年寄りの冷水


 官庁に帰ったメッテルニヒを、意外な人物が訪れた。

 フランツ・ヨーゼフ・フォン・ザウラウ。

 古くからの皇帝に仕える、重臣だ。


 ザウラウは今年、70歳になるはずだ。

 一体、何をしに来たのかと、メッテルニヒは身構えた。


 ……湯治場にでも行って、呑気に過ごしていればいいものを。

 ……近年開発されたばかりのフランチェスバートなら、ウィーンからの客も少なく、この爺さんも、おとなしくしていられように。



 「貴侯と話そうと思ったのだ」

皇帝にも堂々とものを言えるこの重臣は、メッテルニヒを見て、気さくに笑った。

「貴侯と、酒を酌み交わしながらな。……アルプスの澄んだ空気について」

「アルプス?」

 剽軽な顔をして、ザウラウは頷いた。

「さよう。そして、ヨーハン大公の、麗しい父性について」

「!」



 ……ヨーハン大公。

 長男である皇帝よりも、よっぽど有能で人望の厚い弟だ。郵便局長の娘を妻に娶り、民衆からますます人気を博している。

 メッテルニヒは、昔から、この大公を警戒してきた。


 人気という点では、ヨーハンの兄、カール大公の方が、断然、国民の人気が高かった。カール大公は、ナポレオンの不敗神話に、始めて、汚点をつけた将軍である。

 しかし、カールは、早々に軍を辞し、全ての公職からも退いた。

 その潔さ(あるいは、宰相メッテルニヒの監視に耐えられなくなるだけのデリカシー)を、メッテルニヒは、高く評価していた。


 だが、弟のヨーハンは、違った。

 彼は、未だ軍に属している。あまつさえ、シュタイアーマルク州(アルプスの麓の州)の開発に力を注いでいる。

 あたかも、アルプスの麓を、独立国家にしようとでもしているように、メッテルニヒには思われてならない。


 ヨーハン大公は、昔から、皇帝……そして、陰で皇帝を牛耳る宰相メッテルニヒ……にとって、要警戒人物だった。



 ……その、ヨーハン大公の父性だと?

 ……アルプスの……澄んだ空気と?







 ……ふふふ、メッテルニヒめ。焦っておったな。

 宰相の執務室を出たザウラウは、忍び笑いを漏らした。


 メッテルニヒとの会食の約束は取り付けた。忙しいの何のと言っていたが、皇帝の重臣の誘いを断ることは、さすがにできなかったようだ。


 ザウラウは、メッテルニヒよりも13歳、年長である。先帝レオポルト2世(今上帝の父)治世下の1794年、ウィーン市長に就任したのを皮切りに、ボヘミア・オーストリアの法廷長官、ニーダーエスターライヒ州市長などを歴任している。


 今上帝(フランソワの祖父の皇帝)の元では、財務大臣、警察大臣として活躍した。今上帝に叛意を抱く者をあぶり出すため、秘密警察の強化に尽力したと言われている。


 また、ハイドンに頼んで、「神よ、皇帝フランツを守り給え」(オーストリア国家)に、曲をつけさせたのも、このザウラウである。この曲は、今上帝の誕生日のプレゼントとして演奏された。以後、ナポレオンの襲撃に怯えるウィーン市民の心の支えとなった。 


 ナポレオン戦争時代、ザウラウは、ヨーハン大公軍を、参謀として支えた。

 遥か年下ではあったが、戦友ヨーハンは、信頼できる男だった。




 ……。




 「鉄道?」

 つい先ごろのことである。

 ヨーハンの持ち込んだ図面に、ザウラウは目を落とした。

「ええ。ウィーンとグラーツ(アルプスの麓にある、シュタイアーマルク州の州都。ヨーハンが開発に尽力している)」の間に、鉄道を敷こうと思うのです」


「鉄道」

ザウラウは唸った。

「あれは、非常にうるさいものだと聞きますぞ。空気も汚れ、トンネルに入ると、窓を開けていられないほどだといいます。煙突から吐き出される煤で、白い服が、黒く染まるとか」


「ですが、一度に、たくさんの人や物を運べます。牛馬に頼らずともよいのです。これは、産業の発展にとって、非常に有益なことです」

「うーん。わが麗しのウィーンに、黒い鉄の怪物が……」

「参謀長」

呆れたように、ヨーハンが、首を横に降った。


 ザウラウより22歳若いこの大公は、未だに、彼のことを、軍隊時代に用いた「参謀長」と呼ぶ。

 ヨーハンは、ザウラウを見据えた。


「私は、若い頃、イギリスで、蒸気機関車というものを見ました。大変な力で、驀進するその姿は、人類が、未だ嘗て考えも及ばないものでした。その後もイギリスは、改良を重ね、国土あまねく鉄道を敷設する計画です。遠く海の向こうのアメリカでも、鉄道敷設は、積極的に行われています」

「はあ。確かに、一度に軍隊を動かせるのは、良いですな。敵のウラをかくことができる」


「軍隊!」

ヨーハンは驚いたようだった。

「私は、そのようには考えません。鉄道敷設は、あくまで、人と物資の輸送、産業を発展させる為のものです」

一息にそこまで言って、ヨーハンは、身を震わせた。

「ウィーンからグラーツへ、軍隊など……」


 ザウラウは慌てた。

「貴方に二心ふたごころなきは、皇帝も、よくご存知だ。よもや、グラーツに軍隊派遣などということは、なさらないでしょう」

「私は、皇帝兄上に、心からの忠誠を誓っています」

きっぱりと、ヨーハンは口にした。



 ナポレオンに負けた後、ヨーハンは、皇帝に内緒で、蜂起計画を立てた。その計画が露見した時、皇帝は、ヨーハンを、自宅に軟禁した。ヨーハンは、チロル立ち入りを禁じられた。


 しかし、それだけだった。

 ヨーハンが、それ以上の罪に問われることはなかった。



 ザウラウは、溜息をついた。

「しかし、あれほど、皇帝とオーストリアの為に戦ったというのに。皇帝も、もう少し、貴方に報いてもいいように、私は思いますぞ」


 未だにヨーハンは、軍の最高位である元帥の称号を授けられていない。

 ヨーハンの返事は、穏やかなものだった。


「戦場に出れば、私は、兵士の安全を真っ先に考えます。時には、敵方の兵士に憐憫を覚えることさえある。兄上カール大公に憧れて軍に入りましたが、私は、軍人には向いていないのです」

 そう言う彼の瞳は、澄んでいた。


 ……本当に、欲のないお人だ。

 ザウラウは思った。


 鉄道の件は、考えておこう、と、ザウラウは受けあった。

 ヨーハンは、嬉しそうに、図面を巻いた。


「早いに越したことはありません。ですが、じっくり計画を立て、識者の意見を聞くことが肝要です。イギリスから、技術者を呼ぶ必要も、あるかもしれない。慌てる必要はありません。ですが、参謀長」


 目を上げた。

 まっすぐに、ザウラウの視線を捉えた。


「こちらは、急ぐのです。あなたに、緊急のお願いがあります」

「緊急の……これは、珍しい。大公が儂に?」

ヨーハンの瞳に、力がこもった。

「フランツのことです。マリー・ルイーゼの息子の」

「ライヒシュタット公の?」


 ……ナポレオンの息子だ。

 真っ先に、ザウラウはそう思った。


 ヨーハンは頷いた。

「医者によると、彼はどうやら、胸を病んでいるようです」

「ほう」

「亡くなった前任の医者シュタウデンハイムは、同僚の2名の医師の立ち会いの元、肺の病と診断を下しました」

「肺の病。すると、ライヒシュタット公は、白いペスト結核……」


 白いペスト。

 不治の病である結核は、そう呼ばれていた。


 ヨーハンは、重々しく頷いた。

「この病の治療法は、とにかく生活に気を配り、空気のきれいな土地へ移転するしかありません。しかし、ご存知のように、フランツの身の回りには、生活に気を配れるような人間は、おりません。加えて、軍での昇進で、彼は、がむしゃらになっている。この頃、咳が増えたと、家庭教師が嘆いておりました」

「……なるほど」


「アルプスへ」

必死の目をして、ヨーハンは続けた。

「山の澄んだ空気は、必ず、肺に良い働きをします。アルプスへ来れば、彼は、健康を取り戻せると思うのです」

にわかに大公は、頬を赤らめ、付け加えた。

「私の妻も、そう申しております」


「なら、アルプスへ呼べばいい。あなたは、皇帝の弟君だ。何を遠慮することがあるのです?」


「メッテルニヒが許しません」

決まりきったことを申し述べるように、ヨーハンは言った。

「グラーツに来るとしたら、それは、ハプスブルクの城まで。しかも、メッテルニヒの監視下において、です。彼は、自由にウィーンを出ることを許されない」


「そういう噂は聞いているが……」


「本当は、姪のいるイタリアへやるのが、一番いいのです。温かいイタリアなら、きっと……。ですが、それさえ、メッテルニヒは許そうとしない。ましてや、アルプスへなど、宰相メッテルニヒが許すと思いますか?」



 皇帝の弟、ヨーハンには、メッテルニヒの監視がつけられている。

 それで、かつて彼が加担した蜂起計画は、早々に露見した。

 未だ軍籍にあり、人民の人気の高い彼から、宰相メッテルニヒが、目を離すわけがなかった。



「まして、ライヒシュタット公は、ナポレオンの息子だし」

ザウラウの、心の声が漏れた。


「え?」

 ヨーハンは、目をしばたたいた。

 今まで、まるでそんなことは、考えてもいなかったという顔をしている。


 ザウラウは呆れた。

「ナポレオンの息子を取り込んで、あなたが、国民の人気を、一気にさらったらまずいと、メッテルニヒなら考えるでしょうな」

「いや、私は、そんなことは……。フランツに、アンナを取られたらどうしよう、とは、考えましたが」

「それはないでしょう」


「もちろんです!」

力を込めて、大公は答えた。

「アンナは、貞淑な妻です」


 ザウラウは溜息をついた。

「とにかく、ライヒシュタット公の立場は難しい……ヨーハン大公。あなたはなぜ、そんなにも、彼に肩入れするのです?」


「幼い頃から、彼が、私を慕ってくれているからですよ。年少の者の信頼は、裏切りたくない。それなのに、私は、自分の幸福ばかり、優先させてきました。今も、アルプスの山にこもって、滅多なことでは、ウィーン宮廷には出ていかない」


「あなたが、宮廷政治の欺瞞を嫌っていらっしゃることは、よくわかっている。だからこそ、あなたは、民の立場に立てるのだ」


「ですが、その陰で、不幸になるものがあってはならぬのです。フランツはすでに、フランス人民の幸福の、犠牲になった。それから、母親の幸福の犠牲になった。今また、私が彼を……」

 じっとザウラウを見た。


 ザウラウは頷いた。

「よろしい。ご尽力致しましょう」

 ヨーハンの顔が、ぱっと輝いた。

「感謝します、ザウラウ侯」


 ナポレオンの息子には、特に肩入れする必要を感じない。

 しかし、ザウラウには、考えるところがあった。


「いや、儂の方でも、メッテルニヒには、いろいろ言ってやりたいことがある。貴方に監視をつけ、元帥昇格を阻むなど、その最たるものだ」

「ザウラウ侯。その話はもう……」

「よくない! ちっとも、よくはありませんぞ」

「ですが、あまり目立つ真似をなさると、貴方の身の上が、心配だ」

「何を言うか。皇帝にさえ、もの申すことができる、この儂だ。メッテルニヒのごとき、頭でっかちの若造など、ほんの一捻りですわ」

「……若造」


「あなたもです、ヨーハン大公。年寄りと、侮ってはなりませぬぞ。このザウラウ、まだまだ現役。メッテルニヒに一泡吹かせる為なら、」

「ですが、私は、フランツを、政治的に利用したいのではありません」

慌てて、ヨーハンが釘を刺した。


 ザウラウが、大きく頷く。

「わかっておりますとも。大公、貴方は、欲がなさすぎる。民間出身だけあって、奥方も、政治に疎い。あなたがライヒシュタット公を利用しようとしているなんて、そんなことは、誰も、小指の先ほども考えはしますまい。……あの、猜疑心の塊メッテルニヒを除いて」


「フランツを、健康にしてやりたいのです。何かに犠牲になる人生は、もう終わりだ。生き延びて、彼にも、幸せになってほしいのです。私は……」

澄んだ瞳のまま、ヨーハンは付け加えた。

「私は、宰相メッテルニヒには、何の含む所もありません」


「しかし、儂には、ある。大いに、ある。単なる外交官風情が、大きな顔をして……まあ、見てて御覧なさい」

 70歳の重臣は、呵々と大笑した。


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