(承前)医師とカルボナリ
間もなくベルトリーニは、長居を詫びて、帰っていった。
玄関まで客を見送りに出たレーリッヒが、慌てふためいて戻ってきた。
「大変です、先生。政府から手紙が来ました!」
「手紙?」
筒状に巻かれた紙を、助手は手渡した。
「
貴殿をライヒシュタット公の侍医に任命する
」
そして、流れるような優美な文字で、宰相メッテルニヒのサインがしてあった。
……メッテルニヒ。
マルファッティは、書状にざっと目を通した。
亡くなったばかりのシュタウデンハイム医師の、後任に任ずる、書かれている。
「ベートーヴェン繋がりでしょうか」
横から覗き込むようにして、レーリッヒが尋ねる。
「故シュタウデンハイム医師も、ベートーヴェンとケンカ別れ……いえ、かの音楽家の主治医でいらした時期がありますから」
シュタウデンハイムの名は、さきほど、
「いや、そういう縁ではないと思うが……。そういえば、シュタウデンハイム医師は、亡くなったのだったな」
「つい、先日」
レーリッヒは頷いた。ふと、深刻そうな顔になった。
「先生。お受けになるんですか?」
「断る理由はあるまい?」
「ですが……」
レーリッヒの顔色はうかない。
「ライヒシュタット公の主治医になるのは、不吉です」
「不吉?」
「ええ。彼の主治医は、みな、在任中に、亡くなっています」
「確かに、わが師、敬愛していたフランク医師も亡くなられたが……」
ライヒシュタット公の最初の主治医、ヨーハン・ペーター・フランク医師は、マルファッティの師でもあった。
イタリアのルッカ(※1)に生まれたマルファッティは、パヴィア(※2)で、フランク医師に学んだ。
そして、フランク医師が
「亡くなられた時、フランク医師は、76歳だったんだぜ。そういえば、シュタウデンハイム医師も、同じ年齢だったな」
「ライヒシュタット公の主治医とは、よほどの激務なんでしょうか?」
「私はまだ、54歳だ。心配には及ばないよ」
「ですが……」
それでもまだ、レーリッヒは不安そうだった。
しまいには、マルファッティは、医師の弟子からぬ迷信深さだと、叱りつけた。
*
ライヒシュタット公侍医の任命は、メッテルニヒ自らの指名だった。
マルファッティは、メッテルニヒと面識がある。
出会いは、ウィーン会議直後に遡る。
1816年、皇帝の三番目の妃、マリア・ルドヴィカが亡くなった。
28歳。肺の病だった。
マルファッティは、皇妃自身を診察したことはなかった。だが、母親のベアトリーチェ大公女が、彼の患者だった。
悲しみに沈む母親が、
亡くなった皇妃のベッドボードから、彼は、赤い黴を採取した。
間もなく、その黴を吸い込むと、ひどく咳き込むことに、気がついた。
マルファッティは、自分の患者を使い、実験を試みた。そして、体内に結核を隠し持つ患者が吸い込むと、
ウィーン会議の頃、マルファッティは、会議に参加していた諸外国の国王や、大使の診察をしていた。名医の評判が高まり、医院の前には、診察待ちの貴賓が、列をなした。
マルファッティには、伝手があったのだ。
「ほう。前皇妃の従者が、職務怠慢であったと?」
マリア・ルドヴィカのベッドボードに赤黴が発生していたと告げると、宰相は言った。
いかにも面倒だ、と言いたげな、気のないそぶりだ。
「それで、
「私は、その黴を、持参してまいりました」
マルファティは言った。
「黴を?」
「この黴は、結核を増進させる働きをします」
宰相の顔色が変わった。
マルファッティは、この黴が、複数の潜在的な肺結核患者を、死に至らしめたと報告した。
体内に結核を内在させる者と、健康な者。比較対照させ、実際に、自分の患者で実験したのだから間違いないと、保証した。
マルファッティは、ガラスの管を差し出した。中には、赤い黴が、密閉されている。
「これが、その黴です」
「従者の職務怠慢を糾弾するには、証拠が必要ですからな」
宰相は、ガラスの管を受け取った。
貪欲な目をしていた。
ウィーンの宮廷には、肺結核の患者が多い。
確実なところでは、女帝マリア・テレジアの姉、マリア・アンナが、結核だった。彼女は、子を生んだばかりの女の、母乳を飲んでいた。人間の母乳は、山羊の乳と並んで、当時、結核の薬とされていたのだ。
他にも、マリー・ルイーゼはじめ、この病に苦しんでいる皇室メンバーは多い。
健康な人には殆ど毒性はないが、結核患者には致死性の効果を持つ黴……。それは、皇帝の陰に立つ権力者にとって、有力な道具になる筈だった。(※3)
*
マルファッティが、メッテルニヒに知己を得ようとしたのには、理由があった。
イタリア人のマルファッティは、カルボナリの一員だった。
ローマ文明やルネッサンスを継承する誇り高きイタリアは、しかし、統一国家ではない。15世紀末に始まったイタリア戦争を経て、オーストリアやフランス、スペインの介入を受け続けてきた。
1796年春、フランス総裁政府は、対仏同盟に対抗する手段として、イタリアへの侵攻を開始した。イタリア方面軍司令官に任命されたのが、コルシカ出身の、若きナポレオン・ボナパルトだった。
フランス革命軍のイタリア侵攻の目的は、ふたつ。オーストリアへの威嚇と、危機に瀕していた国庫を、イタリアからの徴発で、補うことだった。
最初、イタリアは、ナポレオンを熱狂的に歓迎した。しかし、彼に、イタリア統一の意志は、無かった。それどころか、イタリアから、過酷に搾取する一方だった。
これは、ナポレオンの、約14年に及ぶ皇帝時代も、変わらなかった。
フランスはイタリアに、近代化を齎しはした。しかし依然として、イタリアは、フランスの従属国だった。イタリアの民は、徴兵されて、その大半が、ドイツやスペイン、ロシアで戦死した。また、イタリアはフランスの原料供給地に過ぎず、大陸封鎖令により、栄えていた湾岸都市は、衰退した。
ここに至って、イタリアの民族運動が目覚めた。反フランスの感情が広がり、フランスからの独立を求める動きが起きてきた。
カルボナリは、
カルボナリは、立憲主義を掲げた。外国支配を拒否し、民族的独立を望んだ。そして、短期間に、広い地域で参加者を増大させた。
オーストリアは、こうしたイタリアの民族運動を封じ込めようとしていた。
マルファッティは、流行っている医者として稼ぎ、イタリアの同志へ送金を続けた。同時に、オーストリア政府の動向を探ろうとした。
メッテルニヒに近づいたのは、それが動機だった。
しかし、その後、宰相からは、何の連絡もなかった。
不審な死を遂げた皇族も、閣僚もいない。
マルファッティは、宰相との距離を、今一歩踏み込めないままでいた。
やがて、イタリアで、動乱が起きた。
1820年、スペイン立憲革命に触発されたカルボナリの反乱は、しかし、翌21年、オーストリア軍によって、鎮圧された。
ライバッハの会議で、同盟国に、オーストリア軍の出兵を認めさせたのは、メッテルニヒである。
マルファッティは、何も知らず、カルボナリ敗走の報に、ただ、慄くばかりだった。
その後、イタリアのカルボナリは、活動の拠点を、パリに移した。ボナパルト派と結び、ナポレオンの甥ルイ(※4)も、活動に加わっている。
1824年、憂い顔の詩人、マテウス・フォン・コリンが、ライヒシュタット公の暖炉の炭を持ち込んだ。腕のいい町医者という評判を聞いたから、ということだった。
コリンは、ライヒシュタット公の家庭教師だった。暖炉に火を焚くと、プリンスがひどく咳き込む、と訴え、有害物資の燃焼を示唆した。コリンは、暖炉から、燃え残りの炭を、持ち出していた。
マルファッティには、ぴんとくるものがあった。
密かに、ライヒシュタット家の従者に金を渡し、暖炉の薪を持ってくるよう、頼んだ。
家庭教師コリンの指示で、ライヒシュタット公は、冬の間、別の部屋に寝起きするようになっていた。
薪は、簡単に手に入った。部屋変えに伴い、薪の劣化が指摘され、処分される直前だったのだ。
薪には、赤い黴が、びっしり生えていた。
……ライヒシュタット公だったのか!
……
だが、証拠がない。
そして今、ヤーコプ・シュタウデンハイム医師の死で、マルファッティは、他ならぬライヒシュタット公の主治医に抜擢された。
※1 ルッカ(マルファッティ医師の出身地)
イタリアの都市。かつてトスカーナ大公国に属し、ナポレオンの妹、エリザ・バチョッキが領主だった時期もありました。
トスカーナは、ナポレオンの没落後、オーストリアのフランツ帝(フランソワの祖父)の弟、フェルディナント3世の支配下に戻されます。
余談ですが、このフェルディナント3世は、マリー・ルイーゼとナポレオンが結婚した頃、メッテルニヒと、ナポレオンの妹、カロリーヌを取り合っていました。その詳細については……あれ? 小説に書いてない……、
ブログに書いてありました。ご興味を持たれましたら。
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-102.html
※2 パヴィア
北イタリアの都市。学問の都として有名です。一時的にナポレオンに占領されましたが、長らくオーストリア・ハプスブルク家の支配下にありました。
このパヴィアで、マルファッティは、フランク医師(フランソワの最初の侍医)に出会い、師事しました。
マルファッティは、真っ黒に描いていますが、オーストリア領の学問の都での出会いということで、フランク医師はシロだと判断しました。作品では、優しいおじちゃん先生として描きました。(2章「お別れ」)
そんな優しい先生を、私は、殺してしまったわけで……(2章「フランク医師の死」)
※3
赤い黴の陰謀は、
3章「敵は身近に」
5章「赤い黴」
に、わりと簡潔に(?)まとめてあります。
※4 ルイ
ナポレオン・ルイです。ナポレオンの弟ルイと、ナポレオンの養女オルタンスの間に生まれた、次男です。この章の「ナポレオンの甥と姪」でいきがっていた、彼です。
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