雲隠れ 4
「
(歓喜よ、歓喜よ、歓喜よ、歓喜よ!)
」
調子外れな歌声が、がらんとした回廊に響き渡る。
向こうから、モルが歩いてくる。
ひどくめかしこんでいた。
黒のフロックを着用し、胸に、赤い薔薇を挿している。
磨き上げた革靴で、床の上を、踊るように近づいてくる。
「止まれ!」
飾られた甲冑の影から、黒い人影が現れた。
こちらもモルだ。
オーストリアの白い軍服を着ている。
「おっ! 使い魔じゃないか」
めかしこんだ方が、立ち止まった。
「このフロック、どう? 決まってる? いよいよ、かわいこちゃんと、デートなんだよ」
「何がデートだ! 魂を喰らいに来たくせに!」
憤怒に満ちた声で、軍服のモルが叫ぶ。
「ここから先は、一歩も通さないぞ!」
「使い魔の分際で、このメフィスト様に勝てるものか」
めかしこんだモルは、嘲った。
「とにかく、初めから勝負はついているんだ。おとなしく言ってるうちに、そこをどいてくれないかなあ」
「どくか! お前こそ、去れ! 第一お前、臭いぞ!」
「臭い? うそ……」
フロック姿のモルは、慌てたように、袖口や、上着の襟を持ち上げて嗅ぐ。
「地獄で一番の香水をつけてきたのにな……」
「硫黄臭い!」
「おしゃれ心のわからんやつは、これだからいやになる。香水は、高価なものほど、その原料は、臭いんだ」
「殿下は肺を病んでいらっしゃるんだぞ。咳がたくさん出るんだ。臭いやつを近づけるわけにはいかないね!」
「いやいや。苦しみもあと僅か。血を吐く咳も、もう、気にしなくていい」
「何を言うんだ!」
「現実を認めろ」
めかしこんだモルが、初めて、大声を出した。
「彼の命は、尽きている。あとは、消化試合だ。小さく弱くなった火が消えるのを、待つだけ。医者も付き人達も、人間どもはよく、わかってる」
「うるさい!」
「俺は、彼のそばにいなくちゃならない。魂というものはな。いつ、体から出てくるかわからない。だから、つきっきりで、そばにいなくちゃならないんだ。胸から出るか。臍から出るか。注意おさおさ、怠るわけにはいかんのだ」
「彼の魂は、渡さない!」
「何言ってんの? 悪魔の契約だよ?」
「彼は、自殺じゃない! お前には、資格がない!」
「強情だなあ。自殺だって。医者も言ってるじゃないか。行き過ぎた軍務への傾倒が、この災厄を招いたって。その上、彼は、まともに医療を受けようともしないし」
「あんなヤブの言うことを聞いてたら、かえって、早死にするわ!」
「医者だけじゃない。周囲の人間にも、ぎりぎりまで、具合が悪いのを隠していた」
「身近にいたのは、アルゴスだけだ!」
「そうか? そうかなあ?」
めかしこんだモルは、くるっと一周してみせた。
「たとえば、
「モルは、政府からつけられた、軍の付き人だ。信用なんか、できるか。だいたい、なんだ、お前。なんだって、モルの格好をしている!」
「それは、今の彼の、一番のお気に入りだからさ。そういうお前だって、モルのなりをしてるじゃないか」
「モルの格好でないと、殿下のそばに行けないからだよ!」
「ほほう。だが、いくら軍人でも、軍服で看病はしてないぞ、あの男も」
「え? そうなのか?」
にわかに、軍服のモルが慌てた顔をした。しゃれのめした方が、からからと笑う。
「さては、お前も、あの子に近づかせてもらえなかったな?」
「あんたに張り付いていたからだ! あんたを、彼に近づけないので、俺は、精一杯だったっ!」
めかしこんだ方は、ため息を付いた。
「全く、お前は、しつこかったな。蛇に変身してお城に行こうとすれば、つぐみになって、ついばみに来るし。猫の姿でやっと忍び込めたと思ったら、鼠の分際で、しっぽに噛みつきやがるし」
「ああ、あんたを城に入れちまった自分を呪うよ! なんて不甲斐ない!」
「それにしても、本物のモルの耳に噛み付いたのは、やりすぎじゃないか? かわいそうに、それであいつは、変人だと思われたんだぞ。通りすがりの侍従に」
「殿下に、説教なんかするからだ!」
怒りの籠もった大声で、軍服は叫んだ。
「あいつ、殿下に向かって、言いたい放題、言いやがって! 冷たいだの、利己的だの、挙句の果ては、このままだと幸せにはなれないだと? くそっ、彼のことなんか、何も知らないくせに!」
「ふうん。俺には、愛の告白に聞こえたがな」
「はあ? 愛の告白だ? お前の耳には、泥水かなんか、詰まっているのか!」
「使い魔より、経験が豊富なだけだよ」
「なんだと!」
いきりたって、軍服は叫んだ。しゃれのめした方は、にやにや笑っている。
「いいじゃないか。同じモル同士、お手々繋いで、仲良くあの子に、会いに行こうよ」
「あんたはダメだ!」
「最期の時を、賑やかに迎えさせてやろうや。あの子のことを、最もよくわかっているのは、この俺だよ?」
「黙れ!」
軍服は一喝した。怒りを込めて続ける。
「プロケシュ少佐は、呼ばれなかった。モーリツ・エステルハージも、グスタフ・ナイペルクもだ! 彼は、この世で最も親しかった者たちから、引き離されているんだ!」
「ふうん。だから、自殺しようとしているわけだな」
「自殺じゃない!」
軍服のモルは、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
「彼は、生きようと戦ってる! 今、この時も!」
「それじゃ、もう少し待つとするかな。彼が、もう死にたい、って言うまで」
「言うものか! 死にたいなんて!」
「言うさ。なにしろ、あれだけの苦痛だからな。本当なら、とっくに死んでいてもおかしくない。意志の力だけで、持ち堪えてるんだ」
「彼には、やりたいことがある。やるべきことがある!」
「そうやって耐えてきたからこそ、死の間際の苦しみは、一層ひどいものとなるのだ。執着は、身の毒だよ。気の毒になあ」
悪魔はにたりと笑った。
「だが、俺は、辛抱強い男だ。それに、待って待って、ようやく手に入れた魂は、格段に、うまいからな」
舌なめずりをしてみせる。軍服は激昂した。
「渡さない! 彼は、自殺なんかしない!」
「いいや。最期に、彼は、必ず言う。苦しい。もう、死にたいって。その時こそ……、」
「言うもんか! 彼は、最後まで、諦めない。命を、生きようとするはずだ!」
叫んで、軍服のモルは、フロックのモルに飛びかかった。不意を打たれ、フロックのモルは、廊下に転がった。
二人のモルが、殴りあう。
「遅かったじゃないか、モル!」
廊下の端に、スタンが現れた。
「遅刻だぞ。交代の時間は、とっくに過ぎて……」
そこで彼は、取っ組み合っている二人のモルに気がついた。ちょうど、フロックが軍服のマウントをとったところだった。
そろって、スタンに顔を向ける。
「モルが二人……」
つぶやいて、スタンは、あんぐりと口を開けた。
「ちっ!」
めかしこんだモルが舌打ちをした。
軍服を下に組み敷いたまま、胸の前で、両手を、複雑な形に組んだ。低い声で、呪文を唱える。
ぱっと、二人の姿が弾けた。
黒と白の粒子が、激しく飛び散った。
混じり合う2色の霧が、回廊いっぱいに拡がっていく。
*
出勤してきたモルは、廊下で居眠りをしている
「おい、スタン! 何でこんなところで寝てるんだ?」
「げ、モル」
「なんだよ。変な顔で見るな。持ち場を離れちゃダメじゃないか」
「いや……」
何かを思い出そうとするかのように、スタンは頭を振った。
何も、思い出せなかった。
*
1832年7月21日。
その朝、プリンスは、ひどい憂鬱の底にいた。迫りくる死から、彼は、意思の力で、懸命に、気をそらそうとしていた。
何日も、まともなものを食べていない。体力は失われ、もはや、一人で起き上がることも叶わない。
しかも、病んだ肺で呼吸しているのだ。苦しいのに、呼吸は、一時も、止めることができない。
その上、彼は一人だった。プロケシュも、モーリツもグスタフもいない。ディートリヒシュタインでさえ。
彼の周囲に残ったのは、アルゴスたちだけだ。アルゴスと、彼には聞こえない言葉でしゃべる、母親……。
病から気持ちをそらすことなど、できっこなかった。
「もう死にたい」
部屋に入ってきたモルを見て、プリンスはつぶやいた。
「死。死だけだ!」
手をよじり合わせ、噛み締めた歯の間から、絞り出すように言う。
黒い霧が、ドアの下から侵入してきた。
「死だけが、僕の救いなんだ!」
霧は、床を低く這い、次第にベッドに近づいていく。微かに、硫黄の匂いが鼻につく。
しかし、誰も気づかない。
……殿下は、自暴自棄になっておられる。
モルは思った。
……こういう時は、だ。
「ナポリへは、航路で参りましょう」
静かにモルは語りだした。
「青い海原。澄んだ太陽の光。潮風が心地よく吹いています……」
5分後、プリンスは、病みつかれた顔に微笑みさえ浮かべて、モルの話に聞き入っていた。
ドアの隙間から、黒い霧が、みるみる、部屋の外へ出ていく。
霧の、最後のひとかたまりが、動きを止めた。悔しさいっぱいに、モルの背を、強くどやした。
……?
モルは、顔を顰めた。
しかし彼は、ナポリへの航海の空想を話すのに夢中だった。
プリンスの心を、ナポリに引きつけておこうと、必死だった。
モルの背をどやしつけた黒い霧が、速い速度でドアの下から出ていった。まるで、外から何者かに吸い出されたような、急な動きだった。
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