ゾフィーの懐妊
ヴァーサ公グスタフは、いらいらしていた。
何週間も、ゾフィーに会えていない。
図書室での約束の時間にも、シェーンブルンの秘密の
しばらく様子を見ようと思った。
だが、手紙一通、メモ書き一枚、彼女からは、届かなかった。
……そう来るのなら。
潰えた王朝の意地と誇りが、顔をのぞかせた。
スウェーデンの廃太子、ヴァーサは、人から無視され、遠ざけられることが、許せなかった。
ゾフィーの居室を訪うと、出てきたのは、知らない女官だった。
いつも、彼に手紙を届けてくれる、丸顔の若い娘の姿はなかった。
「ゾフィー大公妃は、お会いになれません」
重々しい口調で、女官は言った。
「どうして? グスタフ・ヴァーサが訪ね参ったと、お取次願いたい」
「お会いにならないのは、大公妃のご意思です」
「彼女自らが、そう言ったのか」
「はい」
「嘘だ」
そんな筈はなかった。
最後に会った日のことを、ヴァーサは、はっきりと覚えている。
自分の腕の中で、あんなにも陶酔し、情熱的にしがみついてきた彼女。
……まだ、戻りたくない。
上気した頬、吸い付くような白い腕。
「信じられぬ。そこをのけ。直接会って、話を聞こう」
「なりません」
部屋の入口に、女官は立ちはだかった。
かなり大柄だ。
だが、しょせん、女である。それに、北欧人のヴァーサは、彼女など、ものの数ではないほど、背が高かった。
「逆らわれまいぞ。私は、大公妃に、直接会わねばならぬのだ」
夫のF・カールが留守をしているのは、知っていた。
留守がちな夫だった。
だからこそ、大公妃の側にも、ヴァーサが立ち入る隙ができていたわけで……。
「ヴァーサ公ではありませんか!」
部屋の中から、若い声が、親しげに、呼びかけた。
ヴァーサは、ぎょっとした。
大公妃の部屋から出てきたのは、よく知っている人物だった。
彼の連隊で、訓練に励んでいる……。
「ライヒシュタット公!」
相変わらず、この年若い青年は、溌溂としていた。癪に触ることに、ヴァーサに会えたことを、喜んでいるようにさえ、見受けられる。
嬉しそうに、彼は、顔を輝かせていた。
「ゾフィー大公妃に御用でしたか? だが、生憎と……ああ、もういいよ、バロネス。ヴァーサ公は、僕が、お相手しよう」
その必要もないのに、甘く、優しい声だった。
年輩の女官は、ほっとしたように吐息を吐いた。ちらりとヴァーサを見やり、部屋の中に引っ込んだ。
いいと断ったのに、F・カール大公の、私的なティールームに連れ込まれた。
皇帝の息子のティールームは、無粋な本人とは違って、優美なカップボードが置かれ、東洋の絨毯が、複雑な模様を描いて延べられていた。あちこちに、大輪の花の挿された花瓶が、置かれている。
供されたお茶は、珍しい青磁の器に注がれていた。
「ヴァーサ公。かねがね伺いたいと思っていたのですが……」
茶器を配した侍従が、立ち去るのを待ちかねたように、ライヒシュタット公が口を開いた。
……ゾフィーとの仲を、糾弾されるのか。
ヴァーサは身構えた。
「町中の要塞と、郊外の要塞では、攻略の仕方に、著しい違いが生じます。特に町中の場合は、住民に被害が生じないよう、細心の注意を払って砲撃を行わねばなりません。その場合、要塞に立てこもった敵兵の説得は、どこまでなすべきでしょうか」
「……」
ヴァーサは、呆れた。なぜ、この期に及んで、
だが、軍事の話は、延々と続いた。
主に、ライヒシュタット公が問題提起をして、ヴァーサがそれに答えるという形だった。
ゾフィーの話は、一向に、出てこない。
殆ど上の空で、ヴァーサは、年若い青年からの質問に答えていった。
「あ、すみません、ヴァーサ公。お茶がすっかり冷めてしまいましたね」
小一時間も話し込んだであろうか。
ようやく、ライヒシュタット公は、軍務の話に一段落つけた。
「ゾフィー大公妃にもよく言われるんですよ。軍務の話をさせると、際限がないって」
むしろ誇らしげに、彼は言った。
「……」
仕方なく、ヴァーサは、冷めたお茶を、啜った。
ひどく苦い味がした。
「ヴァーサ公も、お祝いにいらしたのですか?」
冷たいお茶を一息に飲み干し、ライヒシュタット公が尋ねた。
話し続けて、喉が乾いたのだろう。
慌てて飲んだのか、咳き込んでいる。
「お祝い?」
ヴァーサは聞きとがめた。
なんのお祝いだろう。彼女の誕生日は、とっくに過ぎた筈だが……。
「ご懐妊のお祝いですよ! 全くおめでたいことですね! これで、このオーストリアも、安泰です」
「懐妊だと?」
ヴァーサの顔色が変わった。
怪訝そうに、ライヒシュタットは、首を傾げた。
「あれ? ご存知なかったんですか? ご出産は、8月の予定だそうです。さきほどの女官は、バロネス・ストゥムフィーダーといって、新しくお生まれになるお子さまの、養育係を務めるんですよ!」
そうか。
それでゾフィーは、自分を遠ざけたのか。
腑に落ちた思いだった。
だが、妊娠さえすれば、男は、お払い箱なのか?
彼女の寂しさを、無聊を慰めた自分は、用済みだというのか……。
そんなことは許すまい、と、ヴァーサは思った、大公妃の方も、彼との別離は、望んでいないはずだ。
ライヒシュタット公が何か、言っている。
「6年間もお子さまがおできにならなかったのに、本当に、良かった。叔父上も、ほっとしていらっしゃいました。きっと、温泉療法が功を奏したのでしょう。バート・イシュルの温泉地は、オーストリアの聖地にすべきです……」
「ライヒシュタット公、」
無遠慮に、ヴァーサは、青年を遮った。
「妊娠中の婦人の部屋へ、しかも、夫が留守だというのに、君は、入り込んでいたというのか?」
「いやだなあ、将軍」
ころころと、年若い青年は笑いだした。
「ゾフィーは、僕にとって、母……いや、母というと怒られるんだっけ……姉ともいえる人です。優しい女性ですよ、ゾフィーは。長いこと妊娠しなくて、本当に悩んでいて……」
「私の質問に答えろ、ライヒシュタット公」
「はい」
わずかに、ライヒシュタット公は、眉を上げた。だが、上官の命令は絶対だ。軍での習慣を、彼はすぐに、踏襲した。
「本日は、叔父のF・カール大公が、公務で留守をしていて……私は、大公妃の話し相手をするよう、叔父より、申しつかりました。妊娠の初期は、気鬱に陥りやすいと、叔父は、大変心配しておりますので」
にっこりと笑った。
「杞憂ですよ。大公妃はしっかりした方です。体の変化くらいで、気持ちが落ち込むようなことはありません。ましてや、ご懐妊は、長い間の望みであったのですから」
「だが、彼女は、私との面会を拒絶した」
「本当に申し訳ないことです、ヴァーサ公。なんというか、時折、ひどく気分が悪くなられる時があるのです。妊娠は、体に異物が宿るわけですから、仕方のないことだと、さきほどのバロネス・ストゥムフィーダーが教えてくれました」
「そうか……」
全面的に納得したわけではないが、ヴァーサは答えた。少なくとも、ライヒシュタット公は、少しも疑っていない。
ヴァーサのことも。
ゾフィー大公妃のことも。
全く邪気の窺えない笑顔を、彼は浮かべた。
「少し眠りたいと、彼女は言っていました。そろそろ目を覚まされた頃ではないでしょうか。僕、取り次いでみましょうか?」
「いや、結構」
即座に、ヴァーサは断った。
語調がきつ過ぎたかと、後悔した。
「慣れぬお体で、大公妃も、お疲れなのだろう。時間を気にせず、ゆっくりと眠らせてあげなさい」
「ありがとうございます、ヴァーサ公」
自分のことのように恐縮して、
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