楽しくお遊び、ナンディーヌ
「殿下! でかけますよ」
「モーリツ。また、君か」
「ほら、しゃんとなさい! さあ、お出かけです!」
「今夜はもう……。本当に……」
「ダメです! いいですか? プロケシュ少佐は、殿下の恋人じゃないんですよ? 彼がいなくなったからって、何がどうなるもんでもありません。殿下の恋人は、誰ですか?」
「誰って……」
「ナンディーヌ・カロリィですよ! 決まってるでしょ」
「そう……?」
「そうです! あのね。恋人のところには、日参するものです。だから……あ、そうだ。早くナンディーヌから、美しい爪の秘訣を聞き出して下さいよ! 殿下の爪も、彼女と同じ形に、整えましょう」
「え……?」
「ちょっと! クリーム色の
「……うまく結べない」
「私が結んであげます。うん。これでよし! 大変、男前に見えます。自信を持って、さあ、出かけましょう」
*
「彼は、今日も来ているのかね?」
カロリィ伯爵は、妻に尋ねた。
「そのようですわね」
名門カウニッツ家出身の妻は、つんとして答えた。
「ナンディーヌの部屋に?」
「まさか。客間にお通ししましたわ」
「客間? 粗相はないだろうね?」
なんといっても、相手は、皇帝の孫である。
「……」
夫人は答えなかった。
再び、そわそわと、伯爵は尋ねる。
「ナンディーヌは?」
「着替え中です」
「お前、彼を待たせるなんて……」
「しようがないでしょう? いきなりいらっしゃるんですから。あの、エステルハージの息子と一緒に」
「ああ、モーリツか」
カロリィ伯爵はため息をついた。
「いつも二人は、一緒に来るな」
「……」
今回も、夫人は、押し黙ったままでいる
「こんにちは、おじ様! ごきげんよう、おば様!」
明るい声が、重苦しい沈黙を破った。
ナンディーヌの年上の女友達、ルル・チュアハイム伯爵令嬢が入ってきた。
「おお、ルル!」
カロリィ男爵が答えた。
「ナンディーヌと約束か?」
「ええ。この頃、お天気がいいんですもの。私達、プラーター辺りまで足を伸ばしてみるつもりなの」
「だが、あいにくとナンディーヌは来客中で……」
カロリィ伯爵が言いかけた時だった。
「ちょっと様子を見てきますわ」
夫人が、立ち上がった。ルルに目配せして、部屋を出ていく。
「いらしているのは、ライヒシュタット公ね」
夫人の姿が見えなくなると、ルルは尋ねた。
「モーリツ・エステルハージをお供に連れて。当たりでしょ、おじ様」
「ああ。モーリツも一緒だ。……なぜ知ってるんだね?」
「なぜって……」
ルルは含み笑いを漏らしただけで、答えなかった。
「ルル。教えておくれ。あの方は、
途方にくれたように、カロリィ伯爵は尋ねた。
「毎日のように、うちの客間にいらっしゃるんだが」
「客間?」
「そこから先は、妻が、通さないからね。失礼ではないかと、私は、心配で。もし、あの方が、うちの娘に求婚したらと思うと」
「どうかしらね」
ルルは、ひょいと手を伸ばした。
皿に盛られたいちごをつまむ。
そのまま口に放り込んだ。
「このあいだ、彼、間違って私と踊ったわ」
「間違って?」
「ナンディーヌが仮面を被っていたから。同じのを、私も」
「……」
……仮面が同じだったくらいで、自分の想い人を間違えるだろうか。
カロリィ伯爵は、疑問に思った。
少なくとも、彼は、妻を見誤りはしないだろう。もっともそれは、愛というより、恐怖によってだが。
「私の前でね、彼、ひょいと、オペラグラスを外したの。すると金色の髪が、ぱあーっと額に散らばって。間近で見る彼は、遠くから見るより、ずっとずっと、ハンサムだったわ」
ルルは、両手で胸を抱くようにした。
「他の客たちが、バッカスの狂宴のように踊り狂っている間に、私と彼は、通常のゴシップ話を超える、深い話をしたの。聞いて下さる、おじ様」
彼女の雰囲気に押され、カロリィ男爵は、頷いた。
「
『今宵貴女は、僕のことを、狂気じみた男だと思われたでしょうね』
彼は言ったわ。
『人には、ふたつの時間があるのです』
私は答えたの。落ち着いた、丁寧な声でね!
『ひとつは、過去からの時の流れ。もうひとつは?』
『いいえ、プリンス。ひとつは、今、私達が属している、この狂乱の時間。そしてもうひとつは、円熟した大人の時間ですわ』
年上の女性として、私は、彼の軽はずみなお誘いをやんわりと断ったのよ!
」
ルルは言い、カロリィ伯爵は首を傾げた。
今の会話のどこに、プリンスからのお誘いがあったのだ?
カロリィ伯爵の疑問などものともせず、ルルは続けた。
「彼は私に、通常の社交というものに、うんざりしていると語ったわ。本を読んでいる方がずっといいって」
「……彼は、変人なのか?」
にわかに危惧を覚え、カロリィ伯爵は尋ねた。
いくら皇帝の孫でも、娘の相手が変人では困る。
ぶんぶんと、ルルは首を横に振った。
「もちろん、違うわ。いいから、聞いて!
『僕はずっと孤独だった』
彼は言ったわ。
『だから、孤独が怖いわけじゃない。僕は、いつも一人だった。なぜなら、僕の地位は特殊なものだからだ。たとえるなら……』
彼はためらったわ。だから、私が言って差し上げたの。
『止まり木に止まった鷲の子(※鷲は、ナポレオンを指す)とか?』
『いいや。むしろ、養鶏場のニワトリだ。僕の周りの人は、皆、自由だ。でも、僕にできることと言ったら、羽を羽ばたかせることだけ』
『殿下。御自分をニワトリなどにたとえては、いけません』
私は優しく叱ってさしあげたの。すると彼は、少しだけ、笑った。
『じゃ、朝日を待つニワトリに例えたらいいのかな?』
そして、少し真剣な顔をして付け加えたわ。
『さしあたって、今の僕は、ブルノへ赴任するより大きな望みを抱いてはいない。もう少し長期的に見ても、オーストリア軍の将軍になることくらいしか。それが、僕のキャリアの限界、運命というやつなのさ』
」
意味ありげな含みを持たせ、ルルは、話を終わらせた。
「……」
カロリィ伯爵は、思い出した。
そうだった。
彼は、皇帝の孫であるとともに、ナポレオンの息子でもあったのだ。
メッテルニヒに囚われの彼には、大した出世は見込めない。
その上、彼は、大公でもない。ただの公爵だ。春になったら赴く駐屯地も、
春になったら、彼は、
*
「それで、彼は、あなたに、手紙のひとつでも、ことづけたのかしら」
眼の前の机に手を突き、ナンディーヌは、息を詰める。
「手紙? いいえ、お母様。ちょくちょくいらっしゃるのに、そんなもの、必要ないんじゃなくて?」
「だって、いつも、あの、モーリツ・エステルハージが一緒じゃないの。あれじゃ、あなたと二人きりで、親密な話なんか、できないでしょう?」
「そうね」
ナンディーヌは、くすりと笑った。
「モーリツが席を立とうとすると、彼、すごく心細そうな顔をするの。まるで、お母さんにおいていかれそうになった子どもみたいよ! それでモーリツも、つい、また、椅子に座って……痛い! 痛いわ、お母様。締めすぎよ!」
「我慢をおし。殿方は、腰が細いのがお好みなのよ。……じゃ、この間、彼とモーリツが、二人で、庭を散歩していたのも? あなたをおいて」
「モーリツは、気を利かせたつもりだったのよ! そしたら、殿下が、一緒についていっちゃったの」
ほうと、カロリィ夫人は、深いため息をついた。
「念のために聞くけどね、ナンディーヌ。彼は、あなたの、手のひとつも、握ったことがあるのかしら?」
「ないわ」
「ハグとか、キスは?」
「あるわけないじゃないの」
ナンディーヌは即答した。
慌てて付け足す。
「でも、彼、私のことが好きなんですって。モーリツが言っていたわ」
「モーリツねえ」
再び、カロリィ夫人はため息を付いた。
「どちらかというと、彼のほうが、あなたにふさわしい気がするけどねえ」
「ひどいわ、お母様」
「ひどくなんかありませんよ。エステルハージ家のドラ息子のほうが、ナポレオンの息子より、なんぼかマシというものですよ」
「ナポレオンの息子なのは、彼のせいじゃないわ!」
「でも、あの血を受け継いでるのよ」
「彼は、戦争狂いじゃないから。戦争に行きたがってはいるけど」
「戦争? 何の話? そんなのは、殿方に任せておけばいいの。問題はね、ナンディーヌ。
「え?」
「奥さんが二人、子どもを産ませたのが3人、そのうちの一人は、セント・ヘレナまでついてきた、忠臣の奥さんよ! ま、生まれてすぐに死んじゃったみたいだけど。それでもって、手を付けた女は、数知れず」
「……よく知ってるわね、お母様」
「父親のナポレオンだけじゃないわ。ここだけの話、母親のマリー・ルイーゼ様だって、
「その話はしちゃいけないって、モーリツが!」
「おだまり! あのね、ナンディーヌ」
母は、娘の正面に回った。
その目を覗き込む。
「私は、あなたが心配なの。父親、母親、どっちに転んでも、彼には、淫蕩の血が流れているんだから」
「それは、いくらなんでも、言い過ぎじゃ……」
「そんなことはありません! そもそも、ナポレオンの息子なんかと噂が立ったら、これから先、あなたに、まともな縁談なんか、見込めないわ」
「いいじゃない。とりあえず今は、彼がいるんだし」
「彼があなたに、結婚を申し込むと思う?」
ずばりと母は踏み込んだ。
「彼は、この国の切り札よ。フランスとの間のカード。イタリアにも使えるかもしれない。ポーランドを通せば、ロシアにも有効だわ。なんといっても彼は、
「……あ、それ、聞いたことがある」
懸命に思い出そうと、ナンディーヌは、眉間に皺を寄せている。
母は、鼻を鳴らした。
「つまり彼には、この先いくらでも、いい縁談が見込まれるってこと。何も、あなたを選ばなくてもね!」
「お母様! あんまりだわ!」
「でも、あなたは、私の大事な娘よ」
打って変わって、母の言葉は慈愛深かった。
「あなたには、幸せな結婚をしてほしいわ。政治とか外交とかでケチのつくことない、平凡な、当たり前の結婚を、ね」
「あの、……お母様? 私もまさか、彼との結婚を、本気で考えているわけじゃないのよ?」
上目遣いに母の顔を見上げ、おずおずと娘が口にする。
「そうでしょうとも」
母は、大きく頷いた。
「私の娘ですもの、そのくらいの分別はあると信じていたわ!」
「モーリツが紹介してくれたから、ちょっとおつきあいしているだけよ」
「遊ぶのは結構。一流の貴公子なんだから、楽しい思いもさせてくれるでしょう」
「……それはどうかしら」
「でも、いつも言ってるでしょ? 相手には、悪い評判が立たない男を選びなさい、って」
「大丈夫よ。彼は私に、何もしやしないから」
「それが問題なのよ。何もないのに、悪い評判だけが立つって、最悪じゃない?」
「……」
ナンディーヌは考え込んでしまった。
「つかず離れず。それが、お付き合いの基本よ。人から
ナンディーヌは、大きく目を見開いた。
彼女は、将来のことは、あまり考えてはいなかった。ただ、もし……、彼との交際が続いたら……、自分も、「公妃」になることができるかもしれない……という、淡い未来を、時折、夢想していた。
夢想だった。
それほど、相手の態度は、素っ気なかったから。なにしろ、二人きりで会ったことさえないのだ。
カロリィ夫人は、うっとりとした様子で、胸の前で手を組んでみせた。
「そりゃあね。あんなに素敵な青年ですもの。袖にするなんて、できっこないのは、よくわかるわ。できたら、私の恋人にしたいくらいだもの」
「あら、ダメよ。彼は、私のものだわ!」
即座に娘は、言い返した。むくれている。
母は、笑いだした。
「ほら、それ。いつも言ってるでしょ? 独占欲まる出しにしたらだめ! 殿方が離れていっちゃうから」
娘のぽってりとした唇から、紅が、少しだけはみ出している。母はそれを、親指の腹で、きゅっと拭った。
「笑って笑って……そう。あなたは、馬鹿っぽいくらいが、ちょうどいいのよ」
「私、かわいい?」
「可愛いわ。すごくすごく。だからね。人から、やっかまれないように。それから、後あと残る、悪い噂が立たないように。そしたらね、」
母は優しく、娘にキスをした。
「若い時は、一瞬よ。楽しくお遊び。ナンディーヌ」
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