ヴァーラインを連れていく
そもそも前回の喀血の後、彼の容態は、一時的に上向いていた。だが、強引に秘跡の儀を受けさせたことにより、精神的に、ひどいダメージを受けてしまった。
マリー・ルイーゼの到着は、まさにその、どん底の時だった。
母の顔を見て安心したのだろう。気持ちの上では、いくらか、もち直すことができた。だが、実際の病状はそうではなかった。
眠ってばかりで、殆ど食べない。スープ皿を持った侍従が、途方に暮れて、部屋の真ん中で立ち尽くしていたこともあった。
6月30日。
再び、大きな喀血があった。
これが、一時的な解放を、プリンスの肺に齎した。恐らく、肺に溜まった膿が、排出されたのだろう。
喀血の翌日から毎日、彼は、立ち上がりたいと言い続けた。
しかし、まだ、体力が追いつかない。
そもそも喀血と共に、血液や栄養分を、放出してしまっているのだ。生命力を手放しているようなものだ。
もはや食事もままならない状態だ。度重なる喀血は、非常に危険だった。それでも、プリンスは、起き上がりたがった。歩きたがった。外へ出たがった。……夢へ向かって。彼が、なすべきことをなす為に。
……プリンスを励ますには、ナポリの話をするに限る。
モルは知っていた。
ナポリへいくと言えば、プリンスは、夢中になる。ひどく具合が悪い時でも、幾分かは、元気になるような気がする。
それでモルは、ことあるごとに、ナポリ行きの話題を出してきた。
旅程。
行路。
途中で立ち寄るべき都市の数々。
様々なことを、二人は話し合った。
……絶対に行くことのない、南の国。
……砂上の楼閣を、自分たちは重ねているに過ぎない。
叶うことがないと知りつつも、モルは、この話題を出すことを止めない。
4日後。
ついにプリンスは、ベッドから起き上がることができた。実に、13日ぶりのことだった。
しかし、一人では歩けなかった。侍従やモルらの助けを借りて、彼は、久しぶりに、バルコニーへ出た。
暑さの和らいだ、久しぶりに穏やかな日だった。辺りは、芳しい夏の空気に満ち満ちていた。
「ナポリへは、ヴァーラインも連れて行く」
唐突に、プリンスが、言い出した。
「ヴァーライン? どなたです?」
順々に聞いてみると、ヴァーラインは、フランス料理のコックだという。以前、プリンスが、直接、召し使っていた。
ところが、ある時、マリー・ルイーゼが、パルマのフランス料理がまずいとこぼしたので、母の国へ行かせた、ということらしい。
「なるほど。そんなことがあったんですね」
「ナポリには、信頼できる料理人を連れていきたい。毒を盛られるなんて、まっぴらだ」
これだけ管理が厳重なのに、プリンスは、毒を警戒している。
だから、信頼できる料理人がほしいというのだ。
……今更、この人を毒殺してどうなるというのだ。
……だって彼は、すでに死にかけている……。
「しかし、ことは、それほど簡単ではありません」
モルはわざと、顔を顰めてみせた。
「パルマの宮廷人事は、執政官のマレシャルの管理下にあります。彼は、大敵です」
マレシャルの事務処理能力の高さは、モルに感銘を与えていた。
……これは、なかなか手ごわい。
そう思う瞬間が、何度かあった。
鹿爪らしく、モルは述べ立てた。
「パルマの宮廷から、ヴァーラインを取り戻すのは、容易なことではありません」
それでも、プリンスは、どうしても、ヴァーラインがほしいという。
モルは、プリンスを応援したかった。
なにか、計略や目論見があれば、彼は、生きる力を取り戻すかも知れない。
午後。
いつものように、マリー・ルイーゼが、短い見舞いに訪れた。
すると、母に向かいプリンスが、胃が圧迫されて苦しい、と、打ち明けた。
……胃が圧迫、って。
……彼が今日、口にしたのは、3匙のスープと、12粒のさくらんぼだけだぞ。
部屋の隅で聞いていて、モルは怪訝に思った。
「まあ、大変!」
マリー・ルイーゼは慌てた。
「マルファッティ先生に相談しなくては! すぐにでも新しいお薬をだしてもらわなくてはいけないわ」
信用していなくても、悪人だと思っていても、マリー・ルイーゼには、侍医を変える力はなかった。
未だに、マルファッティが侍医の座にいる。
もっとも、世間に名高い名医……しかも彼は、シェーンブルン宮殿に毎日通えるようにと、引っ越しまでした……と。
息子が危篤でも、なかなか帰ってこなかった母親。
どちらに信用があるかは、明らかだった。
薬と聞いて、プリンスは、首を横に降った。
「ヴァーライン」
かすれた声で、つぶやく。
「フランス料理が食べたいのね」
マリー・ルイーゼには、何のことか、すぐにわかったようだ。
「かわいそうに。やっぱり、小さい頃、口にしたフランスのお料理が恋しいのね。わかったわ。すぐに、ヴァーラインを返してあげる」
……やるじゃないか。
モルは感心した。
プリンスは、オーストリアの料理は、体調に合わないと、母親に訴えた。
口になじんだ、フランス料理が食べたい、と。
今、彼の策略に嵌った母が、見事、ヴァーラインを返すと言っている。
プリンスは、あのマレシャルを、出し抜いたのだ。
ちらりと、プリンスがこちらを見た。
大きく、モルは頷いてみせた。
この頃、無表情でいることが多かったプリンスの表情が、ぱっと明るくなった。
モルは、嬉しかった。
かつての、プリンスを見た気がする。
当時は、モル自身が、プリンスからやり込められる立場であったわけだが。
プリンスのいたずらに加担できた喜びに、モルは、天にも上る心地だった。
……彼は、彼だ。
……たとえ、死の縁にあろうとも。
……。
そうだ。それでも彼は、死ぬのだ。
喜びの彼方から、黒い悲しみが、黙々と湧き上がってくる……。
――――――――--------
※
ヴァーラインは、フランスのユゴーとエミールが送り込んだ料理人です。
食事に毒が盛られる(毒は、緑の皿に仕込まれていました)に及び、アシュラが手配しました。(5章)
しかし、フランソワはヴァーラインを、母親に譲り渡してしまっていました。
(7章「1830年、夏の思い出」)
緑の皿事件はフィクションですが、当時(1827年夏)、ライヒシュタット公が、著しく体調を崩したことと、ヴァーラインというフランス料理の料理人が存在したこと。及び、ヴァーラインを、パルマの母親に譲り渡してしまったこと。
そしてこの時期、ライヒシュタット公が、彼を取り返したいと考えていたことは、本当です。
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