ベートーヴェンの主治医
……そうすると、私は、成功したのだな。
故シュタウデンハイム医師と、彼の二人の同僚の診断書を指先でとんとんと叩きながら、宰相メッテルニヒは考えた。
……私は、手綱をつけることに、成功したのだな。
……彼に。ナポレオンの息子に。
深い安堵の息が、色の悪い唇から漏れた。
「1827年夏の、バーデンでの不調が、ライヒシュタット公の肺の奥に押し込められていた結核を、目覚めさせたと思われる。なお、結核は、それよりずっと以前の罹患と推測される」
シュタウデンハイムは、そう、但し書きをつけていた。さらに、彼は、付け加えていた。
「バーデンでの不調は、なんらかの薬物が、その原因であった可能性がある」
バーデン城でのプリンスの不調は、当時のシュタウデンハイムの診断では、「思春期の一般的な不調」であったはずだ。(※1)
誠実なこの医師は、自らの誤診を、仄めかしたのだ。
彼にとって最後になってしまった診断書で。
……薬物。
メッテルニヒは、じっと一点を見据えた。
「ただ一つだけ、貴侯に言っておこう」
カール大公の言葉が、脳裏に蘇る。
「この件に関して、
関わりがないなどということは、ありえない。
彼女以外、それを成し遂げられる強い動機と意思を持つ者は、ブルボン家には、存在しない。
ウィーン宮殿にいるナポレオンの息子に、毒を盛る、などという、思い切った真似のできる者は。
……決まりだな。
メッテルニヒは思った。
毒殺そのものは失敗した。だが、彼女の差し向けた毒が、ライヒシュタット公の肺で眠っていた結核を、目覚めさせたのだ。
死にゆく自らの娘を使い、ずっと以前に、メッテルニヒが仕込んでおいた結核を。
……マリー・アントワネットの遺児が、ナポレオンの息子に宿る、死病を目覚めさせた。
この考えは、宰相の気に入った。
革命で犠牲になった者の子が、革命を利用してのし上がってきた者の子を、追い滅ぼすのだ。
……さて。次の侍医を決めねばなるまい。
宰相は、ベルを鳴らして、官吏を呼んだ。
*
ドナウ川べりの、カフェ。
店の外のオープンスペースに、二人の男が、川を向いて腰掛けている。
「君が煙草を吸うから、店から追い出されたじゃないか」
男の一人、マルファッティは言って、コーヒーを口に含んだ。
ヨーハン・マルファッティ・フォン・モンテレッジオ。
高名な医者である。
細長い顔、深く刻まれた皺、高く尖った鼻。
イタリア人のマルファッティは、ベートーヴェンの主治医だったことでも知られていた。偏屈な作曲家は医者を罵り、両者はケンカ別れをした。だが、ベートーヴェンの死に臨んで、マルファッティは、再び、彼を診察している。
同じ様にベートーヴェンと袂を分かち、以後、一切、診察に訪れなかった故シュタウデンハイムと比べ、マルファッティは、親切な名医との評判が高い。
マルファッティの隣には、肌の浅黒い、鋭い目つきの男が座っていた。彼は、マルファッティが啜るコーヒーへ、剣呑な眼差しを向けた。
「紫煙は、人間の頭脳を曇らせる? カフェの店主めが、しゃれたことをぬかす。東方から来た豆の絞り汁は、頭をすっきりさせるとでも言いたいのか」
「実際に、コーヒーは、頭脳を明瞭にする働きがあるようだ。少なくとも、眠気は解消される」
「そんなものに頼らなくても、これから俺がする話を聞けば、あんたの眠気など、吹っ飛ぶだろうよ」
男は、辺りを見回し、他に人がいないのを確かめた。
マルファッティに向き直った。
「革命は、近い」
「イタリアか?」
「まずは、フランスだ」
「なるほど」
「送金を頼む」
「わかった。いつも通り、為替で」
男は立ち上がった。
「コーヒーは、性に合わない。俺は、居酒屋に行く。マルファッティ。あんたも来るか?」
「悪いが、往診があるんでね。これを飲んだら、仕事だ」
「よく働くな」
「カルボナリに送金するためだ」
マルファッティは笑った。
同志は、彼に背を向けていた。
笑顔が、ふっと立ち消えた。
マルファッティには、イタリアへの送金が、重荷になり始めていた。
*
マルファッティは、ウィーンの開業医だった。医院に帰ると、かつて、彼の元で助手を務めていたアンドレアス・ベルトリーニ(※2)が来ていた。
ベルトリーニは、マルファッティの助手のレーリッヒ(※3)と、熱心に話し込んでいた。
「それでも私は、ベートーヴェンが大好きだったし、最後まで、彼に対して誠実でありたいと思っていた」
マルファッティがベートーヴェンの主治医を務めていた頃、ベルトリーニもまた、ベートーヴェンと親しかった。
しかし、マルファッティとベートーヴェンが喧嘩別れする1年前、ベルトリーニもベートーヴェンの不興を買い、二人の仲は、決裂した。
「私はただ、彼に、仕事を紹介したかっただけなんだ。あの頃、彼は、難聴が進行し、演奏会での収入は途絶えていた。ちょうどその頃、知人を介して、イギリスの楽友協会が、交響曲を作曲してくれるよう、
ただ、この時の条件が、最近の曲よりも、わかりやすい曲にしてくれ、というものだった。
……「儂の最近の作品は、わかりにくいというのか!」
ベートーヴェンは激怒し、善意で仲介したベルトリーニとの一切の関係まで、断ち切ってしまった……。
「へえ、そんなことで!」
「でも、わかりますよ。マルファッティ先生に変わって、私もベートーヴェンを診察しましたが、臨終近かったことを差し引いても、彼は、本当に、変わり者で……」
「それが、天才というものだよ」
マルファッティは言って、コートを脱いだ。
「先生!」
こちらに背を向けていた
文字通り、椅子から飛び上がった。
「おかえりなさい! 申し訳ありません、つい、ベルトリーニ先生と話し込んでしまっていて」
「ああ、いいよ。よく来たね、ベルトリーニ。近頃、どうだい?」
「まあまあですよ。近くまで通りかかったものですから、寄らせていただきました」
「ゆっくりしていくといい」
「ねえ、先生」
思い切ったように、
「なんだ。二人して」
「いえね。ベルトリーニ先生とも話していたのですが……先生はなぜ、ベートーヴェンと決裂されたのです? やっぱり、先生の従姉妹さんが……」
1809年、マルファッティがベートーヴェンの主治医になったばかりの頃、ベートーヴェンは、彼の従姉妹、テレーゼに心を惹かれた。ベートーヴェンは、若く美しい彼女に、「エリーゼのために」を捧げている。そして、その、翌年、音楽家は、彼女に求婚した。
しかし、テレーゼはこれを断った。
ベートーヴェンは、絶望の淵に突き落とされたという。
「それを根に持ったベートーヴェンが、」
「違うよ」
マルファッティは、弟子の妄想を遮った。
「ベートーヴェンと私の決裂は、その6年も後のことだ」
「それなら、なぜ?」
レーリッヒと、ベルトリーニまで、好奇心いっぱいの目で、マルファッティを見ている。
「それはね」
マルファッティはにっこりと笑った。
「それはつまり、私が無能だったからだ」
「ええっ!」
「そんなことはないでしょう」!
異口同音に、弟子とかつての助手が叫ぶ。
「先生は、有能じゃないですか!」
「皇族や、外国の貴賓だって、先生のおかげで、病を克服できたのですよ?」
「しかし、私の治療は、ベートーヴェンには、効かなかった……」
ベートーヴェンは、内臓が弱かった。難聴に加え、当時は、炎症性カタル(恐らく腸疾患の再発)に悩んでいた。
きっぱりと、
「それは、ベートーヴェンが、マルファッティ先生の言うことを聞かなかったからです。医者の言いつけを破って病気が重くなったからって、それは、医者のせいじゃないでしょう!」
「シュタウデンハイム医師も、ベートーヴェンと決裂したでしょ。医者の言うことをちっとも聞かないからと言って。あのドクターも、マルファッティ先生と同じく、最期に呼ばれたけど、診察に来なかったじゃないですか。ですが、先生は、彼の弟子の頼みに応じて、診察をされました。もう、手の施しようのない時期であったのにもかかわらず。それは、大変、英雄的で、気高い行為だったと思います」
「君には悪かったと思っているよ、レーリッヒ。私の代診を頼んだりして。だが……」
「わかりますわかります」
レーリッヒは頷いた。
「あの毒舌にやりこめられたら、とてもじゃないけど、診察なんかできません。少なくとも、私には無理です」
「彼の最期は、苦しいものだったらしいですね」
「穿刺を何度も繰り返し、どんどん体力が失われて……」
「それでも、マルファッティ先生は、彼の最期の日々に希望を与えられました」
レーリッヒが言った。感動的な目をして、続ける。
「先生は、ベートーヴェンに、ポンス酒のシャーベットを勧められました。この処方により、彼は、一時の安らぎを得ることができたのです!」
「……」
ベルトリーニは、無言で、師を見つめた。
……ベートーヴェンは、肝臓を病んでいたのではなかったか? 故シュタウデンハイム医師は、一切の酒を禁じたと聞く。
……レーリッヒが言ったように、患者はそれが気に食わず、医者を替えた。そして、病は悪化した。
……それなのに、酒を?
「……」
マルファッティもまた、無言で、かつての助手を見返した。
※1 思春期特有の一般的な不調
事の起こりは、5章「思春期特有の病」〜
解決編は、同じ章の「教会のステントグラフトから見下ろす幼子」〜
をご覧下さい。
※2 アンドレアス・ベルトリーニ
彼は最初、ベートーヴェンの主治医だったマルファッティの、助手を務めていました。ベートーヴェンと親しく付き合った時期も、マルファッティと、ほぼ、重なります。
ベートーヴェンは、一方的に、ベルトリーニとの関係を断ち切りました。しかし、ベルトリーニは、生涯、彼に対して、誠実で温かい態度を取り続けました。
ところで、1831年、コレラに罹ったベルトリーニは、家族に、保管していたベートーヴェンの手紙を全て処分するよう、指示します。ベルトリーニは、コレラから回復するのですが、この貴重な記録は、失われてしまいました。いったい、何が書いてあったのでしょうね……。妄想するに、師、マルファッティの、誤診の告発? 殺意の証拠? この話題、後で出てきます。
※3 レーリッヒ
マルファッティ医師の弟子です。ベートーヴェンの最後の床に診察に来たマルファッティですが、2ヶ月もしないうちに、弟子のレーリッヒに代診をさせます。その理由は、マルファッティ自身が病気になった為とも、彼の診療の効果がさっぱり上がらず(というか、逆効果だったので)、ベートーヴェンがマルファッティをまた、非難しているのを気にかけた為、とも、言われています。
マルファッティとベートーヴェンの関係は、
4章「ずるいイタリア人」「間に合わなかったワイン 1」
に出てきます。レーリッヒも、名前だけ登場してます。
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