雲隠れ 5
プリンスが落ち着くと、モルは、汚れ物の処理を始めた。
「気の毒に、そんなことまでさせられて。僕の担当になったばっかりに。お前も、運が悪かったな」
柔らかな声が聞こえた。
手桶の水で、モルは手を洗った。
ベッドに近づき、毛布を掛け直した。
その手を、プリンスが捉えた。
「何が欲しい? ご褒美をあげなきゃ」
子どものような声だった。
……まただ。
プリンスのこうした柔らかい優しさに触れる度に、モルは、泣きたくなる。
今までの彼になかったものだからだ。近づくそれを、はっきりと予感させる。
「ナポリへ一緒に連れて行って下さったなら。それが、一番の報酬です」
やっとのことで、モルは言った。
握られた手が、ぎゅっと締めつけられた。
うとうとと、プリンスは、まどろみ始めた。
マリー・ルイーゼが来て、帰っていった。
それから、F・カール大公が部屋をのぞき、すぐに、姿を消した。
安心して眠りをたゆたっていられるように、モルは、静かな声で、本を読み始めた。
いつもながらに、彼の声は、最良の催眠剤だった。
スピンドラーの『永遠のユダヤ人(”Ewigen Juden” Spindler)』、そして、アリンコートの『反逆(”Les Rebelles“ d'Arlincourt)』が、彼の最後の読書となった。
プリンスは、朝の8時頃と、昼過ぎに、熱と痙攣の発作を、短いインターバルで起こした。血痰が出たが、彼はもはや、それを、口から吐き出すことができない。
モルがハンカチーフで取り除いた。
実は、ここ数日、彼は、体調が悪かった。時折、ひどい吐き気がする。
……もし、プリンスの任を外されたら!
それが、モルの恐怖だった。
今や、彼しか、プリンスの気持ちを鎮める事のできる者はいない。
彼の静かな声と、今まで二人で創り上げてきた、ナポリへの幻想しか!
血痰を取り除く仕事は、モルの体調の悪さに拍車を掛けた。無意識に顔を顰めてしまったのだろうか。
ふと見ると、プリンスが、下からじっと、彼の顔を覗き込んでいた。
その表情には、感謝が浮かんでいた。
……しっかりしなければ。
……最後まで、この人に、ついていなければ。
モルは、気を取り直した。
うだるように暑い日だった。
大気の状態は不安定で、すぐ近くまで、嵐がきていた。
空が、不穏な色に染まり、遠くで、ごろごろという低い音が聞こえる……。
夕方。
執政官のマレシャルを伴って、マリー・ルイーゼが訪れた。
「ひどく具合が悪そうだわ」
ベッドの上の息子を、一目見るなり、そう、つぶやいた。
彼女は、安心させてもらいたかった。そんなことはないと、否定してほしかった。いつものように。
だが、モルもマレシャルも、この日は、否定しなかった。
彼女の言う通りだった。
彼は……彼女が長年捨て置いた息子は……、どうしようもなく、具合が悪いのだ。
その日の晩、宮廷司祭のワーグナーは、城を空ける予定だった。
相変わらずプリンスは、予断を許さない状況にある。
それで、今のうちにぜひとも、告解を受けさせようということになった。
プリンスが目を覚ましたのを見計らって、ワーグナーが招き入れられた。
静かに、付き人たちは、席を外した。
モルも、別室へ退いた。
後は、折を見て、マリー・ルイーゼが退出するだけだ。
「モル、来てくれ!」
しかし、すぐに、侍従が迎えに来た。
ひどく焦っている。
「プリンスが、お前を呼んでいる!」
「だって、彼は今、罪の告白をしているんだろう?」
……心を軽くして、死に臨む為に。
「それが……」
侍従は言葉を濁した。
マリー・ルイーゼが、席を立とうとする度に、プリンスが、呼び鈴を鳴らすのだと、彼は話した。
「3回だ、3回!」
じれて、侍従は叫んだ。
「3回もプリンスは、お前を呼んだ!」
どうやら彼は、司祭と二人きりになりたくないようだった。
……これは、よほど、告白したくないことを抱えているのだな。
モルは思った。
……よほど罪深い何かを、プリンスは、心に秘めておられるのだ。
それを胸に秘めたまま死んだら、彼は、本当に、天国へ行けないものだろうか。
……そんなこともあるまい。
モルは思った。
……彼は、本当は、優しく思いやりの深い人だ。
むしろ、ことさらに、死を実感させる宗教のあり方の方が、疑問だ。
……それに俺は、あの方と約束したからな。
……司祭と会う時は、必ず同席するって。
侍従について、モルは、プリンスの部屋へ戻った。
結局、最後までワーグナー司祭は、プリンスの告解を受けることができなかった。
*
「お前が看取る方がいいのやもしれぬ」
夕刻、出がけに、ワーグナー司祭は、留守居の僧に向ってつぶやいた。留守番役の僧は、まだ若かった。
……もはや、私ではダメだ。あの方は、私を信じてはいない。お心を許して下さらない。
このままいったら、終油の儀はおろか、臨終の時でさえ、ワーグナーは、プリンスの部屋に入れてもらえないかもしれない。
だが、プリンスと年齢が近いこの僧なら、彼も、終油を拒絶したりはすまいと、ワーグナーは思った。
……皇帝は、切望されている。
……彼が、キリスト教徒として、神に召されることを。
なぜ、彼が自分をここまで拒否するのか、ワーグナーなりの考えがあった。プリンスにとって、自分は、ハプスブルク家そのものなのだ。
煩わしい儀式、典礼、それらはすべて、何百年も続いたハプスブルク家のしきたりを具現していた。
彼を、
ワーグナーには、予感があった。
だが、彼は、外出を取り止めなかった。
幼いころからプリンスに宗教教育を授けてきたワーグナー師は、留守の間にその時が来たら、プリンスの死を看取る任務を、年若い僧に任せた。
微かに震え、年若い僧は、師に向かって頭を下げた。
*
その晩のプリンスの夕食は、アーモンドシロップと、柔らかな卵だった。ほんの数匙を、彼は、努力して、飲み込んだ。
生きるために。
生き残るために。
*
……今夜か。明日か。
マルファッティは思った。
……城を離れたら、ダメだ。なんとしても、彼の死に、立ち会わなければならない。
幸い、結核を認めなかったという「誤診」は、それほど、取り沙汰されなかった。
もっと派手な噂の主役達がいたからだ。
なかなか帰ってこなかった
死に瀕するまで、転地療法を許さなかった
これら華やかな悪役達の前では、マルファッティの「誤診」など、霞んでしまっていた。
今、マルファッティに必要なことは、「最後まで、ライヒシュタット公の治療に専念した」という事実だ。
夜9時頃、訪れていたマリー・ルイーゼが退出したので、マルファッティは、再び、プリンスの病室へ顔を出した。
……なんと。
そこには夜勤の医師、ニカー(※1)がいて、プリンスの胸部に、手をかざしていたのだ。
彼は、マルファッティの
……
昔、裁判で禁じられた。
だが、プリンスの病には、もはや手の打ちようがない。それなのに、なんとか彼の苦しみを鎮めてくれと、付き人らが呼びに来る。
苦し紛れに、ほとんど、やけくそで、マルファッティは、磁気療法を用いていた。
……付き人達には、絶対に口外しないよう、禁じてあったというのに……。
実際のところ、
マルファッティと違うのは、プリンスが、それを嫌がらなかったことだ。
プリンスは、無反応だった。
……効くわけがないではないか。
……それは、気休めだ。
マルファッティは、深いため息をついた。
間もなく、マルファッティは、退出した。
去り際に彼は、湿布と発泡剤(※2)を用意させた。
「夜中、もし、もし呼吸が弱まったら、使うように」
医師は、夜勤の医師はじめ、付き人達に指示した。
ベッドの上のプリンスも、これを聞いているようだった。
◆───-- - - -
※1 ニカー
夜勤の医師です。プリンスの病状が著しく悪化した6月下旬から、つけられていました。
※2 発泡剤
外用することによって、皮膚に水疱を引き起こし、治療します。皮膚や内科の病気に用います。飲用する場合もありますが、毒性が強いので、ごく微量を用います。ここでは、湿布と並んで「塗る」とあったので、外用です。
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