ナポレオンと聴診器
ディートリヒシュタインは、危惧していた。
春先(1830年、フランソワ19歳)からずっと、明け方になると、フランソワの咳が止まらないのだ。
ここのところ、フランソワはずっと、体調がよかった。
ヴァーサ公の連隊での新しい生活に、気分が引き締まっていたからだろう。
もちろん、朝の4時に起き、軍の訓練に参加するなど、体に負担をかけすぎだと、ディートリヒシュタインは、常に批判的だった。しかもその後、乗馬や、学科の授業があるのだ。
咳は、毎朝のように続いた。熱は出ない。ただ、声は、一日中、嗄れていた。
……何日か、安静にしていたら、朝の咳は治まるのではないか。
だが、フランソワは、軍の訓練を休もうとしなかった。
軍務こそが、彼の生きる道だった。
「この秋にもお前は、自由の身だ」
密かに、祖父の皇帝はこう、孫に囁いていた。プラハへの配属が、決まりかけていた。
独立は、間近だった。軍務を休むなど、フランソワにとって、思いもよらない事だった。彼は、ディートリヒシュタインの言うことになど、耳を貸そうともしない……。
*
「それで、君は、どう思う、ヘアーペクス?」
「胸の病だと思います」
「ゴエリス、君の診断は?」
「ヘアーペクスと同じです。殿下は、胸を患っていらっしゃいます」
二人の同僚の意見に、シュタウデンハイム医師は、大きく頷いた。
ライヒシュタット公の主治医になって、3年。この強情な患者には、手を焼かされてきた。
シュタウデンハイムは、彼の体には、結核が内在していると診断していた。健康に留意し、充分に注意して生活しないと、この病は、必ず、牙を剥く。
それなのに、彼は、医者の注意を、無視した。
軍隊で激しい訓練を重ね、体を酷使し続ける。
その上、自分の症状を、医者に隠している節があった。あれだけの咳をして、体がだるくないわけがないのに、絶好調だと言い張る。声が枯れていても、たまたま喉の調子がおかしいのだというふりをする。
「
フランソワは、尊大に言い放った。
シュタウデンハイムは、引き下がらなかった。彼一人なら、あるいは、いつもと同じように、高貴な患者にいいくるめられてしまったかもしれない。
だから、わざわざ、同僚の医者を呼んで、
……手遅れにならないうちに。
シュタウデンハイムの、専門家としての、誠意だった。
「大袈裟? そんなことはありません。私はずっと、……1827年夏の、バーデンでの不調を診察してから、殿下の体内には結核が内在していると、申し上げ続けて参りました」
「バーデンの夏?」
ライヒシュタット公は、眉を顰めた。
「あれは、思春期特有の病だということで、片がついた筈です!」
……何者かが、殿下に毒を盛ったのだ!
医師の耳元に訴える声が蘇った。
黒髪の、若者の訴えだ。ベートーヴェンの下働きをしていた、あの……。
シュタウデンハイムも、もしかしたら、あれは毒だったかもしれないと、思わないでもなかった。
……その前年の、皇帝の病と、症状が似すぎている。もしかしたら、何者かが、同じ毒を?
そうなると、しかし、ことは重大になる。もはや、単なる医者の意見では済まされない。きっちりと証拠を提出しなければならない。
だが、時間が経ちすぎていた。幸い、皇帝も孫も回復している。だがその為、もし毒だったとしても、その毒の特定は、もはや叶わない。
当時、政府宰相からも秘密警察からも、ライヒシュタット公毒殺の可能性について、一言も、注意喚起がなかった。疑わしい事案があったなら、当然、主治医の元に、知らせが来るはずだ。
そういったことを、諸々考え合わせると、毒殺未遂という考えは、次第に、荒唐無稽に思われてくる。
要するに、よくわからないのだ。
それに、シュタウデンハイムはすでに、「思春期特有の病」で、診断を出してしまっていた。今更、変えられない。世に聞こえた名医として、ころころ診断を変えるわけにはいかない。
ただ、シュタウデンハイムは、誠実になろうと努めた。彼は患者を睨み、声を張り上げた。
「バーデンでの夏の不調の原因が何であれ、殿下のお体に内在する病を表に顕すのに、一役買ったことは、間違いありません。あの年の夏から冬にかけて、殿下は、しつこい空咳に悩まされました。それまで全くの健康であったにもかかわらず。多分、気管支の痙攣だったのでしょう。肺に押し込められていた病が、目を覚ました証拠です」
「肺に押し込められていた病?」
「ええ。結核です」
プリンスが、息を飲んだ。
シュタウデンハイムは、患者の目を見つめ、残酷な宣告をした。
「私が診察しましたところ、殿下の呼吸の音には、雑音が混じっています。それは、過去に私が診療した結核患者達と、全く同じ音でした。同僚の医師たちも、同じ意見です」
聴診器による間接的診断法が発明されたのは、1816年前後のことである。フランスの、ラエスクという医者が、厚紙を筒状に巻いて、子どもの心音を聞いたのが最初だ。10年も経たないうちに、聴診器を用いた間接聴診法は、最も重要な診察手段になった。
ちなみに、ラエスクは、ナポレオンの主治医だったコルヴィサール医師の、弟子である。師のコルヴィサールは、マリー・ルイーゼの主治医にもなり、ローマ王、即ち、ライヒシュタット公の出産にも、立ち会っている。
聴診器と聴診法を発明した際、ラエスクが参考にしたのは、打診法という診療方法だった。これは、患者の体を叩いて、帰ってくる音で、診断するというものだ。それまで、問診しかなかった臨床の世界で、始めて患者の体に触れる、画期的な診療方法だった。打診法の創始者は、オーストリアの医師アウエンブルガーである。だが、オーストリアでは、一時的な流行で、すぐに廃れてしまった。
埋もれていた打診法を掘り起こし、広く世に広げたのが、ナポレオンの侍医だったコルヴィサールである。ラエスクは、師が掘り起こした打診法を発展させ、聴診器と間接聴診法を開発したのだ。
ナポレオンの侍医……この侍医は、ライヒシュタット公自身の生誕にも立ち会った。仮死状態で生まれた赤子を蘇生させたのは、彼だったと言われている……が、きっかけとなり、彼の弟子によって開発された、診断方法。
まさにその聴診器を使い、今、シュタウデンハイムは、ナポレオンの息子の診察をしている。
この因縁を思うと、同じ医師として、シュタウデンハイムは、複雑な気持ちになる。あたかも、ナポレオンが、冥界からその長い腕を伸ばして、息子を救おうとしているような気がしてならない。
聴診器を用い、初めて、ライヒシュタット公の胸の音を聞いた時は、体に震えが走ったくらいだった。
手遅れになる前に、必ずや、プリンスを救わねばならぬと、改めて、シュタウデンハイムは決意を新たにした。
勇を鼓して、彼は断言した。
「胸の音だけではありません。殿下の首の、腫れ物。それは、間違いなく、
はっと、フランソワは、自分の首筋を抑えた。
そこには、今日も、黒いクラヴァット(首筋に巻く装飾用の布。中に芯が入っているものもある)が、きつく巻き付けられてあった。
あまりきつく締めすぎるのもよくないと、シュタウデンハイムは思うのだが、口には出せない。
気にしていない風を装いながら、プリンスは、首筋の赤く爛れた腫れ物を、ひどく気にしていた。そのことを、とうの昔に、シュタウデンハイムは、見破っていた。
……なにせ、プリンスはまだ、お若いのだ。外見が気になって、当たり前ではないか。
あるいはそのおかげで、女遊びをしないのだろうと、推測していた。
あの、ナポレオンの息子であるにもかかわらず。
さり気なく、医者は、患者の首筋から目をそらせた。
「バーデンで結核が目覚めたのですから、罹患は、1827年より前です。ですが、それ以前は、殿下は健康でした。すると、結核罹患は、もっとずっと前……恐らく、子どもの頃と推測されます」
いずれ、詳しく調査しようと、シュタウデンハイムは決意していた。前任者達の残したカルテを調べ、ディートリヒシュタイン伯爵ら、幼い頃からのプリンスの付き人達に、話を聞こうと思っていた。
なおも、シュタウデンハイムは続けた。
「殿下は、お体の中に、病を隠し持っておられるのです。ですが、まだ、間に合います、どうか、私達医者のアドヴァイスに従って、無理をなさらず、暑さ寒さの変化に留意し、充分休養を取って……」
「それは、軍務を休めということですか?」
鋭い声が遮った。
きつい眼差しが、シュタウデンハイムを睨み据えている。
医師としての良心に鑑み、シュタウデンハイムは、臆せず、この年若い皇族を睨み返した。
「特に、季節の変わり目には、要注意です。有り体に申し上げれば、このままご無理を続けるおつもりなら、長期休養をお勧めします。理想は、軍務など、お辞めになることです」
「軍から離れることはできません。そんなことは、断じて!」
「殿下!」
「僕は、不死身です」
プリンスは言い切った。
やはり、声は枯れている。
それなのに、医師を見下ろし、強い口調で言い募った。
「僕は、あなた方医師に立ち向かうように、季節の変化にも立ち向かいますよ。ですから先生方も、僕の健康について、大げさに考える必要は、全く、ありません」
シュタウデンハイムが亡くなったのは、それから間もなくのことだった。
76歳。死因は、
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