メッテルニヒとの最後の対決 2
安産だったと聞いて、ライヒシュタット公は、ことのほか、喜んだ。
「お祝いに、大公方も、たくさんお集まりでした」
メッテルニヒが報告すると、彼は、首を傾げた。
「
……なぜ、ここでフェルディナンド大公が?
怪訝に思いながらも、メッテルニヒは答えた。
「ええ。甥御さまのご誕生を、殊の外、喜んでおられました」
あの大公に、ものを考える力があるのなら。
「お元気なのですね」
「はい」
「なるほど」
乾いた、無機質な声だった。
フェルディナンド大公夫妻もまた、しばしば、
軍の付き人が、プリンスの具合が悪いと言って、部屋に入れてくれないのだそうだ。
日嗣の皇子である、フェルディナンド大公を。
……ここだけの話ですが、ライヒシュタット公は、我らが
大公の従者が、ひどく不満げに、話しているのを、メッテルニヒは聞いていた。
……プリンスが大公を嫌うのは、当然かもしれぬな。
フェルディナンドに、政治能力はない。政治だけでなく、あらゆる生活能力がない。
サルディニアから妻を娶ったが、あれは、形だけのことだ。
即位の準備は、着々と整えられている。
メッテルニヒの手で。
自分の独裁を嫌う者たちがいることは、メッテルニヒも知っていた。死んだゲンツなどは、その急先鋒だった。
彼らは、フェルディナンド大公の死を、望んでいる。
フェルディナンド大公さえいなければ、メッテルニヒが摂政になるなどということは、ありえないからだ。反乱分子達は、メッテルニヒが、今以上の権力を握ることを、恐れていた。
大公暗殺計画の黒幕は……ライヒシュタット公だという噂さえあった。
つまり、プリンスは、体よく利用される可能性があったのだ。
反メッテルニヒ派の重鎮たちから。
ある考えに、メッテルニヒは、慄然とした。
「プリンス。ナポリへは、何をしに?」
「療養ですよ、さきほども申し上げた通り」
プリンスは、落ち着き払っていた。
なおも、メッテルニヒは続けた。
「つい、数ヶ月前までなら、私は、身を挺しても、お止めしたでしょう。オーストリア皇帝の孫であるあなたは、イタリア革命の敵でしたから。しかし、革命は鎮圧され、反乱分子は、四散しました。モデナ公国からは、1000丁のイタリアの短刀(ライヒシュタット公の暗殺者を指す)が処分された、との報告も寄せられました。ここ、ウィーンにおいても、」
メッテルニヒは言葉を切った。
……ペッリコは死んだ。マルファッティの仲間で、資金を流す役割の。
かすかに残る笑みを消すことなく、プリンスが応じた。
「僕のために、お手間をおかけしました」
「それが、私の仕事ですから。もう、大丈夫ですよ、プリンス。今、イタリアへ行けば、あなたは、歓迎されるでしょう」
……イタリアの民から。
……名もない、労働者たちから。
……革命の継承者、ナポレオンの息子として。イタリア統一の象徴として。
にっこりと、プリンスは微笑んだ。
メッテルニヒは、質問を重ねる。
「いずれあなたは、フランスへ行かれるおつもりですか?」
「それも、以前、お答えしました。僕は、連合国のおもちゃになるつもりは、ありません」
「絶対に、行かれないと?」
「お言いつけは守りましょう」
……ライヒシュタット公に於かれては、フランスを除き、どこの国でも、好きな所へ行かれてかまわない。
6月に、メッテルニヒは、声明を出している。
……フランス以外なら。
「絶対に?」
「あなたが生きている間は」
「……」
メッテルニヒは絶句した。
半分死にかけた身でありながら、彼は、メッテルニヒより長く生きるつもりでいる!
そして、彼が、イタリアで成し遂げたいこととは……。
……イタリア統一か!
「ですが、プリンス。イタリアには、法王庁があります」
強く、主張した。
「
……そうか!
……その手があったか。
イタリアを統一し、その代表としてフランスへ帰る。
そうすれば、オーストリアは、一切、手出しができない。プリンスは、オーストリアの影を、完全に払拭することができる!
……フランスは、喜んで、ナポレオンの息子を迎え入れるだろう。
そして、ここ、オーストリア。
フェルディナンドの後を襲うのは……、
……フランツ・ヨーゼフ、あるいは、昨日生まれた赤児……ゾフィーの生んだ子どもが、即位する。
……昨日洗礼を受けた赤児は、ライヒシュタット公の……。
事実かどうかは、重要ではなかった。大事なのは、世界がどう見るか、だ。
もし、生まれたばかりの赤子を……あるいは、その兄のフランツ・ヨーゼフさえも……ライヒシュタット公の子だと、世界が認識したら。
「2冠を、ひとつの頭に集めることは、許されません」
……
……永遠に救われることのない、破戒の道を。
「それは、破門を意味します」
イタリアからの、ヨーロッパ統一。
かつて、確かに、彼にはそれが、可能だった。
無限の可能性を秘めた、恐ろしい青年。
仇敵、ナポレオンの息子は、いつの間にか、父親以上の怪物になっていた。
あるいは、救世主になっていたのかもしれなかった。
メッテルニヒが邪魔をしなかったなら。
多民族国家であるオーストリアは、最初から、さまざまな矛盾を抱えていた。その上、工業化が遅れ、また、積極的に植民地を持たなかったことから、イギリスやフランスにも、立ち遅れていた。
またドイツでは、すでにプロイセンが力をつけつつある。オーストリアを差し置き、ドイツの盟主となるのは、時間の問題だ。
メッテルニヒの旧体制は、あちこちで、綻び始めていた……。
「……」
ライヒシュタット公は、答えなかった。
彼は、椅子の背もたれに、のけぞるようにして、目をつぶっていた。
呼吸が荒い。
それなのに、彼は、眠っていた。
苦しそうに、時折、眉間に皺を寄せながら。
……俺は、何を怯えているのだ。近く、この青年は死ぬ。間違いなく。確実に。
ここにあるのは、破れた夢の残骸だと、メッテルニヒは思った。
その夢を破壊したのは、他ならぬメッテルニヒ自身だ。
ひどくやつれ、頬骨が高く浮き出たその顔を見ていると、メッテルニヒの胸に、いいようのない虚しさが迫り上がってきた。
ヨーロッパの
自分の、この手で。
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