香具師と付き人
シェーンブルンの城門付近に、人が集まっている。
「お兄さん、お兄さん!」
ハルトマンと並んで歩いていたモルは、後ろから、ぐいと、腕を掴まれた。
奇妙な服を着た老婆だ。黒と紫の毒々しい色をした、長いローブを纏っている。ただし、ひどくみすぼらしい。
「お兄さんは、ライヒシュタット公の付き人だろう? おかわいそうな、肺病のライヒシュタット公の」
ああまたか、と、モルは思った。
魔術師風。医者風。森の番人風。
秘跡が行われた頃から、シェーンブルン宮殿の前には、このような異様な風体の人々が、続々と集まってきた。
彼らは、オーストリア中、いや、ヨーロッパ中からやって来る。
怪しげな、「特効薬」を手にして。
「ほら、これをごらん! 肺病によく効くお薬だ。スプーンで掬って飲むんだ。3匙ずつ、毎日だよ!」
壺に入った、怪しげなスープのようなものを、突き出す。
「へえ、そりゃ、何で出来てるんだい?」
モルが叱りつけて追い返そうとしたところへ、ハルトマンが口を出した。
我が意を得たりとばかり、老婆はまくしたてる。
「魔女の吐息と、ヒキガエルの絞り汁、それから、……ああ、此処から先は、ちょっと教えられないね」
「ふむ。その黒い色は、何かね」
「将軍、お目が高い!」
明らかにモルより位の高いハルトマンが興味を示したことで、老婆は、有頂天だった。あちこちで、「薬」を売りつけて来たのだろう。慣れた口調で、滑らかに続ける。
「この色こそが、薬の真髄、特効成分! どろりとした濃い成分が、お気の毒な王子様の肺に作用して、必ずや、咳を止め……」
「コーヒーですよ」
匂いを嗅いで、モルが指摘した。
露骨に、老婆が嫌な顔をする。
「殿下は、不眠に苦しんでいらっしゃるのだ。それなのに、コーヒーを常用させてどうする!」
吐き捨てて、モルは立ち去ろうとした。
「将軍、将軍!」
老婆を突き飛ばし、白い上っ張りを着た男が出てきた。モルを無視して、ハルトマンに直接話しかける。
「肺病には、昔から、カタツムリでさ。それも、生きているのを丸呑みするといい。ほら、ここに、64匹のカタツムリがいる。今朝早く、森の奥で捕まえてきたばかり、獲れたて新鮮! 64個全部食べ終わる頃には、王子様の肺病は全快すること、請け合いでさ!」
「なに、全快?」
モルを追って歩き出そうとしたハルトマンの足が止まった。
「詳しく聞かせてくれ」
「ハルトマン将軍!」
振り返って、モルは叫んだ。
「すでに殿下は、流動物しか、口にすることができません。カタツムリなど丸呑みしたら、窒息してしまいます!」
「だったら、焼いてすりつぶして……」
モルに向かい、男がしつこく紙箱を突き出してくる。
生臭い匂いが立ち上り、モルは、顔を顰めた。
「生きたまま丸呑みするんだろ? 焼いたら、死んじまうだろうが!」
腹が立って腹が立って、たまらなかった。
それなのにハルトマンは、また、別の
彼は、モルと違い、こうしたペテン師達を、丁重に扱っている。
万が一でも、プリンスに効く薬があるかと、希望を持っているのだ。
「モル! おおい、モル!」
やっとハルトマンが、香具師達の長広舌を聞き終わり、宮殿に入ってきた。
従者控室の、モルの隣に、でんと腰を下ろす。
「なあ、モル。お前、これからどうするつもりだ?」
モルは、所持品の目録づくりを命じられた。その一方で、ハルトマンは、どうやら、パルマへの出仕を打診されたようだった。
ただし、現状の地位を保持し、出世は見込めないという。
「もちろん、俺は断った。俺は、帝国軍人だからな。オーストリア皇帝の将軍としての、誇りがある」
ハルトマンは、肩を聳やかせた。
「だが、それでわかった。マレシャルは、どうやら、相当のやり手のようだぜ?」
「やり手?」
モル自身は、
「うん。殿下の、20人ほどいる付き人たちは、全員、職を失うわけだろう? だが、領土は没収される。プリンスご自身は、財産らしい財産をお持ちでない。ライヒシュタット家の付き人達は、一文無しで露頭に迷うわけだ。俺は、彼らに、少しでも退職金をあげられるよう、頑張ってみたんだ……」
……「お生まれになった時に、パリ市から貰った黄金のゆりかごを売ったらどうだろう」
ハルトマンは提案してみた。
「ゆりかごは、売れないと、マレシャルは言うんだ。いろいろと物議を醸すからな、政治的に」
……売ってしまえばいいのに。
モルは思った。
彼は、パリ市が献上したという、金のゆりかごが嫌いだった。
ゆりかごを見つめる、プリンスの目が、嫌いだった。なんだか、自分たちを置いて、遠くへ行ってしまいそうな気がする。
このゆりかごには、彼を連れ去る魔力があるような気が、モルは、してならない。
なぜ、売ってはいけないのだろう。物議がなんだというのだ。フランスとの縁など、とうの昔に切れている。
「ついでだけどな、モル。俺はお前の昇進を、軍の上層部に推薦しておいたよ」
(※メジャー:1830年、実務へ就くに先駆けて、プリンスが昇格したランクです)
モルは、上官の好意に感謝した。
彼は、乗馬のライセンスを取るなど、営々と昇進の為の努力を重ねてきたのだ。
「それでは、プリンスが回復し次第、私も、軍への復帰を、願い出てみます」
「回復……」
ハルトマンは複雑な顔をした。ぼそぼそと、彼は口にした。
「秋になったらプリンスは、ナポリへ行くんだろ? 俺は、プリンスがナポリへ行くことになったら、付き人の仕事は辞めるつもりでいる。……」
秋になったら、ナポリでの療養を提言する。
医師団は、そう言っている。
……プリンスに、秋など来ないというのに。
今に至っても、
ハルトマンは、ため息を吐いた。
「病気になる前も後も……、どうも俺は、彼の役に立てていない気がする」
それは、正しかった。
プリンスの軍務における能力は高い。知識は、ハルトマンを遥かに凌駕している。
彼には、ハルトマンに導かれる必要はない。
「そもそも、今のこの状態では、よくないと、俺は思うんだよ。俺らには、皇帝に報告の義務がある。だが、それじゃ、俺とプリンスは、何もできやしない。つまりその、俺は、自分の名誉を犠牲にするのではないかと、恐れているのだ」
それは、モルも、思わないでもなかった。
皇帝の命令とはいえ、プリンスの女性関係を壊す仕事は、本当に、骨が折れた。
あれが、軍人の仕事とは思えない。
その上、それが原因で、プリンスとの仲がぎくしゃくしはじめたのだと、今では思う。
付き人になったばかりの頃、彼との関係は、とても良好だったのに。
「それにさ。イタリアくんだりまで行って、もし、クビになったら、どうするんだ? 俺は、じゃがいもを植えるしかなくなっちまうだろうが」
ディートリヒシュタイン伯爵あたりが、自分たちを解雇してくれないものかと、ハルトマンは嘆いた。
……それはないんじゃないか?
モルは思った。
ディートリヒシュタインは、すでに、プリンスから離れている。
「俺の後任には、ホヨス伯爵がいいと思っているよ。彼なら、皇帝に反する暴君を育てる気概だってある。まあ、状況に応じるが」
つまり、ハルトマンは、プリンスはいずれは、皇帝に弓を引く可能性があると考えているのだ。
皇帝に忠誠を誓いながら、プリンスに従うことはできないと、彼は、悩んでいる。
……何があっても、俺は、プリンスに従う。
モルは思った。
……たとえそれが、皇帝に逆らうことであっても!
……面白いじゃないか。あのプリンスと、一緒に、何かするのは!
それが何であるかは、モルには、わからない。今もプリンスの頭にある何か……。遠大な企み……。
だが、そんな未来が来るわけがない。
プリンスの容態は、日増しに悪くなる一方だった。彼は死なないと思っているのは、
ずっとマルファッティ医師の「誤診」を信じ続けていた彼は、ディートリヒシュタインや、マリー・ルイーゼらから、多大な反感を買いながら、それでもまだ、プリンスの回復を信じている。
「それで、お前はどうする、モル」
「プリンスが回復したら、私も、付き人を辞任したいと考えています」
即座にモルは答えた。
自分は、プリンスの付き人を辞任しない、などと言って、
だが、モルは知っている。プリンスは、回復などしない。だから自分は、ずっと、プリンスに付き従っていられる。彼が死ぬまで……。
希望を持つには、モルは、あまりにも現実的な人間だった。
*
夕方。
スタンとの交代の時間が来た。
モルは、宮殿の、長い廊下を歩いていく。
その彼の足元を、黒い何かが、疾風の如くすり抜けていった。
黒猫だ。
すぐ後ろを、鼠が追いかけている。尻尾の先が、曲がった、ドブ色のネズミだ。飛び上がって、猫のしっぽに噛みつかんばかりの勢いだ。
モルは、自分の目が信じられなかった。
……普通、逆だろ?
「おい、あれを見たか?」
思わず、そばにいた侍従に話しかけた。
「はい?」
「黒い猫だよ。鼠に追いかけられていた」
何を言っているんだとばかりに、侍従は肩を竦めた。
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