(承前)マルファッティの診断



 宰相メッテルニヒは、満足そうに笑った。その全身から、緊張が消え失せた。


「ところで、。ひとつだけ、教えて欲しい。なに、大したことではない」

窓に背を向け、マルファッティを見下ろした。

「作曲家のベートーヴェン、な。彼を看取らなかったのに、理由はあるのか」



 確かに、マルファッティは、ベートーヴェンの主治医だった。

 しかし、その関係は、とうの昔に破綻していた。


 死の床の診察に出向いたのは、単純に、好奇心からに過ぎなかった。

 巨匠が、どのようにして、末期の苦しみに耐えているのか、と……。



「主治医は別にいました。彼の死の床に侍る義務も理由も、私にはありませんでした」


 ベートーヴェンの弟子の要請で、一度は、診察に出向きはした。だが、いよいよ死が避けられなくなると、マルファッティは、病床を訪れることを止めた。



「彼の死の責任まで取らされたらたまらない、と思ったわけか」

くくく、と、メッテルニヒは笑った。

「貴殿に悪態をついたベートーヴェンを、許さなかったのだな」



 許さなかったどころではない。


 ……ずるいイタリア人。

 それが、あの作曲家が、マルファッティに投げつけた言葉だ。

 その上、かつて、彼の姪との結婚を、本気で考えていたのだ。ふられて当たり前だ。なんとずうずうしい! 

 本当に、あの男には、我慢がならなかった。


 だから、肝臓を壊した彼に、酒を勧めた。

 その後の診察は、弟子のレーリッヒに任せ、自分は、音楽家の死に水を取らなかった……。



 マルファッティの顔色を、メッテルニヒは読んだ。

「どうやら私は、満足すべき、最良の人材を採用したようだ。ライヒシュタット公の主治医として」

低く笑った。

「ナポレオンの死を看取った医者は、解剖学が専門だったというではないか。実際、彼は、皇帝の心臓を取り出して、パルマの元皇妃マリー・ルイーゼの元まで持ち込んだ。全く素晴らしい人材を、同盟国は、セント・ヘレナへ送り込んだものだ!」



 風土が変わったことで、セント・ヘレナ島では、死者が多く出た。人材が不足し、新しい医者も、送り込まれた。

 新任の医師、フランチェスコ・アントマルキは、ナポレオンの最期を看取り、また、セント・ヘレナでの生活を『回想録』にまとめた。


 なお、このアントマルキ医師は、ナポレオンのデス・マスクを制作したことでも知られている。



 口の端を歪め、メッテルニヒは、マルファッティを見下ろした。

「貴殿は、何が、ご専門家かな? マルファッティ医師」

「ご存知のように、病がさらに進行する条件を見抜くことにたけております」

不敵に笑った。

「たとえば、肝臓の病には、酒。結核には、赤黴」


 禁酒を続けていたベートーヴェンに、ポンス酒のシャーベットを勧めたのは、マルファッティだ。

 ポンス酒はすぐに過度の飲酒となり、音楽家の肝臓に、最後の一撃を加えた。


 声を出して、メッテルニヒは笑った。







 ライヒシュタット公の侍医になった、マルファッティ医師は、彼の全身の健康診断を実施した。


 マルファッティ医師の診断は、フランソワの身の回りの人にとって、驚くべきものだった。

 彼は、咳、疲れ、声がれなどの症状は、皮膚の過敏が原因だと言い切ったのだ。


 マルファッティ医師はまた、フランソワの首の腫れ物は、瘰癧るいれきなどではないと言い張った。


 「かつて私は、出身地のイタリアで、エリザ王妃とルイ殿下を診察申し上げたことがあります」

 ナポレオンの妹と弟だ。


 マルファッティは、胸を張った。

「お二人のお首と、それから、上腕部には、プリンス、貴方と、同じような腫れ物がありました。ですので、私は、自信を持って、申し上げます。殿下の腫れ物は、結核性の瘰癧では、全く、ございません。皮膚病の遺伝です」(※)


「……」

 さすがに、フランソワは鼻白んだ様子だった。

 父方の親戚と同じ、遺伝だと言われるのは、嬉しい気もするが……。


「ご安心下さい。咳など、気管や気管支のトラブルは、皮膜を丈夫にすることで、必ずや、快方に向かいます」


 マルファッティ医師は、石鹸を使った入浴法を奨励した。

 また、彼は、肝臓を浄化することが必要だと、主張した。

 この為、ミルクか、ミルクの炭酸水割りを飲むことが、奨励された。炭酸は、喉を強化するということだった。




 マルファッティは、亡くなった前任者シュタウデンハイム医師の診断を、完全に否定したわけではない。

 だが、彼は、肺の病は、二次的なものだと診断した。いずれ、肝臓が丈夫になり、成長期が終われば、体のあらゆる器官は均衡を遂げ、胸の病も、危険なものではなくなるだろう、と、説明した。



 半信半疑ながら、ディートリヒシュタインらは、教え子に、入浴を強要した。

 やがて、石鹸は高価過ぎるということで、塩が代用されるようになった。

「冬まで続けたら、絶対、風邪をひく」

侍従たちは、ぼやいた。

 大量に飲まされるミルクや炭酸水は、フランソワの胃を、ひどくむかつかせた。



 ディートリヒシュタインは、故シュタウデンハイムの注意も、忘れなかった。

 彼は、温度の急激な変化に気を使い、また、乗馬や激しい運動を禁じた。



 だが、いずれも、無駄というものだった。

 すぐにフランソワは、医師の診断を疑うようになった。


 「かわいそうな、心配性のディートリヒシュタイン先生!」

教師の強制には、初めから、耳を貸そうとしなかった。


 軍務を、そして、来るべき入隊を、少しでも邪魔する存在を、彼は、許さなかった。

 彼は、自分の病……咳、声枯れ、息苦しさ……を、認めようとしなかった。

 決して。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る