楽しくお遊び、ナンディーヌ


 「殿下! でかけますよ」

「モーリツ。また、君か」

「ほら、しゃんとなさい! さあ、お出かけです!」

「今夜はもう……。本当に……」


「ダメです! いいですか? プロケシュ少佐は、殿下の恋人じゃないんですよ? 彼がいなくなったからって、何がどうなるもんでもありません。殿下の恋人は、誰ですか?」

「誰って……」

「ナンディーヌ・カロリィですよ! 決まってるでしょ」

「そう……?」


「そうです! あのね。恋人のところには、日参するものです。だから……あ、そうだ。早くナンディーヌから、美しい爪の秘訣を聞き出して下さいよ! 殿下の爪も、彼女と同じ形に、整えましょう」

「え……?」

「ちょっと! クリーム色のウェストコートチョッキに、緑のクラバット(ネクタイの原型)はいけません。お顔がぼやけて見えます。クラバットは、青になさい」


「……うまく結べない」

「私が結んであげます。うん。これでよし! 大変、男前に見えます。自信を持って、さあ、出かけましょう」







 「彼は、今日も来ているのかね?」

カロリィ伯爵は、妻に尋ねた。

「そのようですわね」

名門カウニッツ家出身の妻は、つんとして答えた。

「ナンディーヌの部屋に?」

「まさか。客間にお通ししましたわ」

「客間? 粗相はないだろうね?」

なんといっても、相手は、皇帝の孫である。

「……」

 夫人は答えなかった。


 再び、そわそわと、伯爵は尋ねる。

「ナンディーヌは?」

「着替え中です」

「お前、彼を待たせるなんて……」

「しようがないでしょう? いきなりいらっしゃるんですから。あの、エステルハージの息子と一緒に」

「ああ、モーリツか」

カロリィ伯爵はため息をついた。

「いつも二人は、一緒に来るな」

「……」

今回も、夫人は、押し黙ったままでいる




 「こんにちは、おじ様! ごきげんよう、おば様!」

明るい声が、重苦しい沈黙を破った。

 ナンディーヌの年上の女友達、ルル・チュアハイム伯爵令嬢が入ってきた。


「おお、ルル!」

カロリィ男爵が答えた。

「ナンディーヌと約束か?」


「ええ。この頃、お天気がいいんですもの。私達、プラーター辺りまで足を伸ばしてみるつもりなの」

「だが、あいにくとナンディーヌは来客中で……」

カロリィ伯爵が言いかけた時だった。

「ちょっと様子を見てきますわ」

夫人が、立ち上がった。ルルに目配せして、部屋を出ていく。



 「いらしているのは、ライヒシュタット公ね」

夫人の姿が見えなくなると、ルルは尋ねた。

「モーリツ・エステルハージをお供に連れて。当たりでしょ、おじ様」

「ああ。モーリツも一緒だ。……なぜ知ってるんだね?」

「なぜって……」

ルルは含み笑いを漏らしただけで、答えなかった。


 「ルル。教えておくれ。あの方は、ナンディーヌに、気があるのだろうか」

途方にくれたように、カロリィ伯爵は尋ねた。

「毎日のように、うちの客間にいらっしゃるんだが」

「客間?」

「そこから先は、妻が、通さないからね。失礼ではないかと、私は、心配で。もし、あの方が、うちの娘に求婚したらと思うと」

「どうかしらね」


 ルルは、ひょいと手を伸ばした。

 皿に盛られたいちごをつまむ。

 そのまま口に放り込んだ。


「このあいだ、彼、間違って私と踊ったわ」

「間違って?」

「ナンディーヌが仮面を被っていたから。同じのを、私も」

「……」


 ……仮面が同じだったくらいで、自分の想い人を間違えるだろうか。

 カロリィ伯爵は、疑問に思った。

 少なくとも、彼は、妻を見誤りはしないだろう。もっともそれは、愛というより、恐怖によってだが。


「私の前でね、彼、ひょいと、オペラグラスを外したの。すると金色の髪が、ぱあーっと額に散らばって。間近で見る彼は、遠くから見るより、ずっとずっと、ハンサムだったわ」

ルルは、両手で胸を抱くようにした。

「他の客たちが、バッカスの狂宴のように踊り狂っている間に、私と彼は、通常のゴシップ話を超える、深い話をしたの。聞いて下さる、おじ様」


 彼女の雰囲気に押され、カロリィ男爵は、頷いた。


『今宵貴女は、僕のことを、狂気じみた男だと思われたでしょうね』

彼は言ったわ。


『人には、ふたつの時間があるのです』

私は答えたの。落ち着いた、丁寧な声でね!


『ひとつは、過去からの時の流れ。もうひとつは?』

『いいえ、プリンス。ひとつは、今、私達が属している、この狂乱の時間。そしてもうひとつは、円熟した大人の時間ですわ』


年上の女性として、私は、彼の軽はずみなお誘いをやんわりと断ったのよ!


 ルルは言い、カロリィ伯爵は首を傾げた。

 今の会話のどこに、プリンスからのお誘いがあったのだ?

 カロリィ伯爵の疑問などものともせず、ルルは続けた。


「彼は私に、通常の社交というものに、うんざりしていると語ったわ。本を読んでいる方がずっといいって」

「……彼は、変人なのか?」


 にわかに危惧を覚え、カロリィ伯爵は尋ねた。

 いくら皇帝の孫でも、娘の相手が変人では困る。

 ぶんぶんと、ルルは首を横に振った。


「もちろん、違うわ。いいから、聞いて!


『僕はずっと孤独だった』

彼は言ったわ。

『だから、孤独が怖いわけじゃない。僕は、いつも一人だった。なぜなら、僕の地位は特殊なものだからだ。たとえるなら……』


彼はためらったわ。だから、私が言って差し上げたの。


(※鷲は、ナポレオンを指す)とか?』

『いいや。むしろ、養鶏場のニワトリだ。僕の周りの人は、皆、自由だ。でも、僕にできることと言ったら、羽を羽ばたかせることだけ』

『殿下。御自分をニワトリなどにたとえては、いけません』


私は優しく叱ってさしあげたの。すると彼は、少しだけ、笑った。


『じゃ、朝日を待つニワトリに例えたらいいのかな?』

そして、少し真剣な顔をして付け加えたわ。

『さしあたって、今の僕は、ブルノへ赴任するより大きな望みを抱いてはいない。もう少し長期的に見ても、オーストリア軍の将軍になることくらいしか。それが、僕のキャリアの限界、運命というやつなのさ』


 意味ありげな含みを持たせ、ルルは、話を終わらせた。



「……」

 カロリィ伯爵は、思い出した。

 そうだった。

 彼は、皇帝の孫であるとともに、ナポレオンの息子でもあったのだ。

 メッテルニヒに囚われの彼には、大した出世は見込めない。

 その上、彼は、大公でもない。ただの公爵だ。春になったら赴く駐屯地も、辺鄙な田舎ブルノで……。

 春になったら、彼は、ナンディーヌを、ブルノへ連れて行ってしまうのだろうか……。







 「それで、彼は、あなたに、手紙のひとつでも、ことづけたのかしら」


 ナンディーヌのコルセットの紐を、ぎゅうぎゅう締め上げながら、カロリィ伯爵夫人は尋ねた。

 眼の前の机に手を突き、ナンディーヌは、息を詰める。


「手紙? いいえ、お母様。ちょくちょくいらっしゃるのに、そんなもの、必要ないんじゃなくて?」

「だって、いつも、あの、モーリツ・エステルハージが一緒じゃないの。あれじゃ、あなたと二人きりで、親密な話なんか、できないでしょう?」


「そうね」

ナンディーヌは、くすりと笑った。

「モーリツが席を立とうとすると、彼、すごく心細そうな顔をするの。まるで、お母さんにおいていかれそうになった子どもみたいよ! それでモーリツも、つい、また、椅子に座って……痛い! 痛いわ、お母様。締めすぎよ!」


「我慢をおし。殿方は、腰が細いのがお好みなのよ。……じゃ、この間、彼とモーリツが、二人で、庭を散歩していたのも? あなたをおいて」

「モーリツは、気を利かせたつもりだったのよ! そしたら、殿下が、一緒についていっちゃったの」


 ほうと、カロリィ夫人は、深いため息をついた。

「念のために聞くけどね、ナンディーヌ。彼は、あなたの、手のひとつも、握ったことがあるのかしら?」

「ないわ」

「ハグとか、キスは?」

「あるわけないじゃないの」


 ナンディーヌは即答した。

 慌てて付け足す。


「でも、彼、私のことが好きなんですって。モーリツが言っていたわ」

「モーリツねえ」

再び、カロリィ夫人はため息を付いた。

「どちらかというと、彼のほうが、あなたにふさわしい気がするけどねえ」

「ひどいわ、お母様」

「ひどくなんかありませんよ。エステルハージ家のドラ息子のほうが、ナポレオンの息子より、なんぼかマシというものですよ」


「ナポレオンの息子なのは、彼のせいじゃないわ!」

「でも、あの血を受け継いでるのよ」

「彼は、戦争狂いじゃないから。戦争に行きたがってはいるけど」

「戦争? 何の話? そんなのは、殿方に任せておけばいいの。問題はね、ナンディーヌ。彼の父親ナポレオンが、どうしようもない女好きだったってことよ」

「え?」


「奥さんが二人、子どもを産ませたのが3人、そのうちの一人は、セント・ヘレナまでついてきた、忠臣の奥さんよ! ま、生まれてすぐに死んじゃったみたいだけど。それでもって、手を付けた女は、数知れず」

「……よく知ってるわね、お母様」


「父親のナポレオンだけじゃないわ。ここだけの話、母親のマリー・ルイーゼ様だって、ナポレオンが生きているうちから、不倫、」

「その話はしちゃいけないって、モーリツが!」

「おだまり! あのね、ナンディーヌ」


 母は、娘の正面に回った。

 その目を覗き込む。


「私は、あなたが心配なの。父親、母親、どっちに転んでも、彼には、淫蕩の血が流れているんだから」

「それは、いくらなんでも、言い過ぎじゃ……」

「そんなことはありません! そもそも、ナポレオンの息子なんかと噂が立ったら、これから先、あなたに、まともな縁談なんか、見込めないわ」

「いいじゃない。とりあえず今は、彼がいるんだし」


「彼があなたに、結婚を申し込むと思う?」

ずばりと母は踏み込んだ。

「彼は、この国の切り札よ。フランスとの間のカード。イタリアにも使えるかもしれない。ポーランドを通せば、ロシアにも有効だわ。なんといっても彼は、メッテルニヒ宰相の喉に刺さった棘だもの」

「……あ、それ、聞いたことがある」


 懸命に思い出そうと、ナンディーヌは、眉間に皺を寄せている。

 母は、鼻を鳴らした。


「つまり彼には、この先いくらでも、いい縁談が見込まれるってこと。何も、あなたを選ばなくてもね!」

「お母様! あんまりだわ!」

「でも、あなたは、私の大事な娘よ」


打って変わって、母の言葉は慈愛深かった。


「あなたには、幸せな結婚をしてほしいわ。政治とか外交とかでケチのつくことない、平凡な、当たり前の結婚を、ね」

「あの、……お母様? 私もまさか、彼との結婚を、本気で考えているわけじゃないのよ?」


上目遣いに母の顔を見上げ、おずおずと娘が口にする。


「そうでしょうとも」

母は、大きく頷いた。

「私の娘ですもの、そのくらいの分別はあると信じていたわ!」


「モーリツが紹介してくれたから、ちょっとおつきあいしているだけよ」

「遊ぶのは結構。一流の貴公子なんだから、楽しい思いもさせてくれるでしょう」

「……それはどうかしら」

「でも、いつも言ってるでしょ? 相手には、悪い評判が立たない男を選びなさい、って」

「大丈夫よ。彼は私に、何もしやしないから」

「それが問題なのよ。何もないのに、悪い評判だけが立つって、最悪じゃない?」

「……」


ナンディーヌは考え込んでしまった。


「つかず離れず。それが、お付き合いの基本よ。人からねたまれない程度に、距離を置くの。彼には、これは、青春の気の迷い、ただのお遊びだってことを、きっちりわかってもらわないと、ね!」


 ナンディーヌは、大きく目を見開いた。

 彼女は、将来のことは、あまり考えてはいなかった。ただ、もし……、彼との交際が続いたら……、自分も、「公妃」になることができるかもしれない……という、淡い未来を、時折、夢想していた。


 夢想だった。

 それほど、相手の態度は、素っ気なかったから。なにしろ、二人きりで会ったことさえないのだ。


 カロリィ夫人は、うっとりとした様子で、胸の前で手を組んでみせた。

「そりゃあね。あんなに素敵な青年ですもの。袖にするなんて、できっこないのは、よくわかるわ。できたら、私の恋人にしたいくらいだもの」


「あら、ダメよ。彼は、私のものだわ!」

 即座に娘は、言い返した。むくれている。


 母は、笑いだした。

「ほら、それ。いつも言ってるでしょ? 独占欲まる出しにしたらだめ! 殿方が離れていっちゃうから」


 娘のぽってりとした唇から、紅が、少しだけはみ出している。母はそれを、親指の腹で、きゅっと拭った。


「笑って笑って……そう。あなたは、馬鹿っぽいくらいが、ちょうどいいのよ」

「私、かわいい?」

「可愛いわ。すごくすごく。だからね。人から、やっかまれないように。それから、後あと残る、悪い噂が立たないように。そしたらね、」


母は優しく、娘にキスをした。

「若い時は、一瞬よ。楽しくお遊び。ナンディーヌ」

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