雲隠れ 6



 外は、激しい雨が降り出していた。寒気が流れ込み、上空の熱い空気と混ざり合う。

 稲妻が空を切り裂いた。

 続いて、耳を聾するような雷鳴が轟く。

 雷は、すぐ近くに落ちた。宮殿玄関口の上方に飾られた、鷲の像が直撃された。

 は、粉々になって、地上に墜ちた。







 今回も、気圧が、プリンスの胸を押し広げたのか。

 「馬車の用意はできたか?」

囁くような声が聞こえた。


 ……ナポリだ!

 モルは、はっとした。

 だが……、


 ……もし、用意万端、などと答えたら。

 プリンスは、すぐにでも出発すると言い出しかねない。

 そうしたら、何と言って止めたらいいのだ?

 ナポリへ行くことだけが、今の彼の、心の支えだというのに。


「まだ仕上がっていません」

 考えた末、モルは答えた。


 プリンスは、癇癪を引き起こした。

「もし、僕の体調が良くなっても、みんなはまた、僕を止めるんだろう? 『馬車の用意がまだです』って!」

 まるで小さな子どものようだった。


 長いこと、期待を裏切られてきたのだと、モルは思った。

 母の訪れも。

 軍務も。

 ウィーンから出ることさえ、決して許されずに、ここまで来た。


 今、思いもかけず、メッテルニヒが、フランス以外ならどこへ行ってもいいと、許可を出した。

 今更、彼がそれを信じられるわけがないではないか!



「大丈夫。準備はできてますよ、殿下。あと数回、試運転をするだけです」

 最後の最後まで、彼の幻想に付き合おうと、モルは思った。




 プリンスは、再び、眠りに落ちた。モルは、控えの間に退いた。




 夜の2時半頃、モルは、再び、プリンスの様子を見に来た。

 ……呼吸はできている。


 しかし、依然として苦しそうだった。胸の音も、がたがたと大きく聞こえる。

 ただ、血痰が喉に詰まっている様子はなかった。

 ……は、今夜ではない。

 ……少なくとも、明日の午後まで大丈夫だろう。


 こんな状態でも、プリンスは、眠っていた。


 の為に、自分の体力を、温存しておかなければならない。

 モルは続きの間に戻り、ソファーで仮眠を取ることにした。





 しかし、モルは間違っていた。

 1時間ちょっと後、明け方の4時前に、侍従が呼びに来たのだ。プリンスが死にかけている、と。





 慌てて病室に駆けつけると、彼は、細い声を上げていた。


「沈んでいく。沈んでいく……」


 少しでも呼吸を楽にしようと、夜勤の医者ニカーと、侍従ランバートが、助け起こそうとしていた。

 上半身を抱え起こされ、プリンスは、喉をつまらせた。苦しそうに呻き、甲高い声で叫んだ。


僕のお母さんMeine Mutterを呼んで! 僕のお母さんを呼んで!」


 ……これは、一時的な錯乱か? 

 モルは、ためらった。


 昨日から、プリンスは、子どもと大人の間を、行ったり来たりしている。


 ……もし、大公女マリー・ルイーゼ様が来るまでに治まってしまったら?

 母親を、不必要に脅かすべきではない。


 再び、プリンスが悲鳴を上げた。

「テーブルをあっちへやってよ! もう、何もいらない……」


 マリー・ルイーゼを呼びに行こうとしていた侍従が、ドアのところで立ち止まった。困惑した顔で、様子を窺っている。


 プリンスが、身を竦めた。

 突然、彼は、左手でモルの腕を掴んだ。右手を胸に持って行き、押し出すように言った。


「発泡剤……、湿布……」


 掠れた声が途切れるのと同時に、目が、空中の一点に据えられた。鮮やかだった青い目が、まるで硝子になったように、表情が失われていく。モルの腕を掴んでいた手が、滑り落ちた。胸に当てられた右手も、力なく垂れた。


 プリンスは、ベッドに沈んだ。


 しばらく、誰も、動かなかった。

 最初に動いたのは、軍人のモルだった。ドアの前で立ち竦んでいる侍従の横をすり抜け、彼は、母親Mutterを呼びに、部屋の外へ走り出た。







眠れ 眠れ 可愛い坊や

母の手があなたをそっと揺さぶるよ

穏やかな安らぎを、柔らかな休息を

あなたのために、浮かぶゆりかごを、持ってきましょう



眠れ 眠れ 甘い墓の中で

今も母の腕が守ってる

全ての願いも、全ての宝物も

それらを愛し、温かく愛して、とっておきなさい



眠れ 眠れ 綿毛に包まれた膝の上で

今もまだ、強い愛の調べがあなたを包んで

一本の百合と、一本の薔薇が、

眠った後のご褒美になる


(シューベルトの子守歌 歌詞)







 続々と、人が集まってきた。

 マリー・ルイーゼと、おつきのスカランピ伯爵夫人。

 F・カール大公。

 大公が、マルファッティ医師と、ハルトマン将軍に連絡を入れてくれた。

 パルマの執政官、マレシャル。

 そして、モルとスタン。


 ワーグナー司祭は、城を留守にしていた。代わりに大公は、留守居の神父を呼び出した。留守居の神父は、まだ、若かった。死者を見送るのは、彼にとって、初めての経験だった。




 病室に戻ってきたモルは、フランソワの言葉が失われたままであることに気がついた。死に向かい、彼は、弛緩し、穏やかでさえあった。

 自分が戻ったことを知らせる為に、モルは、彼の手を握った。微かに、押し返す感触があった。

 彼は、全てを認識しているのだと、モルは思った。




 マリー・ルイーゼは、真っ青な顔をして、頭の先からつま先まで、震えていた。モルに支えられるようにして、ようやく、ベッドサイドまでやってきた。

 ベッドサイドに立ち尽くし、彼女は、死にかけている息子に、声をかけることすらできなかった。




 閉め切った室内は、蒸し暑かった。キャンドルの灯だけが、辺りを、ぼんやりとした金色に染めている。

 部屋の中の、全ての人々が、跪いた。


 ベッドに近づき、神父は、終油を施した。


 マリー・ルイーゼは、椅子に崩れ落ちた。ぐったりと、椅子の背にもたれかかっている。弟のF・カールは、ベッドの足元の椅子に、腰を下ろした。

 他の人達は、二人の後ろか、横に控えている。


 ベッドの上の青い目が、神父のひとつひとつの動作を追っていた。

 年若かったゆえだろうか。神父は、儀式に伴う、過度に感傷的な言動を避けた。


 彼は、尋ねた。

「祈りの言葉を唱えたいですか?」


微かに、頭が横に振られた。


「では、私に唱えてほしいですか?」


これには、肯定的に頷いた。


 神父は、自分の手をフランソワの額に当て、すぐに、組み合わされたその手に触れた。

 低い祈りの声が、寛容を帯びた単調さで、部屋の中に立ち込めていく。




 椅子に座ったまま、マリー・ルイーゼは、失神した。しかし、誰も彼女を、部屋の外に連れ出そうとしなかった。少しして意識が回復した彼女は、すぐにまた、跪いた。




 5時を少し過ぎた頃。

 フランソワは、前後に2回、頭を動かした。

 呼吸が、止まった。








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