雲隠れ 6
外は、激しい雨が降り出していた。寒気が流れ込み、上空の熱い空気と混ざり合う。
稲妻が空を切り裂いた。
続いて、耳を聾するような雷鳴が轟く。
雷は、すぐ近くに落ちた。宮殿玄関口の上方に飾られた、鷲の像が直撃された。
ハプスブルクの鷲は、粉々になって、地上に墜ちた。
*
今回も、気圧が、プリンスの胸を押し広げたのか。
「馬車の用意はできたか?」
囁くような声が聞こえた。
……ナポリだ!
モルは、はっとした。
だが……、
……もし、用意万端、などと答えたら。
プリンスは、すぐにでも出発すると言い出しかねない。
そうしたら、何と言って止めたらいいのだ?
ナポリへ行くことだけが、今の彼の、心の支えだというのに。
「まだ仕上がっていません」
考えた末、モルは答えた。
プリンスは、癇癪を引き起こした。
「もし、僕の体調が良くなっても、みんなはまた、僕を止めるんだろう? 『馬車の用意がまだです』って!」
まるで小さな子どものようだった。
長いこと、期待を裏切られてきたのだと、モルは思った。
母の訪れも。
軍務も。
ウィーンから出ることさえ、決して許されずに、ここまで来た。
今、思いもかけず、メッテルニヒが、フランス以外ならどこへ行ってもいいと、許可を出した。
今更、彼がそれを信じられるわけがないではないか!
「大丈夫。準備はできてますよ、殿下。あと数回、試運転をするだけです」
最後の最後まで、彼の幻想に付き合おうと、モルは思った。
プリンスは、再び、眠りに落ちた。モルは、控えの間に退いた。
夜の2時半頃、モルは、再び、プリンスの様子を見に来た。
……呼吸はできている。
しかし、依然として苦しそうだった。胸の音も、がたがたと大きく聞こえる。
ただ、血痰が喉に詰まっている様子はなかった。
……それは、今夜ではない。
……少なくとも、明日の午後まで大丈夫だろう。
こんな状態でも、プリンスは、眠っていた。
その時の為に、自分の体力を、温存しておかなければならない。
モルは続きの間に戻り、ソファーで仮眠を取ることにした。
しかし、モルは間違っていた。
1時間ちょっと後、明け方の4時前に、侍従が呼びに来たのだ。プリンスが死にかけている、と。
慌てて病室に駆けつけると、彼は、細い声を上げていた。
「沈んでいく。沈んでいく……」
少しでも呼吸を楽にしようと、
上半身を抱え起こされ、プリンスは、喉をつまらせた。苦しそうに呻き、甲高い声で叫んだ。
「
……これは、一時的な錯乱か?
モルは、ためらった。
昨日から、プリンスは、子どもと大人の間を、行ったり来たりしている。
……もし、
母親を、不必要に脅かすべきではない。
再び、プリンスが悲鳴を上げた。
「テーブルをあっちへやってよ! もう、何もいらない……」
マリー・ルイーゼを呼びに行こうとしていた侍従が、ドアのところで立ち止まった。困惑した顔で、様子を窺っている。
プリンスが、身を竦めた。
突然、彼は、左手でモルの腕を掴んだ。右手を胸に持って行き、押し出すように言った。
「発泡剤……、湿布……」
掠れた声が途切れるのと同時に、目が、空中の一点に据えられた。鮮やかだった青い目が、まるで硝子になったように、表情が失われていく。モルの腕を掴んでいた手が、滑り落ちた。胸に当てられた右手も、力なく垂れた。
プリンスは、ベッドに沈んだ。
しばらく、誰も、動かなかった。
最初に動いたのは、軍人のモルだった。ドアの前で立ち竦んでいる侍従の横をすり抜け、彼は、
*
「
眠れ 眠れ 可愛い坊や
母の手があなたをそっと揺さぶるよ
穏やかな安らぎを、柔らかな休息を
あなたのために、浮かぶゆりかごを、持ってきましょう
眠れ 眠れ 甘い墓の中で
今も母の腕が守ってる
全ての願いも、全ての宝物も
それらを愛し、温かく愛して、とっておきなさい
眠れ 眠れ 綿毛に包まれた膝の上で
今もまだ、強い愛の調べがあなたを包んで
一本の百合と、一本の薔薇が、
眠った後のご褒美になる
」
(シューベルトの子守歌 歌詞)
*
続々と、人が集まってきた。
マリー・ルイーゼと、おつきのスカランピ伯爵夫人。
F・カール大公。
大公が、マルファッティ医師と、ハルトマン将軍に連絡を入れてくれた。
パルマの執政官、マレシャル。
そして、モルとスタン。
ワーグナー司祭は、城を留守にしていた。代わりに大公は、留守居の神父を呼び出した。留守居の神父は、まだ、若かった。死者を見送るのは、彼にとって、初めての経験だった。
病室に戻ってきたモルは、フランソワの言葉が失われたままであることに気がついた。死に向かい、彼は、弛緩し、穏やかでさえあった。
自分が戻ったことを知らせる為に、モルは、彼の手を握った。微かに、押し返す感触があった。
彼は、全てを認識しているのだと、モルは思った。
マリー・ルイーゼは、真っ青な顔をして、頭の先からつま先まで、震えていた。モルに支えられるようにして、ようやく、ベッドサイドまでやってきた。
ベッドサイドに立ち尽くし、彼女は、死にかけている息子に、声をかけることすらできなかった。
閉め切った室内は、蒸し暑かった。キャンドルの灯だけが、辺りを、ぼんやりとした金色に染めている。
部屋の中の、全ての人々が、跪いた。
ベッドに近づき、神父は、終油を施した。
マリー・ルイーゼは、椅子に崩れ落ちた。ぐったりと、椅子の背にもたれかかっている。弟のF・カールは、ベッドの足元の椅子に、腰を下ろした。
他の人達は、二人の後ろか、横に控えている。
ベッドの上の青い目が、神父のひとつひとつの動作を追っていた。
年若かったゆえだろうか。神父は、儀式に伴う、過度に感傷的な言動を避けた。
彼は、尋ねた。
「祈りの言葉を唱えたいですか?」
微かに、頭が横に振られた。
「では、私に唱えてほしいですか?」
これには、肯定的に頷いた。
神父は、自分の手をフランソワの額に当て、すぐに、組み合わされたその手に触れた。
低い祈りの声が、寛容を帯びた単調さで、部屋の中に立ち込めていく。
椅子に座ったまま、マリー・ルイーゼは、失神した。しかし、誰も彼女を、部屋の外に連れ出そうとしなかった。少しして意識が回復した彼女は、すぐにまた、跪いた。
5時を少し過ぎた頃。
フランソワは、前後に2回、頭を動かした。
呼吸が、止まった。
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