル翻訳に突っ込んでみて下さい。
※1
"Ich habe Sie sehr gerne.“
※2
"Ich hätte nicht geglaubt, daß ich jemanden so lieb haben könnte.“
死が近づいたライヒシュタット公は、錯乱していたのだ、という説もあります(気軽にそう書かれると、腹が立つのですが。錯乱があったとしても、一時的な混乱です)。
ただ、ここは、モル自身も、いつものプリンスと違う、と述べています。
しかし、後にモルは、皇帝に、「死が近づいてからのプリンスは、彼本来の優しい性格に戻った」などとのたまってます。複雑な人です……。
いずれにしろ、モルが記した言葉を、真正面から捉えることは、しませんでした。
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