共犯
グラシ(緑地)の外にある、メッテルニヒの邸宅に招かれたマルファッティは、落ち着かない思いで待っていた。
ここは、メッテルニヒの私邸である。かつては、オーストリアのもう一人の宰相、カウニッツの邸宅でもあった(※1)。メッテルニヒはこの邸宅を、前妻の死を通じて相続した。メッテルニヒの前妻エレオノーレは、カウニッツの孫娘だった。
ようやく、侍従が呼びに来た。マルファッティは、宰相の部屋に案内された。
「ライヒシュタット公の診察はしたか?」
マルファッティの顔を見るなり、
「咳が続くことを、家庭教師が、心配しています。とりあえず、胸の診察だけしました」
公式には、診断結果は、まだ出していない。
マルファッティは、着任したばかりだった。
「来週にも、全身の、健康診断をするつもりでいます」
素知らぬ顔で、彼は答えた。
……タヌキめ。
……彼に赤い黴を使ったくせに。ライヒシュタット公が、結核と知っているのだろう?
だが、滅多なことは言えない。確かなことは、なにもないのだ。
「マルファッティ医師。正直に答えられよ。実際に診察をしてみて、ライヒシュタット公の回復の見込みは、いかほどと診断されたか」
用心深い目で、
「
冷徹な眼差しが、じりじりと、追い詰めてくる。
マルファッティは、宰相の欲しいものを差し出すことにした。
「公や家庭教師達には、まだ告げていませんが……お胸の音を聞いて、確信致しました。あれは、結核です」
「……なるほど」
すばやく、マルファティは付け加えた。
「結核は、無理さえしなければ、抑え込むことができます。現に、オーストリア皇室の何人かは、そうやって、普通に生活しておられます」
「だが、彼は、バーデンで摂取させられた毒物により、再発した」
故シュタウデンハイム医師の報告は、マルファッティも、目を通していた。
「ライヒシュタット公は、軍人です。幼い頃から鍛えられた、強靭な体を有しておられます。再発した結核を、今一度、抑え込むことも、彼なら可能かと」
「……ふむ。故シュタウデンハイム医師は、公の成長が急激すぎたことが、悪く作用したと述べていたが」
メッテルニヒは、落ち着き払っている。
「彼は、胸郭が充分に発達しなかったのが、この病を増進させる一因だったと診断していた」
マルファッティは、笑い出した。
「それを言うなら、世界の痩せ型の青年の殆どが、結核で死ぬ運命にあるでしょう」
「ほう。細身なのは、結核には関係ないと」
「公はまだ、19歳です。まずは背が伸び、体の厚みは、これから出てくるのでしょう」
「未だ、成長途上か。恐ろしいことだな」
「ただ、このままの生活を続けたら、いけません。最悪の場合は、死に至る可能性があります」
メッテルニヒの視線が鋭くなった。
「彼は、死ぬのか?」
「御意」
マルファッティは、慎重に続けた。
「
「具体的には?」
「暖かいイタリアか、空気のきれいなアルプスへの転地をお勧めします。それしか、有効な治療法はありません」
「転地療法を施せば、治る可能性はあると?」
「少なくとも、普通の生活を送り続けることは可能です」
「ふむ」
メッテルニヒは、顎を撫でた。少し考えた。
「……ありえないな。イタリアなど。それは、貴殿が一番、わかっておられるだろう?」
……革命は、近い。
カルボナリの同志の言葉が、鮮やかに耳元に甦った。
ナポレオンの息子が、混乱のイタリアへ行けば、どうなるだろう……。
マルファッティは、
9年前、この男には、煮え湯を飲まされた。
オーストリア軍のイタリア出兵について、自分は、なにひとつ、教えてもらえなかった……。
「
彼は、マルファッティと違って、臨終のベートーヴェンの床を訪れなかった。患者が、自分の言うことなど聞かないと、知っていたからだ。
自分の言うことを聞かない患者は救えない……。
シュタウデンハイムが生きていたら、
「だから、シュタウデンハイムには、死んでもらったのだよ」
それはまるで、隣の国へ使いに行かせた、とでもいうような、軽い口調だった。
マルファッティは、聞き逃しかけた。
さらにメッテルニヒが畳み掛けた。
「政治的な配慮のできない医者に、用はない」
「政治的な配慮……」
ようやく、マルファッティの頭の中で、宰相の言葉が意味を結んだ。
「それでは、シュタウデンハイム医師は……」
背中に冷たいものが走った。
……ライヒシュタット公の主治医になるのは、不吉です。
弟子のレーリッヒの言葉が蘇る。
ライヒシュタット公の、死んだ侍医は、シュタウデンハイムだけではなかった。
彼の、過去の主治医は全員、死んでいる。
それも、在任中に。
「ゴリス医師も……フランク医師も?」
「フランク医師は、何も言わなかったのかね? 貴君は、彼の弟子だったのに」
馬鹿にしたように、メッテルニヒは鼻を鳴らした。
「それに、あの黴は、役に立たなかったな。咳は出ても、発病には至らなかった」
「まさか、コリン先生も!?」
……ライヒシュタット公の、今までの、3人の主治医たち。
……それに、
「まあ、せいぜい、貴君も気をつけることだ。飲まず喰わずで、人は生きられないからな。結核を隠し持っているなら、ことはもっと、容易になる」
……毒殺。
……あるいは、赤い黴を使って?
それなら、アリバイ作りは容易だ。何も知らない人間を、実行犯にすることもできる。
いずれにしても、医師らと家庭教師の死は、誰からも、疑われていない。彼らの死は、自然死とされている。(※2)
「結核を、悟られぬようにせよ」
きつい口調で、宰相が命じた。
「ライヒシュタット公には、今まで通りの生活をさせるのだ」
「……」
マルファッティの体がこわばった。
今までどおりの生活。
それでは、
メッテルニヒが、猫なで声を出した。
「カルボナリには、最近、ナポレオンの甥が、加わったそうだな。ナポレオン・ルイ・ボナパルトとかいう、……かつてのオランダ王の息子が」
……カルボナリ。
ぴくりと、マルファッティの耳が動いた。
より一層、酷薄な笑みを、メッテルニヒは浮かべた。
「貴殿の正体など、とうの昔にお見通しよ。知っていて、知らん顔をしてやっていたのだ。感謝してもらいたい」
「……」
マルファッティは、絶望した。
……こちらの情報は、
「カルボナリは、抜けたほうがいいな。次に動乱が起これば、オーストリア軍は、
さりげない口調で、メッテルニヒは続けた。
「その時、もし、貴殿がカルボナリに金を流していたことが知れたら……せっかく繁盛している医院の評判は、丸つぶれだろうな」
その言葉は、つるりと、マルファッティの口から出た。
「わたくしは、いかなる時も、メッテルニヒ宰相。貴方様のお味方です」
メッテルニヒの唇が歪んだ。それが、満足の笑みだと、マルファッティは、気づくことができなかった。それほど、酷薄な笑みだった。
「ならば、証を見せて貰おうか」
「証?」
「
「噂と申しますと?」
用心深く、マルファッティは尋ねた。
「聞いたところによると、
メッテルニヒは言葉を切り、じっと医師の目を見つめた。
「脳とか」
ぞっとした。
宰相は、ライヒシュタット公の発育に問題があるという噂を、フランス人民の間に流せと言っているのだ。
「この夏、
だが、メッテルニヒがマルファッティに命じているのは、バーセレミーの詩とは真逆の、流言飛語なのだ。
マルファッティの、たった今、抑え込んだばかりの、医師の良心が疼いた。ライヒシュタット公は、聡明な若者だ。ウィーンでの人気も高い。それを、本人には全く落ち度のない、しかも、根も葉もない医学上の仮定によって、貶めようとは……。
メッテルニヒが、彼を見下ろしている。
「御意」
現れた医師の良心は、一瞬で消え失せた。
マルファッティは、
※1 宰相
オーストリアの宰相は、マリア・テレジアに仕えたカウニッツと、フランツ帝に使えたメッテルニヒの二人だけです。メッテルニヒは、カウニッツの孫娘、エレオノーレを、最初の妻に迎えました。この結婚が、彼がのし上がっていく為の、基礎となりました。
メッテルニヒ夫人エレオノーレには、4章「地獄で待ってる」で死んでもらいました……。
※2 在任中の侍医の死
ライヒシュタット公の主治医、家庭教師は、
フランク医師(76歳で没)
ゴリス医師(62歳で没)
シュタウデンハイム医師(76歳で没。死因は疝痛)
侍医で、在任中に亡くならなかったのは、マルファッティだけです。年齢を考えれば、ってのは、ありますけどね。でもね。
また、家庭教師のコリンは、45歳で、短い期間病んで亡くなった、と伝わっています。
ホームページの「3 家庭教師・侍医と音楽家」に、まとめてあります。
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#tutor-doc
(ページトップは
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html
)
※3 仮死状態で生まれた
ローマ王出産の詳細は、
1章 「温めたタオルとブランデーと1、2」
にございます。
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