メッテルニヒとの最後の対決 1
7月6日。
F・カール大公とゾフィー大公妃の間に、第二子が生まれた。
男の子だ。
マクシミリアンと名付けられたこの子は、ナポレオン3世との間に、数奇な運勢を辿ることになる。
なお、ゾフィー大公妃は、出産の前日まで、ライヒシュタット公の部屋を訪れ、甥を励ましていた。
*
翌日。
シェーンブルン宮殿の教会で、
久しぶりで離宮を訪れたメッテルニヒは、病床のライヒシュタット公の元に立ち寄った。
……なんだこれは。
……痩せたなんてもんじゃない。がりがりじゃないか。
驚愕とともに、メッテルニヒが感じたのは、憐れみだった。
同情といってもよい。
彼は、かつての仇敵の息子を、はるか高みから、余裕を持って見下ろした。
自分が
轡が完璧に機能し、もはや脅威ではなくなった、かつての帝王の息子を。
プリンスは、フロック姿で、椅子に座っていた。
青白い顔に、微笑を浮かべている。
「ベランダでお迎えしたいのですが、とても暑いので」
ひどくかすれた声で、彼は言った。
ベランダには、日覆いがしてあった。そこにいる人を、外からの視線から隠すためだ。
やせ衰え、一人で歩くことさえできない、このプリンスを。
事前に言われていた通り、メッテルニヒは、プリンスの右側に座った。左の耳は、すっかり聞こえなくなっているらしい。
……ナポレオンの息子。
どれだけ自分は、このプリンスを恐れたことだろう。
その才能を。
華やかな魅力を。
人を操る能力を!
だが今、目の前にいるのは、まるで、抜け殻のようだった。
秘跡の儀を終え、母にも会い、あとはひたすら、死を待つだけの……。
イタリア行きの話をすると、彼は喜ぶと、聞いていた。今や彼にとって、ナポリは、ユートピアだという。そこへ行きさえすれば、病は治り、全ては思い通りにいく……。
死にかけている仇敵の息子を、少しばかり喜ばせてやろうと思った。
「プリンスは、ナポリへ行かれるそうですね」
……それにしても、なぜ、ナポリなのだ?
……パルマでもベネティアでもなく。
どうして、オーストリアの支配地域でないのか。
わずかな不安が、ないわけでもなかった。
「ええ」
微笑んで、プリンスは答えた。病んでいてもなお、優雅な微笑だった。
「サレルノ公のご紹介ですか?」
続けて、メッテルニヒは問うた。
サレルノ公は、
サレルノ公の甥が、
両シチリア王は、ブルボン家の流れを汲んでいる……。
「いいえ」
意外そうに、プリンスは首を横に振った。
「ナポリは、美しいからです。乾いた空気と穏やかな気候が、僕の病にとてもいいと聞きました」
「モーリツ・エステルハージから?」
あるいは、グスタフ・ナイペルクか。
仲のいい二人を、プリンスのそばから追い払う為に、ナポリへやったのだが……。
プリンスは、笑い出した。
「それも違います。僕にはもう、彼らに手紙を書く力はありませんからね。そして、彼らからの手紙は、僕の元まで届かない」
3人の
「それでも、ナポリで彼らに再会できたら、僕はとても嬉しいです」
やつれた顔が、幸せな記憶に綻んでいる。
花開く前に、今まさに、摘まれようとしている彼の、青春の記憶。
普通の青年として過ごした、ほんのわずかな、幸福な時間……。
思わず、メッテルニヒはつぶやいた。
「ナポリを見てから死ねと言いますものね」
言ってしまってから、舌打ちをした。
……死ね、は、まずい。
……特に、この自分が言ったのなら。
矢継ぎ早に、メッテルニヒは、ナポリの魅力を並べ立てた。
「サンタ・ルチア港から見えるヴェスヴィオ火山は、絶景です。ヴァメロの丘から眺める町並みも、素晴らしい。街なかには、至るところにギリシアやローマの建築が残り、時間を忘れさせてくれます」
「……へえ。見てみたいな」
「食べるものもおいしいですよ。イタリア料理は、素材の味を大切にしますからね。新鮮な魚介、野菜、肉……」
メッテルニヒは、言葉を途切らせた。
プリンスには、もう、食べることはできなかろう。
穏やかに、彼は、笑っていた。
メッテルニヒも、微笑んだ。
「滞在される
「お願いします、ご迷惑でなかったら」
ひどく素直だ、と、メッテルニヒは思った。
死が近づくと、ナポレオンの息子でさえも、素直になるのだろうか。
こんな風に硬直して椅子に座り、
確かに体の苦痛を耐えているのに、
穏やかに微笑みながら……、
本物の気品に触れた気がした。
「ナポリへは、ハルトマンやモル、スタンも連れていくつもりです」
……おや。
……プリンスは彼らを、私のスパイだと疑っていると聞いたが。
それは、半分当たりで、半分はずれだった。
どちらかと言うと、彼らは、皇帝のスパイだった。もちろん、彼らの報告は、メッテルニヒのところにも上がってくる。
しかし、たとえば、メッテルニヒは、付き人のモルに、つけている日誌を提出せよと命じた。だが、彼は、提出しなかった。
……「日誌には、私に関する昇進や人事について書いてあるばかりで、宰相のご興味を引くような記載はありません」
すまして、モルは答えた。どうやら、その直後にひそかに焼き捨てたらしい。
……いったい、何が書いてあったのやら。
何気ない口調で、メッテルニヒは答えた。
「彼らは、どうでしょう。ハルトマン将軍には、辞任の意思があるようです。将軍から、後任人事についての意見が出されています」
「えっ!」
プリンスは、驚いた顔をした。
初耳だったようだ。
「将軍は、後任に、ホヨス伯爵を推薦しています」
「モルとスタンも、辞任するのですか?」
「さあ。ただ、ハルトマン将軍から、彼らの昇級について、打診がありました。遠からず二人は、軍へ帰るのでしょう」
「軍へ帰る……」
秋風のような声が、吹き抜けた。
今も続く憧れと、寂しさ。
希望に満ちていた頃の記憶と、絶望。
……心配しなくてもいい。
メッテルニヒは思った。
ハルトマンは、プリンスについてイタリアへ行く気はない、と言っただけだ。モルとスタンの軍務復帰は、プリンスの病気が治ってから、と聞いている。
……病気が治る?
……あり得ない。
つまり、3人とも、プリンスの死を看取るつもりでいるということだ。
……第一、あのモルが、プリンスから離れるわけがないではないか。
ただ、それは、小気味よい瞬間だった。恐らく、初めてのことではなかろうか。
……メッテルニヒが、プリンスの顔に、驚愕の表情を認めたのは。
だが、短時間で、それらは全て、跡形もなく消え去った。まるで、波に洗い流されたようだった。
「宰相は、ゾフィーの赤ちゃんには、お会いになりましたか?」
プリンスが尋ねた。
静謐なほど、穏やかな表情に戻っている。
「ええ。ここへ来る前に」
「どんな子でしたか?」
……赤ん坊なんて、みな、同じようなものだ。
思いながら、メッテルニヒは答えた。
「とてもおかわいらしい赤ちゃんでした」
「僕に似ていましたか?」
問いかけという感じではなかった。断定的な口調だった。
そうであらねばならぬ、とでもいうふうな……。
……あんな、ふにゃふにゃした生き物、誰に似ているかなんて、わかるものか。
メッテルニヒは、鹿爪らしく考えた。
「そうですね。お口の辺りとか……」
ハプスブルク家らしからぬ、優美な口元だった。
宰相の返事を聞き、プリンスは、満足そうだった。
「よかったです。僕に似てて」
「お従兄弟さん同士ですから、似ていて当然です」
ゾフィー大公妃との不倫の噂は、もちろん、メッテルニヒの耳にも入っていた。
大公妃のお腹の子どもは、ライヒシュタット公の子だという説も、密かに囁かれ始めてもいる。
確かに、身重の彼女は、なにくれとなく、ライヒシュタット公の世話を焼いていた。このシェーンブルンでも、自分の部屋……それはかつて、ナポレオンが使った部屋だ……を彼に譲っている。病の甥の為に、椅子を特注し、頻繁に見舞いにも訪れている。
しかし、懐妊の時期を考えれば、彼の子でないことは明らかだ。
昨年の11月といえば、宮廷がシェーンブルン宮殿から、ホーフブルク宮殿へ戻ってきた頃だ。ライヒシュタット公は、人を寄せつけない頑なさで、憂鬱の淵に沈んでいた。
軍の付き人達の話によると、疲れやすく、日中でも眠り込んでいたという。
すでに、結核が、相当、悪くなっていたのだろう。
……根も葉もない。ただの噂だ。
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